「ヨセフの決断」
説教集
更新日:2025年12月06日
2025年12月7日(日)待降節第2主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村 満
マタイによる福音書1章16~25節
16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
17こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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1,イエス・キリスト誕生の次第
本日、待降節第2主日に与えられました御言葉はマリアの夫となり、主イエスの地上の父親の役目を担うヨセフの物語であります。このヨセフという人の物語はこの箇所が最も豊かに語られている箇所であり、その他の箇所では、身重のマリアとベツレヘムに住民登録に行く場面くらいで、主イエスが成人されたときにはもはや登場しません。おそらく亡くなってしまったのではないかと言われております。そのようにマリアに比べて出番の少ないヨセフであります。わたしたち銀座教会の会堂に、外堀通りから入る入口があります。その入り口から入ってすぐに第三次会堂の建物の片鱗が飾られております通路を通過して左を見ますと、ヨセフと少年イエスの人形が飾っております。初めて私が見た時、よくできているなと感心したのです。これはジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家が描いた「大工ヨセフ」という絵画を立体化したものですが、原作の絵の雰囲気を良く醸し出していると思います。このようにヨセフを題材にした絵も、マリアよりは少ないのですが、確かにあります。このヨセフがどのような人であったのか、このマタイの1章に語られている以上はよくわかりません。しかし、正しい人であったとだけ語られている。その正しさのゆえに、彼はマリアを愛しながらも、離縁しようと決断せざるを得なかったのだと思います。このヨセフの懊悩と、信仰による新たな決断について聞いていきたいのです。
2,正しさの限界
マリアから、お腹に子供がいると聞いたとき、ヨセフはとても悩みました。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19)とあります。マリアが、この出来事をどのように伝えたのかはわかりません。もしかするとこう伝えたかもしれない。……「ねえヨセフさん、信じられないかもしれないけど、聞いてほしいの。天使がわたしに告げたのよ。『あなたは身ごもって、男の子を産む。その子はいと高き方の子。救い主だ』って。わたし、救い主を生むために神様に選ばれたの。このお腹の赤ちゃんは救い主なの。信じてくれるかしら。」おそらく、そう告白したのではないでしょうか。でももしマリアが真実を告げても、それをそのまま信じる男がどこにいるでしょうか。この娘は私という男がありながら、誰かとねんごろになって子供ができて、そんなすぐばれるような嘘をついているんだ。なんてひどい女だ。そう思うのがほとんどでしょう。いずれにせよ、ヨセフは、マリアに失望しました。そして深く悩みました。なぜならヨセフはマリアを愛していましたし、彼女と結婚する日を心から待ち望んでいたからです。自分ではない誰かを愛し、子供を身ごもったマリアをこれまでのように愛することはできない。けれども私はマリアが姦淫の罪で死刑になってほしくない。それぐらいなら、密かに縁を切ろう。表に出さないことで、マリアと関係を持った男がマリアを引き取るだろう。そう思ったのかもしれません。ヨセフの心の苦しみは深かったのです。人間として、男として、婚約者の裏切りに対する怒り。妬み。失望。それでもマリアを愛する思いがないまぜになった、とても重い悩みであったに違いありません。ヨセフの悩みは、自分ではとても抱えきれないものであったでしょう。ヨセフは正しい人であったとあります。しかしこれが人間のもつ正しさの限界であると思います。律法で彼女を裁くのでは、あまりに厳しい裁きが彼女を待ち受けています。だから密かに離縁することで、彼女を守ろうとしたのです。しかしそれがヨセフという人の限界でありました。自分の子どもではないお腹の子どもまで引き取って、マリアの弱さを包み込んで受け入れるという、そこまで広い心はヨセフにはありませんでした。考えてみますと、正義とか、正論とかいうものは、その人の立場や主観によって随分と変わってしまうものではないでしょうか。すこし角度を変えてみると、その人の正しさは、ある人々にとってひどい傲慢や悪であるということがあります。戦争などを考えるとそうであります。それぞれの国が、自分の国の立場での正義を振りかざします。それぞれに正義があります。しかし全ての人々に普遍的で間違いのない、平等な正義ではないのです。正論というものもそうです。正しいことだけが事柄を解決するとは限りません。時に、正論は人を傷つけます。正しさだけでは、人は救われないのです。もちろん、人間の罪を暴き、明るみに出すべき正しさももちろん大切です。悪を放っておくことで多くの人々が苦しむからです。しかしそれをただ裁き、断罪するだけでは人は救われません。罪を犯したその人を赦し受け入れる愛こそが、真実の正しさなのではないでしょうか。
3,神様の正義
「あんぱん」という朝のドラマがついこの間まで放送されていました。アンパンマンの作者やなせたかしとその奥様の物語です。(ドラマでは少し苗字を変えていました。)その二人は、太平洋戦争を経験しました。主人公ののぶは、軍国少女となり、お国のために死ぬのは名誉なことだと考えていました。しかし日本は戦争に負けて、国がガラッと価値観を変えてしまったことに深い失望を感じます。正義だと思っていたことが逆転してしまったのです。やなせさんも戦争で多くの傷を負い、何を信じればよいか。何が本当の正しさなのかを考えます。やがて二人は、逆転しない正義とは何か、深く考えるようになります。そして、自分の顔をちぎって、敵にも味方にも食べさせてあげるヒーロー。アンパンマンが生まれたのです。あのドラマに主人公の信仰生活やキリスト教会が全然出て来なかったのには少しばかりがっかりしましたが、やはりそれは仕方がないことなのでしょう。主人公のモデル、やなせたかしさんがクリスチャンであることはあまり知られていないかもしれませんが、実はアンパンマンは主イエス・キリストをモチーフにした作品なのですね。アンパンマンの作者、やなせさんが願い求めた正義。逆転しない普遍的な正義。それは神様の正義です。そしてその正義は、主イエスを通して表された、全ての罪を赦すために十字架におかかりになった自己犠牲の愛と一つなる正義なのです。そしてこの主イエスの降誕にあたって、神は、御子をお遣わしになるときに、御子と関りを持つ人々に、御子と同じ十字架の道を歩ませようとしておられるのではないでしょうか。ヨセフもまた、主イエスの地上の父親として選ばれたとき、同時に、自分の思いを捨てて神の御心に生きる道。ヨセフ自身の十字架を負う道を与えられたのではないでしょうか。
4,天使のお告げ
迷い悩むヨセフが眠りに落ちた時、主は天使を通して主の御心をヨセフに語りかけました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このお告げは、ヨセフにとって衝撃的なお告げであったのではないでしょうか。ヨセフはマリアが嘘を言っているのだろうと思い、マリアを赦すこともできず、かといって訴えることもできずどうしようか悩んでいました。けれども、マリアが言っていることは嘘ではなかった。本当にマリアのお腹には救い主がおられる。しかも聖霊によって授かっている。ヨセフの知らない誰かがマリアを奪ったのではないのです。聖霊の信仰。そして神が直接に女性に子供を授けることも、ユダヤの信仰では考えられませんでした。ヨセフにとってそれを信じることは異教的なものとさえ感じたことでしょう。けれども、神は全能であり、神にできないことはない。そのことをおそらくヨセフは信じていました。そして最後の天使の言葉「この子は自分の民を罪から救うからである。」このような重大な出来事のゆえにマリアに救い主が授けられたのならば、自分のような一介の大工に何も口をはさむ権利はない。そう思えるだけの信仰をヨセフは持ち合わせていたのだと思います。そしてヨセフはこのお告げによって確かに救われました。彼は自分の正しさの限界に苦しんでいました。しかし、自分の信仰のあり方。自分の正しさ。その限界を超えて導いてくださる神がおられる。マリアを正式に妻として迎えて良いのだ。そのお腹にいる子供を、神から託された子供としてマリアと共に育てていこう。私にはよくわからないけれども、ここには確かな神の御計画があるのだ。そういう思いが、深い平安と共にヨセフの心に注がれていったのではない
でしょうか。
5,主の御心を求めて
実に、この時のヨセフとは状況も事柄も何もかも違うかもしれませんけれども、私たちの人生にも、自分の考える正しさによって物事を判断し、決断していくとき、どうしても行き詰まってしまうようなことというのがあるのではないでしょうか。自分ではこのような決断しかできない。これが正しいと思う。しかしそれは自分の都合や自分の弱さや、損得勘定や、隣人への愛情や、あるいは憎しみなども含んださまざまな思いも含めての限界としてこういう決断しかできない。そういうところに立つことがあるのではないでしょうか。そういうところでなおもう一歩進めて、わたしたちはそれが主の御心に沿うものであるのかどうかを考えていきたいのです。あるいはそのように御心を求めていく時、主が私たちの思いを越えて新しい道を開いてくださるかもしれません。私たちの決断を越えた、主のご計画を示してくださるかもしれません。たとえそうでなくとも、私たちの決断に、主は伴ってくださいます。たとえ間違った決断。間違った判断をしたとしても、主はそのようなわたしたちの歩みの全てを、その深い御計画の中に置いてくださっているからです。主の御許しなしには何も起こらないのです。わたしたちの人生は、最初から最後まで、主イエスの十字架の中に。主の大いなる赦しの中に。救いのご計画の中にあって進んでいるからであります。もしかすると、旧約聖書のヨナ書の、預言者ヨナのように、初め、神の御心に逆らうような決断をしたとしても、主によって連れ戻される。そのようなこともあるいはあるかもしれません。しかし、わたしたちがその決断に迷うようなときには、主の御心が成りますように。主の御栄光が現われる方を歩むことができますように。そのように祈って行きたいのです。主は、私たちなしでもその御計画を遂行して行くことがおできになりますけれども、私たちを通して、この地上に栄光を表そうとしてくださるからです。主の祈りの「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを祈る時に、その祈りを祈るこの私において、まずこの自分の人生においてこそ、主の御心が成りますようにと祈って行きたいのです。ヨセフはそのようにして、主の御心を選び、主の御心において救い主の地上での養父となりました。幼子イエスを愛し、マリアと共に育てるという大切な働きを担う者とされたのです。
6,神の救いの系図
最後にこのことを伝えて終わりたいと思います。本日与えられました御言葉の初めに、キリストの系図の最後の部分を読んでいただきました。もう一度お読みします。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」ヤコブからヨセフ、と来て、その妻であるマリアからメシアが生まれたのです。ヨセフがもし頑なになってマリアを拒んでしまったならば、この系図が成り立たないのです。ヨセフの信仰による決断が、確かに神の救いのご計画の中にあるのだということがわかります。私たちもそうなのです。わたしたちの信仰による決断が、この地上における神の御心を成就していく。ここにいる皆さんお一人お一人がこの世界の将来を創って行くのです。それほどまでに、わたしたちは、重要な働きを担っているのです。どうか、私たちの歩みが主の御心に沿うものとなりますように。わたしたちが迷う時、神の御心を求め、神の栄光がなる歩みができますように。そのようにしてこの地上に、神の御支配がなりますように。お祈りをいたします。
天の父なる神様。
ヨセフの悩み、苦しみの中にあなたが共にいてくださり、御心を示してくださいました。ヨセフは主の御心に立つ決断をしました。どうか私たちも、迷う時、思い悩むとき、あなたの御心が成ることを第一に願う者とならせてください。そのことでたとえ私たちが十字架の道を歩むときにも、そこにあなたが伴ってくださり、その歩みを喜ぶ者とならせてくださいますように。クリスマス。キリストの降誕を待ち望むこの時を祝福してください。クリスマスの喜び。神共にいます喜びが、わたしたちの生活にいつも与えられますようにこの祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン