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銀座の鐘

「祝福の源なる主イエス」

説教集

更新日:2026年01月04日

2026年1月4日(日)降誕後第2主日 銀座教会 新年礼拝 牧師 髙橋 潤

ルカによる福音書2章21~32節

 主の年2026年を迎え、共に新年礼拝をおささげ出来る幸いを感謝いたします。
 本日与えられた御言葉は、主イエスが誕生八日目割礼を受け、マリアが清めの期間が過ぎた頃、ヨセフとマリアは幼子主イエスを連れてナザレからエルサレム神殿に出かけたことが記されています。ヨセフとマリアは、ユダヤの伝統を重んじています。モーセの律法によって定めの期間が過ぎたので長男を主に献げようとしているのです。神殿に出かけた目的は二つあります。一つには母マリアの清めのためでした。これは旧約聖書レビ記12章に記されています。出産後の母は汚れているとされ、40日過ぎて神殿で犠牲を献げて、清められると定められていました。この期間は産後の女性を休ませなければならないという出産後の母への配慮があったとも言われています。二人が神殿に出かけたもう一つの理由は、出エジプト記13章に記されている長男の聖別です。「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」という定めがありました。長男は主に献げられて、神のものとされると、律法によって命じられていたからです。
 出エジプトの出来事の中で小羊の血が戸口に塗られ、その印によって、イスラエルの初子が救われました。この事から、長男は神のものであるという共同体の理解がありました。この理解は長男だけを特別に考えているのではなく、長男が献げられることによって、同時にその家族全員が神の恵みと祝福を受けるという意味がありました。長男をささげ、代価を支払って買い戻す儀式が行われました。長男の奉献式を通して、その家族の祝福の源が明らかにされるのです。主イエスはヨセフの家族の祝福の源となったということです。
 ルカによる福音書が主イエスの奉献を記している意味は、主イエスの両親がユダヤの伝統に忠実であったことだけを伝えているのでしょうか。そうではないと思います。主イエス奉献を記している意味は、単なる長男の奉献ではなく、神の独り子が奉献されたことの意味を伝えているのです。ナザレのイエスの家族の祝福の源というだけではなく、主イエス奉献は神の家族すべてにかかわる祝福の源であるということです。神の祝福の源が主イエスによって与えられたのです。ルカだけが記す福音、喜びの知らせです。
 主の年2026年新年礼拝において、ルカによる福音書を通して与えられている御言葉は、主イエスを通して神の家族である世界の教会が神の祝福に与る者とされたことを伝えているのです。これは、最も大きな喜びではないでしょうか。
 日本の風習であるお宮参りは、その土地の守護神である氏神様に赤ちゃんが無事誕生した事を報告し、健やかな成長をお祈りしてもらうために神社に行き参拝する儀式です。キリスト者は土地の氏神を神としているのではありません。私たちは父子聖霊なる神を信じていますから、神社で氏神様に祈祷しなくても良いのです。教会でお祈りすることが神の祝福に与ることです。日本は八百万の神々を使い分ける文化をもっています。お願いする神がたくさんいる方が御利益も増えると考えます。しかしこのことはよく考えればおかしいことに気付くのではないでしょうか。それは人間がどの神にお願いしようかと神を選ぶようになっていることなのです。神が私を選ぶのではなく人間が神を選ぶという事です。神より人間が上になっている事に気付かなければなりません。本来信仰というのは人が神を選んで自分の都合によって神を利用するものではありません。そうではなく、神が私たちを選び、神が私たちを愛し、私たちは愛の神に従うのです。それが神を信じる信仰です。
 私たちは神を自分の利益のために利用してはならないのです。そうではなく、私たちが神に従うのです。主イエスが祝福の源となっておられることによって、主イエスを通して、神の祝福に与る信仰に生きることになるのです。
 ヨセフとマリアが主イエスを抱いて神殿を訪れる様子を見ていたのが、シメオンという旧約聖書の伝統を継承する人でした。シメオンは、救い主に会うまでは死なないという約束が与えられていました。赤ちゃんの主イエスを抱いて、シメオンが神をほめたたえ、賛歌を歌ったことが記されています。この時、シメオンは、27節にあるように霊に導かれていたとあります。聖霊に導かれてこの幼子こそメシア(救い主)であると確信して歌います。シメオン自身の知識や教養で分かったのではなく、聖霊なる神の導きによって、シメオンは幼子主イエスが祝福の源であることを知ったのです。しかも、主イエスの家族にとどまらず、異邦人への光となっていると歌っていることに注目したいと思います。
 「30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31 これは万民のために整えてくださった救いで、32 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
 シメオンは、 ユダヤ人だけでなく万民のための救い主を迎えていると歌っているのです。
 ルカによる福音書の関心は、主イエスの奉献、エルサレム神殿でのヨセフとマリアが主イエスを奉献したことは、夫婦が律法に忠実に従う二人であったということ以上に大きな意味があることです。そして大切なことは、伝統的な律法に忠実であれば、救い主主イエスを祝福の源、主イエスこそ救い主であることを律法によって受けとめることができるはずであると教えているのです。シメオンは「正しい人」「信仰があつく」と紹介されて、律法に忠実であることが強調されていますが、律法によって救い主を待望し、聖霊によって主イエスこそ「救い主、メシア」である事を受け入れる信仰が与えられるという事です。
 この御言葉は、同時に、神殿にはシメオンたち以外にはイスラエルの慰められるのを待ち望む信仰者がいなかったと嘆いていると読むことが出来るかもしれません。この時代にこの人たちに光が当てられ、辛うじて旧約聖書の正当な伝統を継承する者が残っていたと伝えられているのです。これは当時の神殿に対する、痛烈な批判として聞かれなければならないと思われます。旧約聖書の歴史を通して、困難な時代の中でこそ救い主を待望し続け、聖霊に導かれて救い主を見抜くことの大切さを思わなければならないのです。
 福音書記者ルカは神の霊の導きによってシメオンの賛歌を通して救いの確信と喜びを伝えています。シメオンはユダヤの伝統を拒否することなく、神殿において救い主に出会う事が出来たのですが、ヘロデ王はじめ、ユダヤの指導者たちは、主イエスを排斥しました。旧約聖書の律法に忠実であるからこそ、遣わされる救い主メシアに出会ったのです。
 ペルシャの王キュロスすらメシアと見なされる危うい時代が続きました。ユダヤのメシア待望が形骸化し、誰が真の救い主であるかを見分けることすら出来なくなっていました。そのような信仰の危機的状況の中で、真の救い主を見分ける事が出来たシメオンたちのような信仰者がいたのです。
 律法の命令を実行するために主イエスが神殿に献げられたとき、シメオンは旧約聖書の伝統に忠実に生き、旧約の伝統の本流を汲み、霊に導かれ、まことの救い主を見分ける事が出来ました。そして待望していた救い主、キリストに出会いました。
 シメオンの賛歌は、預言者イザヤの次の言葉を反映しています。イザヤ書40章1節
「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。2 エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」
 シメオンの賛歌の32節、イスラエルの慰めは、異邦人への啓示であることが、声高らかに讃美されています。神の真の救いが、ここで初めて正しく讃美されています。神の御名が讃美されるということは、ユダヤ人だけに限定されるのではなく、普く広がるのです。東方の学者たちがそうであったように、異邦人への啓示の光が輝き続けるのです。
 シメオンは、主イエスを救い主として抱き、主イエスを通して異邦人にもたらす救いを見ました。その救いのためには、大多数のイスラエル人が主イエスを否むことも見通しています。主イエスに押し寄せる群衆と、十字架につけよと叫ぶ群衆の姿も見通されています。シメオンの第二の言葉はマリアにあてたもので「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」とあります。この剣とは、神の言葉を本当に信じることです。神を信じる信仰によって主イエスの真の家族になるということです。神の家族とは血縁によるのではなく、神の救いを信じること、神を信じて神の言葉を受け入れることによって、真の家族になると語られているのです。
 ルカによる福音書8章にはイエスが語られた主の家族についてのみ言葉があります。
21節「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。」
 私たちは、シメオンの賛歌を通して、神の家族の一人とされていることを感謝します。真の救い主を大胆に誉め讃え、主イエスの真の家族に加えられたことを最も大きな恵みとして喜びたいと思います。シメオンの讃歌を讃美することは、私たちが神の家族の一人として、神に迎えられている事を忘れないことです。クリスマスの後、シメオンを通して、苦しみの中で神の導きを見つめ続けた人々を通して、今、私たちは神の家族とされているのです。私たちは決して孤独ではありません。神の家族の一人です。
 今なお地球上にはクリスマスを祝うこと、クリスマスの讃美を自由にすることが困難な国と地域があります。その人々の分も私たちは主の御言葉を信じて、神の家族である事を感謝し喜びたいと思います。私たちは、現在、最も世俗化した時代に生かされています。これまでのどんな時代よりも救い主が誰であるのか見分ける事が難しい時代に生きています。何も分からないまま、手探りで生きることを求められています。現代は、真の救い主を見分ける事が出来ない時代、救い主を見失う時代に思えることがあります。しかし、そのような時代あって、私たちがシメオンの讃歌を讃美する事は、大きな意味があるのです。
 不信仰の時代の中でシメオンが主イエスを抱いて讃美したように、私たちが主の年2026年、主日ごとに礼拝をささげ、祈り、救い主が誰であるかを明確にされる信仰をもって明るく生きたいと願います。

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