苦しみを受ける前に
説教集
更新日:2026年03月21日
2026年3月22日(日)受難節第5主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 副牧師 岩田 真紗美
ルカによる福音書 22章14~23節(p.153)
22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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受難節第5主日を迎えています。次の主日、3 月 29 日にはいよいよ「棕櫚の主日」を迎えます。そこで福音主義教会連合のスケジュールは、長い旧約聖書に聞く旅路を一先ず終えて、再び新約聖書の御言葉を中心に聞く歩みに入ってまいります。
主イエスは十字架のお苦しみをお受けになる前に、切なる願いとして弟子たちにも念入りに準備させられた「過越の食事」で一つの杯を持って共に飲みまわすことと、一つのパンを裂いてそこから取って食することを、望まれました。そして弟子たちは、後に裏切るユダも、主のことを「あんな人は知らない」と否むペトロも共に、主の御手から杯を受け、パンをいただきました。
棕櫚の主日から始まる「受難週」を七日の後に控えて、私たちは今日、一歩一歩、十字架の死に向かって近づかれる主イエスの足取りと御言葉を確かめつつ福音書に耳を寄せます。また、礼拝堂の中でも自宅に居ても、キリストの血による贖いの恵みを知る者として、自らの心の中に、自己中心的な罪の姿があることを静かに見つめつつ、悔い改めの祈りをささげます。今日の御言葉の最後の 23 節で明らかにされているように、「使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」(22:23)ほど、主に連なりながらも主の切なる願いと悲しみには無頓着でした。それは自分たちの罪に対しても、非常に鈍い有様を露呈することに繋がりました。このような主の一番最後の食事の晩に至るまで、使徒たちは自らの罪の大きさを見誤り、そこにだけは寛大になり、他人に悪いことは全て負わせようとする人間の虚しさ、貧しさをさらけ出すのです。主を裏切るなんて、誰がそんなことを言っているのだろうかと訝しがる弟子たちの様子は、確かに私たちが生きるこの世の一幕でもあります。しかし、そのようなこの世にこそ、父なる神さまはイエスさまを降らせてくださり、信仰の道を明らかに示し、愛をもって私たちを励まし、癒し、慰めながら罪を共に悲しみ、憎んでくださいました。まさに泥沼から首根っこを噛んで救い上げる母猫のように、主は子猫のように罪の泥にまみれた
我々を救い出すために命をかけて十字架の死を成し遂げられたのです。それが、今日の「過越の食事」の食卓マスター(主人)であるイエスさまでした。
15 節の、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」という御言葉は、原文のまま日本語にするならば、「願いに願っていた」と訳することも出来ます。最後の最後までイエスさまが願っておられたことは、弟子たちと共に一つの杯から「ぶどうの実から作ったもの」(18 節)を飲み回し、一つのパンを取って感謝の祈りをささげてこれを裂いて、弟子たちに「わたしの記念」(19 節)として主の死後もこれをこのまま、この通りに行うことでした。この過越の食事の前には、ヨハネによる福音書の告げるところによりますと、主が自ら弟子たちの足をお洗いになった 「洗足(せんそく)」が行われたのですから、十字架への道のりの中でイエスさまが本当に最後の最後まで弟子たち一人一人を愛し抜いておられたことが分かります。主を信じる私たち、また時には主を裏切って踵を返す危険も孕む私たちの罪からの救いのために十字架に死なれ、三日後に復活され、天に昇られた後も主は、私たちの聖なる食卓である聖餐の源が守られていくようにと、まさに今日の御言葉の中に聖餐の言葉をも据えられました。
最後の晩餐の前の「洗足」を覚えて、受難週の只中にあります木曜日を「せんそく(洗足)の木曜日」と呼びますが、教会のメンバーが互いにたらいで足を洗い合ったり、祈祷会を行ったりする教会もあります。また私が昨年春まで仕えていた教会では洗足の木曜日の晩に夕礼拝の中で聖餐式を行っておりました。そこで讃美する讃美歌は勿論「血潮したたる主の十字架」という、あの 136 番のマタイ受難曲を基とした讃美歌でしたが、この日だけは聖餐を受ける信徒が、牧師の周りを取り囲むようにして横一列に並んで聖餐の恵みに与るのが教会の伝統になっていました。主が弟子たちの足を洗われた事と、本日の聖書箇所の「最後の晩餐」が行われた時の緊張感を胸に刻みながら、共に祈りをささげる時、聖餐制定の言葉が如何に重要であるのか、主イエスがこのように行うことを熱く願われた事実が、胸に迫ってきました。洗礼を受けてキリスト者とされた私たちに、食卓の主が分け与えられた恵みは、ただのパンと、ただのぶどうの実から作ったぶどう液なのではなく、主イエスが十字架のお苦しみをお受けになる前に切に願われた、ご自分の体と血を犠牲としてささげられたことによる過ぎ越し、つまり神の民の救いの道筋を「記念する」(19 節)特別な食卓のパンとぶどう液なのです。食卓の中心に立つキリストからその務めを委ねられた正教師である牧師が、聖餐の制定の言葉を読み、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、私たちに分け与えてくださる時、私たちはあの『詩編』の詩人が「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(詩編 34:9)と思わず歌い出したように、主の恵みを聖霊によって与えられた喜びに心躍らせて、胸の奥に押し込められていた「霧のような憂いも」(讃美歌二編1番より)晴れてゆくのを感じます。そのようにして、毎月この聖餐式を通して益々励んで主に仕え、折が良くても悪くても私たちは御言葉を宣べ伝える力を神さまから賜るのです。
神さまが、今まで数えきれないくらい多くの背きの罪を重ねてきた神の民イスラエルをこよなく愛してくださったがゆえに、御子をこの世に降されて新たに私たちの罪を赦し、汚れを清め、新しく結び直してくださった 「契約のしるし」について主は、「あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約」(ルカ 22:20)と言われました。古代イスラエルの贖罪日の「民の贖罪の献げ物」(レビ記 16:15)は、雄山羊を屠ってその血を用いて贖いの座に振りかけるというものでしたが、私たちの主は自らが贖いの座となられました。また、生きた雄山羊を「神の御前に留めておき、贖いの儀式を行い」(同 10 節)その儀式での血を祭司が手で山羊に付けて、それによって民の罪を山羊に着せて野に山羊を放って罪の贖いが成し遂げられたとするのが古の方式でした。この辺りの贖罪日の歴史を調べますと本当に主イエスを神さまがご自分の自由な愛によって私たちに贈ってくださった恵みの賜物が如何に大きく、また私共のような異邦人の祭司の家系でない者たちの手をも用いて主の御用をさせてくださる憐れみの深さに慄くのです。 主イエスの清く尊い血によって、教会に連なる神の民はついに末代に至るまで神の怒りから免れさせて頂き、 主イエスを 「永遠の契約の血による羊の大牧者」(ヘブライ人への手紙 13:20)として礼拝することがゆるされました。主を死者の中から引き上げ、「平和の神」(同)である御自身の右の座に着かせられた父なる神と共に今日も私たちは祈ります。この世の争いの中のレントの時、人間中心の愚かな過ちを悔い、改めの祈りを献げる時もあるでしょう。
聖餐の食卓を再び主と囲む日が、終末に必ず訪れることを心から信じ期待して待ちましょう。「神の国で過越が成し遂げられるまでわたしは決してこの過越の食事をとることはない。」(ルカ 22:16)と言われた主の御手に、私たちの手を重ねつつ、共に伝道に励みながら主の家族を増し加えつつ、イースターの喜びの朝を迎えたいと願います。 (祈祷)