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銀座の鐘

「わたしたちの救いは成し遂げられた!」

説教集

更新日:2026年03月28日

2026年3月29日(日)受難節第6主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満

ヨハネによる福音書19章28~30節

本日私たちに与えられました御言葉は、主イエスが十字架上で語られた七つの言葉のうちのふたつであります。ひとつは、「渇く」という言葉。そしてもうひとつは「成し遂げられた」という言葉であります。ふたつとも、そのままではちょっとよくわからないのではないでしょうか。いったい、なぜ主イエスは渇くとおっしゃったのでしょうか。そしてこの渇きとはいったい何の渇きなのでしょうか。そして成し遂げられたとはいったい何を成し遂げられたのでしょうか。そのことを今日は、聞いていきたいのです。この「渇く」という言葉。これはわたしたちも日常生活の中でとてもよく用いる言葉ではないでしょうか。ああ、のどが渇いた、などといって麦茶などを飲みます。主に、水を飲みたいときに、渇いた、とわたしたちは言います。水を飲まなければ人間は生きていけません。生まれたての赤ん坊ものどが渇いて泣きます。そして年を老いて、死の間際であっても、水を欲します。体の渇きというものは、あらゆる欲求の中でも一番根源的な欲求であると言えるかもしれません。
では主イエスが十字架上で最後に息を引き取る前に語られたのもそれと同じ意味なのでしょうか。そうであったとしても何ら不思議はありません。何時間もの間、主イエスの体からは血が流れ続けています。貧血と、体全体を襲う痛みとで息も絶え絶えになり、その体の渇きは極限まで来ていたのではないでしょうか。しかし、主イエスはここでただ体の苦しみとしてだけ「渇く」と言われただけなのでしょうか。おそらく、それだけではないでしょう。なぜなら、ヨハネによる福音書において、渇きという言葉はとても大きな意味をもって語られているからです。たとえば4章で、サマリアの女と井戸で出会い、そこで主イエスはサマリアの女に言います。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」主イエスは、決して渇くことのない水を持っておられる。それをあなたにあげようと言われるのです。そして続けてこう言われます。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ここで語られていることは単に肉体の渇きについて語られているのではないということです。心の渇き。そして霊的な渇き。人間の全存在的な渇きについてであります。そのような渇きを潤し、満たす水をあげようと主イエスは言われます。サマリアの女は、どうかその水をくださいと願います。わたしたちも願わずにはいられないのではないでしょうか。主よ、わたしにも渇くことのない水を飲ませてくださいと。ヨハネ福音書が語っているテーマのひとつは、人間の根源的な渇きとその克服であると言えるのではないでしょうか。そうであるならば、それはどうやって克服されたのでしょうか。不思議なことに、渇くことのない水を持っている。それをあなたにあげようと言われた主イエス御自身がここで、渇く、と言われたのです。いわば、全ての水を出し尽くして、干上がってしまった。全て出し尽くしてくださった。そう言われたのです。そしてそのあと、成し遂げられた。と言われたのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。何を成し遂げられたのでしょうか。
わたしたち人間は生まれた時から渇きを自覚し、渇きを潤したいという欲求をもって生きているのではないでしょうか。生まれた時にすぐに母親の乳を求め、渇きを癒し、肉体を保つ栄養を求めます。物心つく前から、母親の愛情を求めて泣き叫びます。やがて成長するにつれて、さまざまな欲求を持ち、願いを持つようになります。人間はただ食べて寝ることができればそれで満足できるようなものではありません。肉体的欲求、精神的欲求、社会的欲求。それらすべてが満たされていかなければなりません。この頃、本を読んでいまして、不全感という言葉を知りました。あまり日常的に使われない言葉であると思います。肉体の病気で心不全とか腎不全といった病気があります。心臓や腎臓の働きが低下して、本来の働きが十分にできなくなる状態です。それと同じように、わたしたちのその心の内にある不全。満たされない思いであります。自分なんて生きる価値などないのではないかという虚しさ。隣人と比べて、さまざまな劣等感を持つこともある。家族との関係や社会との関係においてこじれてしまった自己愛からくる苦しみなどもあるかもしれません。承認欲求とか愛着障害などという言葉をよく見聞きいたします。誰にも、認められたいという願いはありますし、愛されるべき人に愛されたいと願います。そういうところにおいて、満たされない思いがあるのではないでしょうか。それもまた人間存在における根源的な渇きであります。あるいはそういう渇きを外に向けて感じることもあります。差別や貧困。戦争が世界中でなくなりません。こんな社会ではダメではないだろうかという不満や憤り。理想と現実の中でわたしたちはいつも渇いた心をもっているとも言えるのではないでしょうか。だからこそときどき、この銀座の町でもさまざまな演説やデモが為されます。主イエスは山上の説教の中でこう語られます。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」私たちの誰もが持っております不全感。内にもあり、外にもある不全感。それを満たすことのできる方がおられる。ではどうやってなのか。私たちに愛を注いでくださるということによってであります。そしてやがて、義。つまり全ての不正を裁く正義をもってこの世界を支配してくださる。義の神として、主イエスはわたしたちのところに来られたのです。けれどもイスカリオテのユダを筆頭に、人々は躓きました。主イエスは、政治的なリーダーとして、全世界を改革するようなヒーロー。英雄のようにこの世界を新たにしようとして来られたのではなかったからです。そうではなく、全ての人間の渇きの根本的な原因である罪。神との関係における破れを癒し、永遠の命を与えるために来てくださったからであります。そしてそれは、この十字架という出来事を通して為されるのであります。私たちの罪を担い、私たちの身代わりとなって、私たちがこの地上で負っている苦しみ、悲しみ、そこで味わっている不全感の極致を、この十字架において担いきってくださったのであります。なぜか。わたしたちがもはや、そのような不全に陥らないようになるためであります。わたしたちがその心も体も、霊的にも、全存在において満たされるために、主は、この十字架において、乾ききってくださったのであります。出し尽くしてくださったのであります。その愛を、出し尽くしてくださったのです。
28 節には「こうして、聖書の言葉が実現した」とあります。実は、主イエスがわたしたちの罪の身代わりとなって苦しむ、苦難の僕としての預言は、イザヤ書や詩編にちりばめられております。たとえば、わたしはイザヤ書の御言葉を思い起こします。イザヤ書53 章の4 節以下に苦難の僕の預言の言葉が語られます。 「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは 私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」このイザヤ書に代表されるように、旧約聖書全体は実は、わたしたちの救い主である主イエスを預言しています。そしてその救いとは、まさにこの主イエスの十字架なのであります。十字架において主イエスは、誰よりもわたしたちの苦しみと一つになってくださいました。そのようにして、私たちを愛し抜いてくださいました。神がわたしたちを愛してくださるとき、それはわたしたちが、その罪の病のゆえに、深い渇きの中にいる。あのサマリアの女のように、何人もの男性と関係をもち、人の愛を求めながらも満たされずにいる。そのような孤独と疎外をもつ全ての人々に寄り添うために。そしてその渇きを潤すために、神御自身が御自身、肉においても、霊においても完全に渇ききってくださるほどに、私たちに愛を注がれたのであります。その愛の業がここで成し遂げられた。救いの業が成就したのです。しかしこの「渇く」という言葉に関して言えば、詩編の22 編の 16 節があります。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」ここで苦しめられ、口が渇いてしまって舌が上あごに張り付いてしまうようなほどになってしまった詩人の叫び。これが主イエスの十字架上での渇きを表していると言えます。そして、渇くと語られた主イエスに、酸い葡萄酒を、いっぱいに含ませた海綿をヒソプにつけて、主イエスのくちもとに差し出したとありますのは詩編 69 編 22 節であります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」これらの詩人の言葉が主イエスの十字架において実現したのです。詩編は、いわば全て、神を求め、救いを求める魂の叫びであります。その人間の魂の叫び。苦しみ悲しみ、疎外や孤独、絶望の中で神を求める、そのような人間の苦しみとひとつとなってくださったのであります。肉体的苦しみと精神的苦しみ、そして神に見放される霊的な苦しみの全てを私たちの身代わりとして引き受けてくださり、渇ききってくださった。そこに神の愛があるのです。この主イエスの渇きこそが私たちの魂を潤すのです。なぜなら、どんな孤独や疎外の中にも、主イエスが私たちの心に来てくださっているからです。わたしのために十字架において深い渇きを経験してくださった主イエスが今もわたしたちの内に来てくださるからであります。
ヘブライ人への手紙 4 章15 節をお読みいたします。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」わたしたちが地上で歩む苦しみの足跡。孤独の足跡、そこに、主イエスの足跡を見ないところはないのであります。そうであるならば、わたしたちは、苦しみの日に、孤独や疎外を感じているその時に、神様は私の気持ちなどわかってくれない。神様などあてにならない、などと思ってはなりません。わたしたちの悲しみが仮に自分の罪の思いから出た悲しみ苦しみであったとしても、主はその思いに寄り添いながらも、恵みを注ぎ、心を正してくださる方であります。私たちの罪のために、渇いてくださった方であるからです。弱く愚かな私たちをそれでも愛し抜いてくださったからであります。その愛を、死に至るまで、貫き通してくださった。ここに神の国の完成が見えてきた。主イエスは、十字架の上から、主イエスをあざ笑っているローマ兵たち。遠くから見つめる全ての人々。そこには悲しみつつ見つめる人もいれば、馬鹿にしている人々。憎しみの目をもっているファリサイ派の人々もいたことでしょう。しかし彼らもまた永遠の命に招く道が今ここに確かに備えられたのです。主イエスは、御自身のなさる愛の御業において、聖書の言葉が本当に実現し、罪人が神の子とされる道をここに確かに開いてくださいました。それが成し遂げられた」という言葉によって語られたのです。主イエスは、「成し遂げられた」と語り、そして息を引き取られました。死に至るまで神に従順で、そして罪人を愛し抜き、愛を注いでくださった主イエス。この主イエスの十字架を信じる者は誰でも救われる。それが、聖書
が今もわたしたちに告げる福音なのであります。さきほど紹介したイザヤ書の 53 章の続き。10節でこのように語られています。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。」主イエスは、御自身の救いの御業が成し遂げられたことを信じて、全てを天の父にゆだねて死に赴かれます。天において大いなる栄光が輝きます。それは、この十字架を通してわたしたちが永遠に神を讃えるものとされるからです。大いなる実りが生じるからです。続いて、11 節を読みます。「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられ
たからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」このように、聖書の御言葉が実現しました。聖書の御言葉が成就したのです。成し遂げられたのです。今ここにおられる皆さんは皆主イエスの戦利品です。罪と滅びの下から、神の国へと移された。サタンの支配の下から、恵みの下に移された。わたしたちは皆主イエスの十字架の戦いの成果です。わたしたちひとりひとりのために主イエスは渇いてくださった。死んでくださった。この恵みの中で今も主イエスはわたしたちと共に、神の国へと導いてくださいます。わたしたちはこの方によってこそ満たされるのです。この方の御言葉こそがわたしたちの魂を癒すのです。この主イエスの愛が、今もそしてこれからも私たちの心に注がれ続けるからです。お祈りをいたします。

天の父なる神様。主イエスが成就してくださったわたしたちの救い。全世界の救いを、信じて生きるときに、私たちの人生において豊かに実現させてくださいますように。主イエスがどんなときにもわたしたちと共に生きてくださっているという約束をただ素直に信じて、あなたの御言葉によって励まされて歩む者とならせてください。受難週の歩みを豊かに導いて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

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