銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘
  3. 「わたしの主、わたしの神よ」


銀座の鐘

「わたしの主、わたしの神よ」

説教集

更新日:2026年04月11日

2026年4月12日(日)復活節第2主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

ヨハネによる福音書20章24~29節

 先週、わたしたちは主イエスの復活をお祝いするイースターの時をもちました。本日も、復活された主が弟子たちに現われてくださった箇所を通して、主の復活の喜びを分かち合いたいと思います。
 今日わたしたちに与えられた御言葉は、トマスが復活された主イエスと出会う物語であります。
 「疑い深いトマス」と言われております。この物語のせいでトマスは不名誉にも、疑い深い、不信仰な人というイメージが着いて回るようになりました。けれどもトマスは本当に疑い深い人であったのでしょうか。トマスが登場した他の箇所を読むとそうでもないということがわかります。たとえばヨハネによる福音書の11章に、マリアとマルタの兄弟であるラザロが死んで、このラザロをよみがえらせるために主イエスはエルサレムに向かいます。そこには主イエスのことを狙って殺そうとしていたユダヤ人がたくさんおりました。命の危険が伴う旅に弟子たちは皆、行くことを反対しますけれども、そこでトマスがこう言うのです。「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」とあります。たとえ死ぬような目に遭っても先生が行くと言うならばわたしたちもエルサレムのお供をしようではないかと言った。よほど主イエスのことを慕っていなければこんな言葉は出てくることはありません。非常に勇気と男気のある人であったとも言えるかもしれません。また別の箇所ではこういうエピソードがあります。主イエスが弟子たちの足を洗った木曜日、主は弟子たちに、言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」するとそこでトマスがこう尋ねるのです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」このようにわからないこと。曖昧なことが大嫌いな性分のようです。ある意味では、トマスは正直者なのであります。自分の心に嘘をつくことができない。自分の心にいつも正直な人であり、自分にも他人にも、正しくあろうとする人でもありました。そして物事をはっきりさせたいという人でもあったのです。そこからこのような疑問が彼の口から出たのです。そして、このトマスの素朴な疑問から主イエスの素晴らしい御言葉が語られました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」このように、主イエスを愛する弟子であり、主イエスにも愛されていた弟子の一人であります。しかし彼もまた他の弟子たちと同じように、イエスが聖書が預言しているメシア。救い主であるとは信じていましたが、十字架と復活を通して人類の罪を贖う救い主であるということは分かっていませんでした。ある人は、トマスを評して、彼は現実主義者であり、物質主義者であった。目に見えるものしか信じない人であった。そして筋が立つことしか理解しない人であったと述べております。おそらくトマスもまた、主イエスのことを、いつかユダヤ人を帝国ローマから解放し、この世を改革してくれる英雄的指導者として見ていたのかもしれません。だからこそ、主イエスが十字架で死んだときには他の弟子たちと同様に、あるいはペトロよりも深く傷つき、ショックを受けたのではないだろうかと想像いたします。トマスは、信頼していたものを失ったのです。そして生きる気力を失い絶望して、一週間ほどの間、他の弟子たちから離れてどこかに行っていたのであります。傷ついた人というのはときに独りになりたいと思うものでありましょう。トマスもまた愛する主イエスが死んでしまったことを受け入れられず、一人放浪の旅をしていたか。どこかに閉じこもっていたと考えられます。しかし、トマスはそのままどこかに行ってしまうのではなく、弟子たちのところに戻りました。主イエスの墓で弔いをしなければならないと思ったのかもしれません。彼はこれまでのエピソードでわかるように、実直で、律儀な人でありました。主イエスの死を受け入れて、そして弟子たちに別れを告げに来たのかもしれません。しかし行ってみると、弟子たちが驚くことを言った。「主は生きておられる。復活された主にわたしは出会った!」「この家でわたしたちがユダヤ人が怖くて鍵をかけて集まっていたんだ。するとこの家の真ん中に急に主が現われて言ったのだ。「あなたがたに平和があるように」と。わたしたちは確かにそれを見た。先生と話もした。十字架で受けた傷口もわたしたちは確かに見たのだ!」そういう話を聞いてもトマスはにわかには信じられません。むしろ、疑わしい思いがもたげてきて思わず言いました。「わたしはあの方の手に釘の後を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、わたしは決して信じない!」おそらく、トマスは、弟子たちが言っていることを信じられないだけでなく、自分だけが主イエスと出会っていないということに何か仲間外れにされたような疎外感を持ったのかもしれません。あるいは、それでもっと頑固になってしまったのかもしれません。このトマスの態度を見ておりますと、まるで子供のようだなあと、わたしなどは思ってしまいます。ペトロもそうであります。主イエスを心から慕い、主イエスに愛されていることが嬉しくて、あなたのためなら死をもいといませんなどと言いながらも、覚悟が足らずに、人間的な弱さで主イエスを裏切ってしまう。けれども主イエスを慕う心は、まるで父親を心から慕う子供のようなのです。だからこそ、心から愛し、この人のためなら死んでもいいと思える、尊敬していた主イエスが死んでしまったとき、弟子たちは心の支えを失ってしまったのであります。特にトマスはそうなってしまったのでしょう。心が宙ぶらりんの状態になってしまったのです。頼りとしているものがなくなってしまった。あるいは裏切られてしまった。そうなったとき、私たちは自分しか信じられるものがありません。だから、トマスはここで「わたしは自分の目で見なければ決して信じない」と非常に頑固になってしまったのかもしれません。誰も信じられなくなると自分しか信じられない。するとわたしたちは心に壁を作り、頑固になってしまうのです。わたしたちもそのような経験を少なからずしているのではないでしょうか。誰かと心がかみ合わず、自分の思いを受け止めてもらえなかったとき。理不尽な目に遭ったとき、わたしたちはたやすく、傷ついた子供のように心を頑なにしてしまう。わたしの気持ちなど誰もわかってくれないと心の中でつぶやくのです。そしてそれならそれでいい、とどこかで開き直り、ふてぶてしく、斜に構えた態度で生きるようになってしまうのです。あるいは離婚や、死別などで大切な人を失ったりする。とても悲しい経験をしたときには、誰かの慰めを疎ましくさえ思います。あなたにわたしの気持ちなどわかってたまるか。そういう反発心さえ抱くことがあります。このトマスの態度に、わたしたちのそういう弱さが示されていると思うのです。
 でもそういうところに閉じこもっていたままで信仰に立つことはできません。何かの辛い出来事で神様に裏切られたとか、あるいは教会に裏切られたとか、そういうふうに思って教会を去ってしまう人がおります。そのような経験をした人が、もう一度、教会生活を始めるのはなかなか難しいのです。その人の心が柔らかくなり、もう一度神様の御前に素直に出ることができるように祈るほかありません。そしてそのような、傷ついて頑なになった心をときほぐすことは神様にしかできないことなのです。しかし主はそのようになった人の心にも出会ってくださり、また信仰生活を歩むようにしてくださるのです。わたしは、以前に仕えておりました教会で、躓いていた人がまた礼拝に来るようになったと言う経験を何度かしております。主がその人の心に触れてくださったのです。そしてそこには教会の祈りがあったのです。トマスもまた、ここで弟子たちに助けられて、疑う心をもちながらも、弟子たちと共にいたのではないでしょうか。弟子たちはこう考えたかもしれません。我々は復活された主に出会った。でもいつまた主が来てくださるか分からない。だから前と同じ状況になって待っていよう。トマスにもきっと主は出会ってくださるに違いない。そう祈り願いながらまた、弟子たちは家の鍵を閉めて、主イエスが来られるのを待ちました。そこにトマスもいたのです。するとふいに主が、戸を閉められた家の真ん中に現われて弟子たちに言われます。「あなたがたに平和があるように。」そしてトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」トマスはどれほど驚いたことでしょうか。主イエスは八日前と同じように「あなたがたに平和があるように」と一人一人を祝福してくださいました。一週間前に復活された主と出会えなかった、恵みを受けそこなったトマスにも、主は出会ってくださいました。トマスは、弟子たちと共に復活された主イエスと本当に出会ったのです。ここに、すでに毎週ごとに守られるキリスト教会の礼拝が始まっている。わたしはそのように思います。トマスが信仰を失いかけた時、それを支えてくれたのは、信仰の兄弟たちでありました。同じようにわたしたちもまた、兄弟姉妹に支えられて、礼拝に集い、復活の主イエスと出会い、信仰を取り戻す。また教会から離れていた兄弟を、誘う。また共に祈り、共に礼拝をささげましょうと言って、兄弟の信仰を励ます。そのようなこともあると思うのです。しかし、そのようなわたしたちの励まし合い。共に生きる信仰生活の背後にはいつも復活された主の恵みが注がれているのであります。その恵みの中で、わたしたちは、信仰に立っている者も、倒れてしまっている者、疲れている者も、信仰の弱くなっている者も、共に主イエスを見上げることが許されているのではないでしょうか。
 トマスの心は懐疑心と悲しみの中で固く閉ざしていました。けれども主イエスはどのトマスのそばに来て言われます。「あなたの指をここに当て、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスの弱さに寄り添い、トマスが言った言葉。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、わたしは決して信じない。」この頑なな思いにも寄り添ってくださるのです。さあ。わたしの手の釘跡を触りなさい。わたしのわき腹の傷に触れなさい。あなたのためにわたしは十字架にかかったのだ。あなたの罪をもわたしは担ったのだ。だから私を信じなさい。そう、優しく主はトマスの目を見つめて言われたのです。その主イエスの眼差しはとても優しかったと私は思います。そこでトマスが、じっくりと主イエスの御傷を触ったか。触らなかったか、それはわかりません。触れたかもしれませんけれども、触れる必要などもはやなかったでしょう。復活の主がトマスと共にいることがわかったのですから。けれども、主イエスの眼差しに打たれたトマスはきっとここで泣いたのではないだろうか。涙があふれて止まらなかったのではないだろうか。わたしはそう思うのです。「わたしの主、わたしの神よ」この言葉は深い懺悔と共に喜びをもって叫んだ言葉であったのではないだろうか。そのように思うのです。この主の優しい眼差しによって、トマスの頑なな心は溶けたのです。不信仰や頑固な心を溶かしてくださる。それが主イエスの憐みであります。わたしたちもまた、この主イエスの憐みを受けているからこそ、信仰に立ち続けることが許されている。そして兄弟を励まして、共に生きる者とされているのです。そうであるなら、今、教会から離れている方々。信仰が弱くなっている方々を覚えて、共にこの主の憐みの中に立つことができるように祈って行きたいと思います。
  そして、復活の主と出会い、そこで語ったトマスの信仰告白の言葉を、私たちも告白していきたいのです。「わたしの主、わたしの神よ」トマスは、ここで本当に主イエスが、単なるこの世の改革者ではなくて、永遠なる神であられる方であることを悟ったのだと思います。しかもその神がわたしの神。救い主となってくださったのだということを悟ったのだと思います。先週のイースター礼拝では、洗礼式、信仰告白式、転入会式がありました。ひとりひとりが、その前々週の証し会で証しをしてくださいました。そこで為された証しを、皆さんはこれからの信仰生活の中で、ずっと続けて行かれると思います。一度だけではありません。信仰の証しは何度もして行く。なぜなら、復活の主イエスはいつもわたしたちと共におられ、何度でも恵みを注いで
くださる。その恵みの経験が証しとなるからです。けれどもこれからも続く証しの生活の根本にはいつも、この「私の主、私の神よ」という告白があると思います。そしてわたしたちの人生のその最後。息を引き取るときにも、「わたしの主、わたしの神よ」という告白で終わるのです。そのようにして、わたしたちは生涯をかけて、主イエスがわたしの主、わたしの神であると身をもって証しし続けていく。それが、わたしたちの使命なのであります。主イエスの救いを自分のものとして。自分の喜びとして歩んでいく。それが、宣教であり伝道なのです。宣教は、牧師の説教だけではありません。礼拝をささげて、その喜びをもって生きていく。わたしたちの応答なのであります。私たち一人一人が復活の主イエスと出会い、その喜びの中で真心からの告白をし続けていきたいのです。お祈りをいたします。

 教会の頭なる主イエス・キリストの父なる神様。疑い迷うトマスにも深い憐みの眼差しをもって、信じる者になりなさいと語りかけてくださった復活の主イエスが、今も私たちの心にも語りかけてくださっていることに気付かせてください。そしてわたしたちもまた、トマスと共に、私の主、私の神よと心から喜びをもって告白し、あなたの恵みを証ししていく人生を歩ませてください。私たちを通して、あなたの栄光が豊かに表れますように。わたしたち教会があなたの救いを、身をもって体得し、伝えていくことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

最新記事

アーカイブ