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銀座の鐘

「共に一つの体に属す」

説教集

更新日:2020年05月17日

2020 年5月17日(日)復活節第6主日 主日家庭礼拝 近藤勝彦牧師

エフェソの信徒への手紙3章1節~7節

 人間には誰にもその人らしい生き方があるのではないかと思います。ただ、それ がまだ分からない、あるいは分かっていたつもりが、分からなくなったという場合 もあるでしょう。そこで、どういう生き方が自分の本当の生き方と言えるのか、そ れを探し求めている人も多いのではないかと思います。その人らしい生き方が確か に身についている場合、その人の信仰の姿勢が関係し、信仰がその人の人生の形を 造っていると言えるのではないでしょうか。
 今朝の聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙 3 章のはじめですが、一節は「こう いうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわた しパウロは」という書き出しになっています。「キリスト・イエスの囚人となって いるわたし」という表現は、キリストの使徒パウロが自分を語った言葉として他の 手紙にも出てきます。フィレモンへの手紙の中に同様に「年老いて、今はまた、キ リスト・イエスの囚人となっている、このパウロが」(フィレ9)と記されていま す。「囚人」は、文字通り、牢獄に入れられ、鎖につながれている人です。パウロ はそれを自分らしくない生き方とは考えず、むしろまさに自分らしいとあり方のよ うに確信をもって語っています。「囚人」という在り方は、通常で言えば、辱めを 受けた惨めな状態です。自分が持っていたあらゆる社会的な位置や尊敬も、また多 くの人との人間関係も奪われた状態です。しかしパウロはその中でまさしく自分ら しく、キリストを証し、福音に仕え、使徒としての生き方を発揮していました。逃 亡奴隷であったオネシモをはじめ、獄中のパウロから伝道された人が何人もいたよ うです。ですから、パウロは自分を「キリストの使徒」「キリストの僕」とも言い 表しましたが、「キリスト・イエスの囚人」とも語ったのです。その中にキリスト ・イエスに深く結ばれた自分の姿を見ていたと思われます。「囚人」という恥辱の 姿も、その本当の理由はイエス・キリストにあって、「キリスト・イエスの囚人」 と呼びました。この表現に、喜びと確信のある生き方が感じられます。この手紙を 受け取った人々は、ほとんど皆パウロにじかにあったことのない人たちでした。し かしその人々の中にも、キリスト・イエスの囚人という表現がパウロとは何者かを 一番よく示す表現として理解されたと思われます。
 パウロがキリスト・イエスの囚人になったのは、キリストのため、そしてその福 音のためでした。7 節には、「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜わり、この 福音に仕える者としてくださいました」とあります。彼が「囚人」とされたのは、 神が無力であったからではありません。そうでなく、神がその力を働かせたことに よります。そして使徒パウロを用いて、その救いの計画を実現していることの現れ でした。パウロはまた、キリスト・イエスの囚人になったのは、「あなたがた異邦 人のため」と言いました。「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与になり、 あなたがたのためのキリストの囚人になった」と言うのです。
 エフェソの信徒への手紙には「秘められた計画」という言葉が何度か出てきます。 「秘められた計画」はミステリーという言葉で、「奥義」とか「秘義」を意味しま す。そのキリストのミステリーは、キリスト以前には誰にも知らされていなかった のですが、いまや使徒たちや預言者たち―ここで預言者たちというのは、旧約の預 言者たちではなく、初代教会の説教者たちですーに啓示され、そして周囲に伝えら れました。それが「神の救いの計画」であり、その中に異邦人たちが重要な存在と して含まれています。つまり異邦人を含めた救いがキリスト・イエスによって実現 した神の御計画なのです。パウロはそれを異邦人たちに伝えました。その結果、パ ウロはユダヤ人たちから命を狙われ、しばしば投獄されたわけです。キリストが十 字架に架かって救いを果たしたのは、異邦人のためでもあったのです。キリストの 奥義である神の救済計画が異邦人の救い、異邦人である私たちの救いも含んでいた ので、パウロは「異邦人のために」ユダヤ人によって投獄されたのです。異邦人の 救いのためにパウロは、囚人になりました。「あなたがた異邦人のためにキリスト の囚人になった」とパウロが語ったのは、その通りだったのです。異邦人の救い、 つまりはキリストの十字架の救いが、パウロを何度も投獄させたことになります。 キリストが十字架に架かって果たしてくださった救いが、パウロを投獄させ、パウ ロは囚人とされました。  
 それでは、その救いはどのような救いでしょうか。キリストの奥義であり、パウ ロが囚人になってまで伝えた異邦人の救いとは何か、聖書は独特な表現で記してい ます。私たちが救われるのはどういうことでしょうか。聖書は「共に」という言葉 を使って語っています。6 節にこう言われます。「すなわち、異邦人が福音によって キリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同 じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」。救われるという ことは、「共に」ということだと言い、その「共に」を三つの言葉で語っています。 第一は、「共に受け継ぐ者」です。救われるというのは、「共に受け継ぐ者」にさ れることです。「一緒に受け継ぐ」と訳されています。「共に」は「一緒に」と言 ってもよいでしょう。「共に」はスンという小さな接頭語です。例えば「シンフォ ニー」とか「シンパシー」という言葉があります。そこにスン、あるいはシンが入 っています。「共に」でなければシンフォニー(交響曲)になりません。また「共 に」があって、シンパシー(同情)が成り立ち、共感が起こります。「共に受け継 ぐ」というのは、キリストによる救いによって、イスラエルに約束された神の民の 特権や資産、総合的に言えば神の国を「共に受け継ぐ」ことです。そこに救いがあ ります。ですから、救いとは「共に」のことだと言ってよいわけです。「共に」は 愛があるから「共に」です。赦しがあるから「共に」です。敵対では「共に」は成 り立ちません。イエス・キリストの十字架における贖いが、敵意や隔ての壁を取り 除いて、神と「共に」、また他者と「共に」を打ち立て、「共に」の中に私たちを 入れてくれたのです。
 救いの第二の表現の「共に」は、「共に一つの体に属す」です。「同じ体に属す る者」と訳されています。救いとは、「共に一つの体に属する者」にされたことで す。「体」は「ソーマ」と言いますが、聖書はここで「共に」を意味する「スン」 と「体」を結び合わせて、「共に体」あるいは「共なる体」(スソーマ)という独 特な言葉を使用しています。「共体の救い」とでも言いましょうか。「体」は、も ちろん「キリストの体」であり、教会です。その体を「共なる体」に「共体」とし てそこに共に属するというのです。それはユダヤ人と異邦人が一つのキリストの体 に造り替えられたことを意味します。異邦人を欠いて「体」は成り立たないのです。 あなたがたを欠いて、キリストの体は成立しません。そういう深いキリストとの結 合、神のための結合の中に入れられています。それが救われているということです。 洗礼の大切さを改めて思わせられます。
 第三はキリストの「約束に共に」あずかる者になることです。共に受け継ぎ、共 に一つの体に属し、共に約束にあずかることが、神の秘められた計画にある救いで す。キリストに結ばれ、神にこの上なく近く身を寄せることのできる者たちとして、 互いに一つの御国を受け継ぎ、一つの体に属し、一つの約束にあずかる者とされま した。それがイエス・キリストにあって聖霊によって啓示された救いであり、この 救いを受けて伝えた使徒は喜んで「キリストの囚人」になったのです。
救いは三つの「共に」で表現されました。そのいずれも重大ですが。今朝は特に、 二番目に言われた「共なる体」「共に一つの体」という救いの表現に注意をしたい と思います。ここにエフェソの信徒への手紙の主題が示されていると思われるから です。エフェソの信徒への手紙は、1章、2 章と信仰の本質的な内容を語ってきまし た。三位一体の神と神の深遠な選びのこと、そして神の救いの御計画のこと、キリ ストにあってすべてのものが一つにされるという奥義が語られてきました。そして キリストの十字架の贖いによって敵意が滅ぼされ、隔ての壁が取り壊され、「一つ の体としての教会」が造り出されたと語ってきました。一つの霊に結ばれた一つの 体である教会が御父に近づくと言うメッセージがこの手紙の中心に響いています。 今朝の箇所の「共に」、「共に受け継ぎ」「共に一つの体に属し」そして「共に約 束にあずかる」ということも、教会の一致を語り、共に一つの体に属すことで「一 つである教会」を語っています。一つの体である教会に「共に」あるのは、キリス トの十字架と神の愛により、一つの霊によります。そこから喜びと力が湧いてきま す。
 コロナウイルスの感染防止のため、私たちはいま、離れ離れになって、主日礼拝 もそれぞれの家庭や部屋に分かれて礼拝しています。しかしそれは「共に一つの体 に属す」神の救いの御計画によって成り立っています。「共なる体」を今は、目に 見える集合体によって表現することはできません。しかし「一つである教会」に「共 に属している」ことを私たちは皆、信じています。そしてできる限り早く、目に見 える仕方でも一つに集って、キリストの体に加えられる洗礼式を祝い、聖餐式にあ ずかりたいと願っています。「共に一つの体に属す」という救いのために、使徒は 投獄され、囚人とされることも喜びとしました。投獄されても孤独ではなかったの です。いよいよ「共に」の中に生かされたのです。使徒の信仰は、私たちの信仰で もあるのではないでしょうか。祈りましょう。

〔祈祷〕憐み深き天の父なる神様、御言葉によって「共に一つの体に属す」という 救いを知らされ、感謝いたします。主イエス・キリストの贖いによって主の御体の 中に加えられておりますことを感謝します。この救いをさらに深く身に刻むことが できますように、導いてください。所を隔てて礼拝している銀座教会のすべての兄 弟姉妹の上に、あなたの憐みがありますように。またコロナウイルスの災いが抑え られ、一日も早く、正常な礼拝に復帰することができますように、導いてください。 世界各地の教会、特に厳しい試練の中にある地域の教会の上に、あなたの慰めと励 ましがありますように、また病いの苦しみの中にある人々の上にあなたからの癒し が、治療や看護のために労苦している人々の上に、あなたの慰めが、そして諸地域 のリーダーたちにあなたからの知恵と力づけがあたえられますように、主イエス・ キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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