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銀座の鐘

「トロアスの礼拝」

説教集

更新日:2020年08月02日

2020 年8月2日(日)聖霊降臨後第 9 主日 平和聖日 銀座教会 主日家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

使徒言行録20章7~12節

 本日の聖書の御言葉は、パウロたちによる第3回伝道旅行の途上、トロアス滞在最終日、7日目夜の出来事です。第3回伝道旅行は、小アジアのエフェソで3年間、福音を語り、その後、ギリシャを経て、いよいよエルサレムへと出発する最終準備がトロアスです。パウロはトロアス滞在の最終日、パンを割き、御言葉を語り、礼拝を捧げていました。この礼拝は、何時に始まったのか記されていませんが、夜中まで続きました。トロアスでの最終日の夜の礼拝中、突然3階から窓辺で居眠りしていた青年が転落死する事故が起こりました。この青年の名はエウティコ、彼は一日の仕事を終えて、パウロが語る福音を聞くために、週の初めの日、パンを裂くために集まった一人だと思います。4世紀以前は、週の初めの日は、現在の日曜日のようではありませ んでした。当時の人々は、日曜日も働いていたと思われます。礼拝中の転落事故の原因について、使徒言行録は「パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」と記しています。
 彼は、パウロが司式する聖餐式に出席していました。大変熱心なキリスト者の青年だったと言えるでしょう。彼の礼拝への情熱を感じます。そのような、熱心な青年が 転落事故に遭遇してしまいました。説教中の居眠りに対する天罰でしょうか。居眠り経験者として彼に同情する人は少なくないでしょう。これから教会をしょって立つ熱心な青年が礼拝中に転落し、事故死するという悲劇を私たちはどのように受け止めたら良いのでしょうか。
 私たちがこの事故の目撃者であったら、神さまどうしてこんなに素晴らしい好青年を召してしまうのですかと叫び続けることでしょう。説教中の居眠りが悪かったのですか、という声も聞こえることでしょう。トロアス伝道のための大切な後継者を失ったと嘆き続ける人がいることでしょう。神さまのなさることは、あまりにも非情ではないかと嘆くことでしょう。更には、パウロ、あなたがあんなに長い説教をするから こんな事故が起きたのだと、説教者パウロに対して、責任追及する人もいるのではないでしょうか。私も説教準備の途中、明日の説教は短くしろ!という声が聞こえてくることがしばしばあります。悪魔の声か天使のささやきなのか、とまどいます。
 さて、聖書を丁寧に読みましょう。礼拝中の突然の事故に対して、パウロは、真っ先に事故死した青年のところへ行きました。そしてパウロは、青年を抱きかかえ、「騒ぐな。まだ生きている」と言いました。そして、再び何事もなかったかのように御言葉を語り続けました。
 トロアスの礼拝におけるパウロは、マルコによる福音書5章の主イエスのように、会堂長ヤイロの娘の手をとって「少女よ起きなさい」(タリタ、クム)と言いません。 使徒言行録9章のペトロのように、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と語りません。列王記上17章の預言者エリヤは「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と神に祈りましたが、パウロはエリヤのように祈りもしていません。
 パウロは、主イエスやペトロやエリヤのように、パウロの名によって愛の言葉を発したり祈ったりする業を行っていないのです。誤解を恐れずに言うならば、パウロは この悲劇的な事故を前にして何もしていないのです。エウティコを抱きかかえ、周囲 の人々に騒ぐな、まだ生きていると語ったに過ぎないのです。これは、どのように理解すれば良いのでしょうか。
 使徒言行録が語っていることは、トロアスの聖餐をともなう礼拝で力を発揮したのは、パウロではないということを伝えているのです。本日の聖書箇所の解説に「パウロが命を生き返らせる奇跡物語」と記されたものもあります。そうでしょうか。聖書には、そのようなことは書かれていないのです。ここでエウティコを生き返らせた力は、パウロの力ではなく、聖霊が支配する礼拝の力です。聖餐と御言葉の力に目を向けようと聖書は語るのです。
 私たちがトロアスの礼拝において、目を向けなければならないのは、パウロの業ではなく、聖餐の恵みであり、福音の力なのです。トロアスにおけるパウロは、聖餐の恵みに全てを委ねて、信頼している姿です。人々が聖餐と御言葉から目をそらしている時、「騒ぐな、まだ生きている」と語ったのは、聖餐と御言葉の力を信頼し信じ、 御言葉の前に静まろうということではないでしょうか。パウロは、エウティコの命を神の力に委ね切っているのです。それが、トロアスの礼拝におけるパウロです。
 初代教会がトロアス伝道において経験した、神の出来事が、エウティコの復活です。 12使徒の力でもパウロの力でもなく、御言葉にこそ復活の力、命を与える力があることがトロアスの礼拝で明らかにされたのです。
 使徒言行録は、私たちが避けて通ることの出来ない死の問題に直面した時、パウロによって「騒ぐな」という言葉が響いたと伝えているのです。私たちは、死に際して、神の力が失ってしまったかのように騒ぐのです。福音が聞こえなくなったように騒ぐのです。私たちの叫びや嘆きで神の力を隠してしまうのです。だからこそ、パウロは 「騒ぐな」と語ったのです。
 エウティコの復活によって、パウロが語る主イエスの十字架と復活の恵みが、トロアスの礼拝を支配している事に注目したいと思います。パン裂きによって、神の赦しと神の命が与えられていることに目を向けなければなりません。
 エウティコの復活は、パウロの業ではなく、周囲の人々の愛の業でもなく、神のご意志がここに明らかにされているのです。神にのみ、命を支配する力があるのだと宣言されているのです。パウロの説教が長かったのが問題なのではありません。そのよ うなことは、ここに記されていません。神が非情だったのでもありません。神は、私たちの命の支配者であることを弁え、騒ぐことなく、神の御前に御言葉の力をしっかりと受け取るものにされたいと願います。
 私たちは、日曜日に礼拝を捧げる時、人間の力に頼るのではなく、神を信頼し神こそが命の源であることを覚えるのです。人間の力が支配しているように見える世界の中で神を礼拝し、神に信頼して生きることによって真の命を知ることができるのです。
 コロナ禍の中で、世界の死者数が日々報道されています。私たちは復活を信じる信仰から目をそらしていないでしょうか。神の声より人間の声に耳を傾けていないでしょうか。私たちは死に際して、一番不信仰に陥りやすいのです。死への準備をする時、 死に際して騒ぐことなく、キリストに抱かれている事を思い起こしたいと思います。 死に際して、キリストを隠してしまうのではなく、死に勝利した主イエスの復活に目を注ぎたいと願います。トロアスの礼拝において、御言葉が響き渡る中、十字架の主がエウティコに臨んでくださったのです。主イエスが十字架で死んだということは、 私たちを生かすための死でした。私たちの命を救うための死です。人間の命を滅ぼさないために、主イエスは死んでくださいました。十字架の恵みを通してエウティコは、 復活の恵みをいただきました。この聖なる神の時、私たちは騒ぐことなく神がなさる復活の業に目を向け、救い主を仰ぐのです。神の御業をしっかり見続ける礼拝を通して、御言葉を聞き続ける者となりましょう。ここに神の平和が実現します。

祈り
天の父なる神さま。平和聖日の朝、トロアスの礼拝における神の御業を見ることがゆるされ、感謝いたします。あなたの御前で騒ぐ私どものために、聖なる時を与えてくださり感謝いたします。神の御前に立ち続ける者とさせてください。
キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン