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銀座の鐘

「真理の霊が来る」

説教集

更新日:2020年11月23日

2020 年11月8日(日)聖霊降臨後第23主日 主日家庭礼拝  伝道師 藤田 由香里

ヨハネによる福音書14章15~17節

 使徒信条は、「我信ず」と告白し、主に三つの信仰対象を告白しております。「父なる神を信ず」、「我らの主イエス・キリストを信ず」、そして「聖霊を信ず」です。使徒信条は、教会の神、聖書の神、私たちの神である三位一体の神を告白しております。

 本日は「我は聖霊を信ず」についてヨハネ福音書よりお聞きします。ヨハネによる福音書14章は、主イエスの12弟子への告別説教の前半部分ですが、ご自分が立ち去っ ていくことを弟子たちが悲しんでいるのを承知で、あなたがたのために来る「真理の霊 」について告知されました。

 聖霊はここで「真理の霊」と言われます。「真理」という語は、ヨハネ福音書に大変特徴的な言葉です。「真理とは何か」(ヨハネ17章)この問いは、時の総督ポンテオ・ピラトの口を通して、主イエスに向けて語られています。「聖書的真理とは何か」ヨハネ福音書全体の重要な問いかけであり、また私達の人生全体を通じて聖書と神様に向けて問われ続けるべき問いです。そして、この問いを悟らせてくださるのが「真理の霊」であり「聖霊」であるのです。

 8:32「真理はあなたたちを自由にする」主イエスによる有名な言葉です。真理はイエス・キリストです。真理は、主イエスを信じることによる「罪からの解放」を示します。罪とは、世が主イエスを信じないことです。世が神から離れていく傾向にあることを罪といいます。真理による自由とは、言い換えれば、「世に属していた私たちが、神に属するものとさせていただく」ということです。私たちはそのことをよく耳にし、 信じております。

 けれども、同時に私たちはどこかおもっていないでしょうか。私たちは神様から新たに生まれさせていただきながら、依然として世に属しているのではないか。そもそも主イエスが語られている世とは何であるでしょうか。それは私たちが思う一般的な「世」の用法とは少し異なります。ヨハネ福音書の冒頭にこうあります。「世は言葉を認めなかった」。世は、主イエス・キリストを認めません。神の言葉を認めません。ヨハネ福音書における「世」とは、この世界に存在する主イエスに対する「不信仰」について語 っています。では、主イエスのほうは世を認めなかったのでしょうか、決してそうでは ありません。むしろ、主イエスは世を愛されました。「神は、世を裁くためではなく、 御子により世を救われるために御子を遣わされ」ました。洗礼者ヨハネは主イエスと出 会った時言いました。「見よ、あのお方が世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 世の罪が取り除かれる、これが聖書の告げる真理です。主イエスは、世を愛されたの で、その罪を取り除くために、十字架におかかりになりました。主イエスは「世の光」 となり、世を愛してくださいました。その中でも、主イエスがこの上なく愛しぬかれた のが、他でもなく「弟子たち」です。主イエスは「世にいる弟子たちを愛しぬかれまし た」。(ヨハネ福音書13章)この弟子たちに向けられたのが、本日の真理の霊についての説教です。本日の箇所には、「あなたがた」と繰り返しでてきます。「わたしは、 永遠にあなたがたと一緒にいる別の弁護者を与えてくださるように父に願おう。」聖霊 はどのようにして送られたのか。ヨハネ福音書が語っているのは、イエス様が父に願っ て、執り成し、聖霊が与えられたということです。聖霊により、父、イエス様が永遠に 一緒にわたしたちといてくださるためです。「聖霊」は、イエス様の願いと祈りによる ものでもあります。教会が建ち、私たちが救いの言葉を神様の言葉として悟ることがで きるのは、イエス様が願ってくださったからです。

「この方は、真理の霊である。」言い換えれば、この方は、「あなたたちを罪から自 由にする霊」である。

世は、聖霊を「見ようともせず」、「知ろうともしない」ので、「受け入れられません 」世に対して、弟子たちは異なります。「けれども、あなたたちは、聖霊を知っている 。真理の霊は、あなたたちと共にいて、またあなたたちのうちにいる。」(ヨハネ福音 書14:17)

 世と「あなたたち」と語られる弟子は、分けられています。世は神の言葉を聴くこと ができません。しかし、「あなたたちはすでに真理の霊を知っている」と主イエスは言 われます。それは、神のみ言葉を聞くということを知っているということです。み言葉 を愛することを知っているということです。そのことであなたたちは三位一体の神を愛 し、受け入れている、と主イエスは言われます。そして、神の言葉を受け入れるものは 、その人の傍らに聖霊はいまし、その人のうちに聖霊がいます。聖霊が内住しています 。真理の霊は、主イエスを証しします。真理の霊は、わたしたちを導いて、真理を悟ら せます。

洗礼を受け、霊によって新たに生まれると、私たちは神によって新しく生まれ、神に属 するものになります。「我らの本国、天にあり」というように、私たちの故郷こそ、神 様のもとであるのです。そこで、私たちが自分の中にある世を憎むことはとても重要な ことになります。「自分の命を憎む者は、命を得る。」この一文は、字義通り自分を大 切にしないことではありません。そうではなく、自分の中の「世」、神様を認めない、 神様の言葉を聴かないところ、つまり、自分の「罪」を憎むようにと勧められているの です。そして、それ以上に神さまは、何にもまさる愛によって私たちをすべて愛してく ださっています。「世の罪を取り除く」には、まず一度自分の中にある世を真剣に憎む ことが必要なのではないでしょうか。世の憎しみと罪は、主イエスの十字架において決 定的に現れました。神の小羊を十字架に追いやった世の罪。しかし、このとき、神の御 子の栄光が一番輝きました。主イエスはこの十字架上で言われたのです。「成し遂げら れた」

 この時、私たちの罪も、取り除かれることが可能になりました。
 この十字架は、復活の命に輝きました。そして、復活の主イエスが、弟子たちに吹き かけた息、これこそ聖霊でした。「聖霊を受けなさい。」 使徒信条の順番にあるように、主イエスの復活と昇天、そして後に聖霊が送られました。霊は、「再生と回復・再 形成」をもたらすものです。この霊を私たちは受けているのです。

 ヨハネ福音書7章では、イエス様は次のように言われました。「渇いている人はだれ でも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとお り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:37、38) これは、イエス様の栄光のあと、つまり十字架の後に受ける霊についての言葉だと記さ れます。つまり、ここに記される溢れる生きた水の流れこそ、私たちに聖霊が住んでい てくださるということなのです。主イエスの下に集い、飲ませていただけば、主が水を 与えて下さり、川が流れ出ます。聖霊を受ける、と、私達ひとりひとりから、生きた水 が川となって流れ出ます。教会には、川のほとりの木が茂っていて、その川からは生き た命の水が滾々と流れ出ているのです。これは、キリストの証し、聖霊の力です。

 イエス様は父なる神様に願ってくださいました。聖霊が与えられるようにと。この聖 霊は、私達もまた、主イエスの名によって願えば、与えられます。

 「 16:23あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。 そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

祈り
 天の父なる神さま。慰め主、真理を悟らせてくださる聖霊をお送りくださりあり がとうございます。私たちの傍らに、うちにいてくださる聖霊なる神様に感謝いたしま す。教会と私たち一人一人が一つの聖霊によって導かれますようお願いいたします。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン