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銀座の鐘

「神の時を生きる」

説教集

更新日:2020年11月29日

2020年11月22日(日)聖霊降臨後第25主日 終末主日・謝恩日家庭礼拝   牧師 髙橋 潤

ヨハネによる福音書6章33~40節

 本日は、「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。」という、使徒信条の最後の告白について御言葉に聴きます。この三つの言葉は、句読点で繋がっているように三つを別々にすることは出来ません。この三つの事柄は、一連のことであり、繋がっているのです。 罪の赦しを信じるということは、具体的にはどういうことでしょうか。この私が犯してきた過去の罪、今後犯すであろう将来の罪、私たちの全ての罪の赦しを信じ、神が必ず赦しの御業をもって御支配くださることを信じる告白です。
 身体のよみがえりは、罪の赦しによって、すなわち神の赦しの恵みの中で行われる御業です。永遠の生命を信ずという告白も、罪の赦しと身体のよみがえりと繋がっています。一言でいうなら、神の救いの確かさを信じるという告白です。
 本日与えられましたヨハネによる福音書6章の御言葉には、神の御心が明確に記されています。
 
38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしに なった方の御心を行うためである。39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与 えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40 わたしの父 の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日 に復活させることだからである。
 永遠の命を与える命のパンをくださいと願いました。対して、主イエスは、「私が命のパ ン」であると語りました。信じるものは、飢えることも乾くこともないとお語りになりました。しかし、主イエスは、「36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見てい るのに、信じない。」とお語りになります。主イエスを見ているのに信じない私たちを見抜いておられるのです。不信仰な私たちが見抜かれています。
 この主イエスの御言葉は、私たちが熱心に信仰告白しているにもかかわらず、信じない現実があることを指摘しているのでしょうか。
 神の救いは、主イエスを見ているのに信じない現実があることを指摘されています。神に救われるということは、私たちが主イエスを見て、私たちの決断で救われるのでしょうか。 宗教改革の伝統によって、信仰によって義とされると教えられています。私たちの行いではなく信じる信仰によって救われると教えられています。この信仰とは、私たちの決断でしょうか。洗礼を受けて、教会員になったら、救いは完成するのでしょうか。主イエスの「あな たがたはわたしを見ているのに、信じない」という御言葉をどのように受け止めたら良いのでしょうか。私たちは、救いの確かさ、救われているという確信をどのようにして与えられるのでしょうか。
 宗教改革者カルヴァンは、1559年「キリスト教綱要」を執筆しました。現在でも、キリスト教会の教えを受け継ぐ時、重要不可欠な基本図書の一つとして読み継がれています。 ほとんどの神学生は、神学校に入学直後、最初に薦められて読むのが「キリスト教綱要」です。その第3編21章の表題には、「永遠の選びについて、神はこれによってあるものを救いにあるものを滅びに予定したもう」と記されています。
 教会の歴史の中で、特に宗教改革後のプロテスタント教会の中で問題になったのが、いわゆる「予定説」です。ある人が「恐るべき教理」と呼んだともいわれています。しかし、全ての人が永遠の昔から、あらかじめ救われるのか滅びるのか、決められているということであるならば、自分は救われているのか滅びるのかと憂鬱にさせる教えとして受け取られてしまいます。もし、そのような神の決定が、永遠の昔に決まっているのであれば、信仰も、祈りも、洗礼も、聖餐もすべて空しいということになります。「予定説」に対する反発は、カ ルヴァンの時代からとても強かったようです。
 特に、救いは信仰次第である事を強調したアルミニュウスは、神は永遠の昔、信じる者を救うことを決定したといいました。この信仰理解は、ジョン・ウェスレーに影響を与えました。
 「予定の教え」は、どのようにして生み出されてきたのでしょうか。この教えは、同じ説教を聞き、同じようにキリスト教信仰を受け入れて救いに与ったにもかかわらず、ある人はそれを拒否して、恵みを受けないという現実を直視しています。どうしてそのようなことが起こりうるのだろうか。それぞれの人の決断の違いは、どのように説明すれば良いのだろうか。

 キリスト教信仰を受け入れた人は、正しい判断をしたから救われたという事なのでしょうか。もしそうであるなら、救われるか滅びるかは、人間の判断力によって左右されることになります。正しい判断ができるような、そういう人は救われて、そのような能力や知恵や力を持ち合わせていない人は滅びるということなのでしょうか。
 カルヴァンはそうではないと、聖書と教会の教えから示しました。すなわち、救いは、私たちの決断という人間の行為や力によるのではなく、神のご意志であり、神が相応しくない者を神から人間への一方的な恵みによって選んでくださったことによるのだと思わずにおられなかったのです。自分がいささか隣の人よりも立派だから、ましだから救いに与ったのではなく、神の自由な恵みによって選ばれたのだとしか言いようがない経験が、背後にあるのです。
 神を信じる者は、この教えによって、救いに選ばれている者とそうでない者を区別したり、選別するための教理としてはなりません。そうではなく、そのような者が存在することを知る事がまず大切なのです。その上で、自分自身、全くキリストの弟子として相応しくないにもかかわらず、キリストの救いに与る者とされていることを、感謝をもって受け入れるのです。救いの根拠、土台は、自分の行いや考えや力にあるのではなく、神にのみ、ある事を確認して、ますます信仰の確信を得るための教えとして受け入れる時に生きてくるのです。
 神の「予定」は、救いが人間の行いによるものではなく、ただ神の無償の恵みによるものであるという慰めの真理表明です。信仰者である事と選ばれていることは一つです。
 私たちは、自らの熱心さや、決断や、名札によって救いの確信を与えられるのではありません。私たちは、救われている喜びを喜ぶ恵みを与えられているのです。しかし、私だけが 救われているとか、私たちの教会だけが救われているということは、語れないのです。なぜならば、私たちが神に代わって、隣人を裁き、滅びを宣告していることになるからです。
 私たちは信仰の喜びの中に招かれていることを感謝し、神の喜びによって救いの確かさを喜ぶことが赦されているのです。しかし、主イエスがお語りになる「信じない」現実を謙虚に受け止めなければなりません。私たちの勝手な判断で、主イエスの代わりに、あの人は救われないとは決していえないのです。信じない現実、滅びについては、慎重に、一切を神にお委ねすることが大切なのです。
 私たちは「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。」という、使徒信条の告白を真実の告白として告白しましょう。神の真実によって謙虚にされ、神に代わって罪を宣告 し、隣人を裁くことなく、救われた喜びに生かされたいと願います。祈りましょう。

祈り
天の父なる神さま。あなたが教会にお与えくださった信仰を私たちが告白できる幸いを感 謝いたします。私たちがあなたの代わりに審判を下すことがありませんように導いてください。 同時に、救われていないかのように不安になることなく、救いの確信をお与えくださいますよう に祈ります。御言葉によってあなたの救いの御心を教えてくださり感謝いたします。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン