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銀座の鐘

「神を喜ぶマリア」

説教集

更新日:2020年12月04日

2020年11月29日(日)銀座教会主日礼拝・主日第2礼拝説教   髙橋 潤牧師

ルカによる福音書1章46~55節

主の年2020年、教会の暦では本日より新しい一年がはじまります。救い主の降誕を待ち望みつつ、クリスマスへご一緒に歩みます。
 本日与えられた聖書の御言葉は、マリアの賛歌と呼ばれる聖句です。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」
 主イエスの母マリアが、神を喜びたたえています。この神を喜ぶマリアに一体何が起こったのでしょうか。クリスマスの母マリアについて私たちは目を向けたいと思います。
 私たちは主イエスの母マリアについて、何を知っているでしょうか。主イエスの母マリアは、世界的に有名ですが、にもかかわらず私たちはマリアについて何も知らないのではないでしょうか。マリアについて、聖書はどのように語っているでしょうか。主イエス・キリストの母マリアとは、どのような人物なのでしょうか。
 四つの福音書には何が記されているでしょうか。マタイによる福音書は、マリアについて「母マリア」とだけ語ります。マルコによる福音書とヨハネによる福音書には、主イエスの降誕物語について記されていませんのでクリスマスの母マリアは登場しません。
 マリアについて最も多くのことを語っているのはルカによる福音書です。ルカは天使ガブリエルが遣わされた出来事によって、ガリラヤのナザレにダビデ家のヨセフのいいなずけのおとめであるとマリアを紹介しています。そして、マリアには祭司ザカリアとその妻エリサベトという親戚がいたことが解っています。この二人には、洗礼者ヨハネが与えられようとしています。しかし、マリアの人となりについては、それだけです。すなわち、新約聖書の四福音書のうち、マリアについて知らされていることは、ルカによる福音書に記されている、ヨセフのいいなずけであることと祭司夫妻の親戚がいたこと、これだけです。私たちが主イエスの母マリアについて知る手がかりは、ルカによる福音書が、母マリアをどのように見つめているのかを丁寧に読むほかありません。
 ルカ福音書は、母マリアについて、何を伝えようとしているのでしょうか。ルカは、主イエスとの関連だけしか語りません。マリアの両親や兄弟姉妹や故郷のことも、マリアの子どもの頃のことやどのような少女であったのかなど、全く記していません。しかし、ルカ福音書が注目している母マリアは、主イエスが語る御言葉を聞く人であることに焦点を合わせています。38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
 母マリアとは誰か、マリアの履歴よりも最も大切なことは、御言葉に自分自身を委ねることです。私たちはこのことだけ知っていれば良いのです。他にマリアのことを何も知らなくても問題ありません。マリアに続き、私たちも御言葉に聞く者として待降節のクリスマス物語の中で歩むのです。
 天使ガブリエルがマリアに「おめでとう、恵まれた方、主はあなたと共におられる。」(ルカ1:28)と挨拶しました。「恵まれた方」という挨拶は、単なる呼びかけの言葉ではなく、マリアの将来の使命を表す預言的な尊敬をもって呼ぶ言い方です。聖書学者は預言的尊称と説明します。
 旧約聖書の預言的尊称の一例を紹介します。それは、士師記に登場するギデオンに対する天使の挨拶が預言的尊称です。天使はギデオンに対して「大勇士よ」と呼びかけます。この時のギデオンは、まだ大勇士でもなんでもなく、酒ぶねの中で麦を打っていたに過ぎませんでした。しかし、天使の呼びかけを境にミデアン人に勝利します。故に「大勇士」という尊称は、ギデオンの将来の使命を表す、預言的な尊敬の称号といえます。同じようにマリアに対するこの「恵まれた方」という言い方は、マリアの今後の役割、使命を表す預言的尊称といえます。1章30-33節
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 マリアには、主イエスの母になるという使命が与えられました。マリアがどうして選ばれたかという理由は何も記されていません。ルカが語るのは、神のみ言葉に聞き従い、それを受け入れたからです。この神の選びは、聖霊なる神によって実行されました。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 ルカ1章35~38節
「恵まれた方」という預言的尊称とともに、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

 聖霊なる神によって神の子がおとめマリアから生まれることが伝えられました。これには、どのような意味があるのでしょうか。マリアは、ユダヤ民族の血筋ではない、聖なる者、神の子を生むということです。マリアから生まれる子は、旧約聖書で待望された民族的救い主以上の者であるということです。ダビデの王座につく聖なる者・神の子は、永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがないというのです。これは、ユダヤ人の王が生まれるということではなく、ダビデのみでなく、アブラハムを超えて、神に至る系図が示しているように全人類を支配するという意味です。ダビデの家から出る神の子は、かつての一民族のみを治める王ではなく、ユダヤ民族を越えた全人類を治めるという意味です。それが「わたしは男の人を知りませんのに」というマリアの疑問への答えなのです。

 ルカによる福音書3章23節では、系図において、主イエスは「ヨセフの子と思われていた」と記されています。主イエスはヨセフの子と思われていたが、実際には神の子であるということをここで暗示しているのです。全ての民族を治めるべき使命を担った者として、神の子が男の仲介なしに生まれたということが、使徒信条の「おとめマリアより生まれ」と告白する信仰なのです。全ての民族を治める使命は、聖霊によって導かれます。血縁血統に基づくことなしに救い治める役割を神の子に与えたのです。すなわち、主イエスの母マリアは、血縁によってつながるユダヤ民族の枠を超えて、全ての民の上に立つ者であるということです。マリアが処女として男性によらず、聖霊によって神の子を宿すということは、マリアがユダヤ民族の仲介なしに世界の全ての民に主イエスの名を呼ばせる聖霊の力によって、世界の普遍的支配者たる神の子を宿すということなのです。
 すなわち、聖書はマリアのいわゆる履歴書に記されるようなことは何も記していませんが、最も大切な使命を与えられたことを記しているのです。マリアは御言葉を聞く者の代表なのです。御言葉を聞くということこそ、最も大切な姿勢です。御言葉を与えられることによって、新しい使命を与えられたのが主イエスの母マリアです。

38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 主がお語りになったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう、と聖霊に満たされたマリアの親戚エリサベトが信仰の喜びを分かち合います。このエリサベトと神を喜ぶ対話から生まれたのが、本日礼拝で朗読された、マリアの賛歌です。エリサベトから、あなたは幸いな人ですと告げられたマリアが、それを受け止めて、本当に私は幸いな者ですと歌い始めます。御言葉を聞いた者は幸いなものなのです。マリアは「私の魂は主をあがめます」と歌います。「あがめる」という言葉は、原文ではマグニフィカートという言葉なので、マリアの賛歌はマグニフィカートとかマニフィカートと呼ばれています。その意味は、大きくするという意味の言葉です。神の大きさを知り、自分の小ささを知ることを喜ぶのです。神をあがめればあがめるほどに、自分自身が、身分の低い主のはしためと歌うのです。主のはしためというのは、人間社会における身分の低さということではなく、神の御前に立つ者として神との関係において卑しい僕である自分ということです。神さまの大きさを知り神を喜んでいるのです。神の御前に小さな私が神に選ばれ神に用いられ、御言葉に聞く者とされていることを喜んでいるのです。

 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません

神を喜び賛美するマリアは、神は憐れみをお忘れになりません、と歌い上げます。小さく、弱く、貧しい僕の一人である私に目を留めてくださり、身分の低い者を高く上げて、飢えた人を良い物で満たしくださった、主の憐れみを賛美しています。
 神を喜ぶマリアは、まだ神の子を生んでいません。将来の出来事を喜んでいるのです。しかし、この将来の出来事は、人間の企てではなく神の憐れみによる出来事なのです。この神の救いの力を信仰によって先取りして喜んでいるのです。
 待降節を迎えた私たちは、神の救いのご計画を先取りして喜ぶことが出来るのです。神の憐れみによって、マリアが幸いな者と呼ばれたように、民族の隔てを超えて、神の救いがあまねく広がっているのです。待降節、神の御業を共に賛美し喜びましょう。