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銀座の鐘

「キリストの誕生の次第」

説教集

更新日:2021年01月02日

2020年12月6日(日)待降節第2主日 主日家庭礼拝  牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書1章18~25a 節

 ヨセフは、「ひそかに縁を切ろうと決心」したと記されています。婚約者であるマリア が、自分以外の人の間で身ごもったことが明らかになったからです。しかし、自分以外の 誰なのか分かりません。天使の言葉で、その相手はその辺の男ではなく聖霊なる神である と知らされました。もし、マリアと関係を持った男が誰であるのか特定できれば、申命記 22章に基づいて裁くことが求められます。現行犯の場合は男女とも死刑となります。し かし、マリアの相手が誰なのか分からない中で、マリアは聖霊なる神によって身重になっ たというのです。聖霊なる神を信じるのか、天使の声を疑うか判断できないのです。その
ような場合、申命記24章によって記されていることが思い出されたでしょう。すなわち、 「妻に何か恥ずべき事を見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて家を去ら せる」という律法に照らした判断にたどり着いたのでした。ですから、マリアの相手が誰 であるのか判明しない限りはマリアの処刑はあり得ないのです。マリア一人だけが石打の 刑に処せられる心配もないのです。どんなにヨセフが訴えようともマリア一人だけを裁き の場に突き出すことは、申命記の律法では不可能です。ヨセフがこの時点で律法に従って 判断できる道の一つは、申命記24章の離縁状を書いて手渡し、縁を切ることでした。そ れが、にわかに聖霊を信じることのできない「正しいヨセフ」が思いついたことでした。 この事によって、イスラエルから悪を取り除く律法に従う事ができると考えました。
 「ヨセフの正しさ」とは、当時の律法に従う正しさです。しかし、この正しさは、ヨセ フ自身を正当化するだけであり、同時にマリアを批判し続けることになります。この正し さにはマリアを救う力はなく、二人の関係は崩れていくしかないのです。これがヨセフが 真剣に考えた「正しさ」です。誠実な婚約者が考え得る限界、人間の正しさの限界がここ に見えると思います。
 婚約者マリアとの関係破談を決心させた「正しいヨセフ」に、主の天使の言葉が与えら れました。「主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え 入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」この天使の言葉は、夢の 中で天使を通して語られた神の言葉です。この神の言葉をヨセフは、どのように聞き取っ たのでしょうか。夢からさめたヨセフは神の律法ではなく、律法の源である神の言葉に従 ったのです。律法による正しさから、神の言葉による正しさへと道が開かれました。
 「聖霊によって身ごもった」という神の言葉は、マリアを救い出す以前に、ヨセフ自身 の「正しさ」こそ、神に背を向けている罪であることを指摘しているのではないでしょう か。ヨセフは、自分自身が神にしたがっているという思っていたが、実は神に背を向けて いることに気付かされたのではないでしょうか。
ヨセフが目覚めたのは、ヨセフあなたは「ダビデの子」であるという言葉です。律法に 従っていれば後ろ指を指されないで生きられるという、消極的な正しさに生きていたヨセ フが、あなたはダビデの子であることを思い起こし自覚しなさいと指摘されたのです。
 ダビデの子とは、どのような意味があるのでしょうか。マリアに対して離縁状を渡すと いう道ではなく、別の道があることをヨセフに理解させる言葉になったのです。一つには、 自分が離縁状を渡すことは、ダビデの子孫を途絶えさせることに繋がります。イスラエル の神の民の歴史に終止符を打つことになるのではないかという恐れが天使の語る、「ダビ デの子」よという言葉から聞こえたのではないでしょうか。イスラエルの神の民は、長い 年月、ダビデ王の再来を待ち望んでいました。イスラエルの国を唯一、統一王国としたあ のダビデを待ち望むことを希望に、苦しみに耐え抜いてきたのです。信仰に生きてきたの です。申命記の24章の律法に従う事ではなく、神の民が待望したダビデの子としての使 命と召命を与えられたのでしょう。これこそが神の律法に従う道ではないかと受け止め直 したのではないでしょうか。
 救い主がお生まれになるということは、ユダヤの文化では、王家の血統に属することで なければなりませんでした。父親の血筋がダビデに繋がっていなければならないのです。 マリアが気に入るか気に入らないかという判断で離縁状を渡すのか、神の救済の歴史に用 いられるのかがヨセフの判断の分かれ目であったのです。
 当時の社会では、生まれる子どもを認知するのは、母親の証言より父親の証言の方が力 がありました。父親は自分の身に覚えがなければ認知しないと考えられたからです。すな わち、イエスと名付けるということは、ヨセフが積極的にこの子は私の子であると人々に 公表することになるのです。救い主の名付け親となる使命を与えられたのです。こうして ヨセフは律法に従って、主イエス・キリストをダビデの子として法律で認められた関係に 加えることができたのです。同時に神のご計画からいうならば、神の子が律法によって正 式に認知されることになったのです。ヨセフがイエスと名付けたということは、まさにク リスマス、救い主をお迎えし礼拝する事を指し示しているのです。
 イエスと名付けたということは、もう一つ大切な意味があります。一般的にイエスとい う名は、どこにでもある名前と説明することがあります。しかし、特別な意味もこめられ ています。それは、ギリシャ語ではイエスですが、ヨセフが名付けたヘブライ語では、イ エスのヘブライ語表記、ヨシュアです。実際には、ヨセフはヨシュアと名付けたのです。 クリスマスの父ヨセフは、旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという旧約聖 書のヨセフと重なる出来事がいくつもあります。旧約聖書のヨセフは夢を解き明かし、エ ジプトへ下り、イスラエルの命を助けました。創世記の物語は出エジプト記に引き継がれ ていきます。出エジプト記のモーセも幼い頃、エジプトの王ファラオから逃れ、王が死ん だ後、再び帰還しました。旧約のヨセフと新約のヨセフは重なる出来事が少なくないので す。そのモーセの後継者がヨシュアです。ヨシュアはモーセの任務を完成し、約束の地へ 神の民を導きました。ヨシュアとは「主の救い」という意味があると説明することがあり ます。マタイ福音書は「この子は自分の民を罪から救うからである」と語ります。モーセ がヨシュアと共にヘブライ人をエジプトから救い出しましたが、主イエスはユダヤ人だけ に限らず、すべての民を救う、真の救い主であることが語られているのです。
 ヨシュアなるイエスは、自分の民を罪から救う、すなわちユダヤ人に限定されていない のです。そして、イエスはインマヌエルと呼ばれる、神は我々と共におられる、この大切 なことがヨセフに与えられた使命です。ヨセフはイエスと名付けるという彼の人生におい て最も大きな仕事をなしたのです。ヨセフについてはこの事以外のことは何一つ聖書には 記されていません。それは、イエスと名付けたこと以上の栄誉はないのです。神さまに用 いられた最も大切な使命に従う事がこの道であったのです。離縁状ではなく、律法を律法とする真の律法に従う道が主イエスを認知し、主イエスと共に生きる道を誇りを持って開 いたのです。
 私たちがクリスマスにヨセフの名付けを聞くことは、どのような意味があるのでしょう か。ヨセフが聖霊によって宿ったキリストを認知したことは、私たちが聖霊を信じ、ヨセ フに託された神の民の歴史をこの日本において担う使命を与えられていることではないで しょうか。私たちはヨセフと同様、聖霊なる神を信じる信仰をせまられているのです。そ の聖霊なる神に信仰をもって答える、クリスマスを迎えたいと願います。
 私たちは、ヨセフのように大切な判断をせまられることがあると思います。どちらの判 断が神に従う事になるのだろうか。聖霊なる神の御業を信じる信仰を養いつつ、クリスマ スを迎えたいと願います。神は私たちに神の救いの道を開くために使命を与えることがあ ります。神が与える使命から逃げるのではなく、従いたいと思います。また、神を忘れ、 自分の正しさに酔うのではなく、神の正しさ、神の導きを祈りつつ求めていきたいと願い ます。祈りましょう。

祈り
  天の父なる神さま。待降節の日々、私たちが、あなたに背を向けている時、御言葉 によってあなたに立ち返る道を示し、ヨセフのように主イエスへと目を向けさせ、悔い改 めさせてください。私たちに与えてくださった信仰を感謝し讃美しつつ告白できるように お導きください。待降節の日々、救いの確信をお与えください。私たちの讃美の心を豊か にしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン