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銀座の鐘

「御心の実現を祈る」

説教集

更新日:2021年03月16日

2021年1月24日(日) 公現後第3主日 主日家庭礼拝  伝道師 藤田 由香里

マルコによる福音書14章32~36節

 本日は、主の祈りの「御心が天においてなるごとく 地にもなさせたまえ」について聖書にお聞 きします。
 主の祈りでわたしたちは神様の御心を祈り求めます。主の祈りが教えられている箇所で、この 3つ目の祈りの「なりますように」という部分は、「ギノマイ」という言葉で「成る、生ずる」 という意味です。「実現している」と言って良いと思います。文法的には3人称命令形受け身・ 単数という形です。3人称の命令形は、「それを〜させたまえ。」という訳し方ができます。「御 心が実現されるようにしてください。」と言えます。
 御心は、「あなたの意思・あなたの願い」です。つまり、神様の意思、神様の願い、神様の思 いです。
 神様の御心は、天においては完全に実現しています。けれども、地はそこから言わば、引き裂 かれてしまっているような状態です。天では神様の義と平和で満ちている。神様の栄光と祝福・ 命と光で満ちています。地はどうでしょう。神様が御心によって天地万物を創造してくださいま したが、人間の歴史と社会形成の過程においては、常に何らかの不正義、争い、人間の自己中心、 死があり、それらすべての根としての人間の罪があります。そのようにして地は、神様から離れ ていったアダムに始まり、天から引き裂かれる道を辿りました。それを、新たに回復と和解へ・ 神に向かって生きる神の民の神の国の実現へと贖ってくださったのが主イエス・キリストです。
 そして、本日示されましたゲッセマネの祈りは、主イエスご自身が御心を祈り求める姿をわた したちに示してくださった箇所です。
 ゲッセマネの祈りは、イエス様が十字架形へと向かわれ裏切られ、逮捕される直前に祈られま した。神の国を宣べ伝え、多くの人への癒しと悪霊追放をなさり、主の晩餐の食卓を終え、ペト ロの離反の予告をなさって、この時になります。言わば十字架刑へと一気に向かう前のクライマ ックスの時です。
 イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちを伴われました。この3人は、しばし ば山上の変貌などで主イエスが重要な局面で連れておられます。イエス様は、弟子に「わたしが 祈っている間、ここに座っていなさい」と言われました。イエス様の祈られる時、傍にいるよう にと言われました。この祈られるお姿を記憶に留めるようにと願われたのでしょう。イエス様は、 「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と言われました。こ こから、イエス様は、十字架刑を超然とした雄々しさで平然とお受けになったのではないことが わかります。何を悲しんでおられたのでしょう。これから起こることを主は全てご存知でした。 その十字架刑の苦難・それを引き起こした全ての人の罪の悲惨さを見つめておられるのでしょう。 この「わたしは死ぬばかりに悲しい」という表現は、「わたしの魂は死ぬばかりに悲しい」と記 されますが、詩篇42編の言葉から来ていると言われます。42:6「なぜうなだれるのか、わ たしの魂よ」は、「うなだれる」が主が言われている「悲しむ」と同じ言葉です。この詩は、「涸 れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める」で始まることで有名です。 神を渇くほどに慕い求める信仰者の祈りの言葉の中の一片です。地に生きて天と神様から離れて しまった人間の渇きを、主は代わりに知り、理解し、苦しんでくださったのでしょう。
 そして、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、言われまし た。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
 「アッバ」、幼子の言葉でお父さんを呼ぶ声賭けを神様に使うことは、当時のユダヤ教の慣習 にはありませんでした。それほど、イエス様が父なる神様と近くあられるということです。そし て、この御心を求める祈りを祈る時に、深い信頼と親しみで満ちた「アッバ、父よ」で祈る。父 なる神様へのイエス様の深い信頼の様子が聞こえて来ます。イエス様はまず、父の全能を告白し ます。父は何でもおできになるのです。そして、「可能なら」この杯を、十字架を、わたしから 取りのけてください、とご自分の願いを言われます。けれども、続けてはっきりと祈られます。
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」
 あなたの意思、「父の御心」が行われますようにとイエス様は何よりも、父なる神の御心を祈り求めてくださいました。
  ここで、主イエスは、ご自分の願いを無理やり無視して諦めたのではありません。そうではな
く、父の御心に深く信頼しきって委ねられました。ご自分のお受けになる杯が、主イエスを信じ る全ての人に永遠の命を与え生かすものになると知っておられたのです。「信仰の創始者であり 完成者」である主イエスのお姿です。
  わたしたちの祈りはどうでしょうか。「自分の願いではなく神様の願いが実現しますように」 と祈る時、一見すると、諦めや忍耐を要することに聞こえますけれども、実はそこには、表現し ようのない深い安心感があるのではないでしょうか。

 イザヤ書55章に次のような言葉があります。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は 言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」

 わたしたちが思うことを神様の思いは高く広く超えておられます。福音書で、人々の願いを見 てみると様々です。それは神様の御心に適うこともあれば、そうでないこともあります。盲人は、 「見えるようになりたいのです」と願って、イエスさまに目を開いていただけました。弟子たち は、偉くなりたいと議論して、イエスさまに「人に仕えるものになりなさい」と言われました。 罪なきイエスさまを「十字架につけろ」という人々の願いは、神様のご計画の成就のため、その ようになりました。神様の御心は、わたしたちの考えを高く超えています。そして、神様の御心 は、さまよう1匹の羊について、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天 の父の御心ではない。」(マタイ18:14)と言ってくださっているのです。

 わたしたちには、その渦中にいるときはわからなくても、「なぜ?」と思ってしまうときも、 後になって万事が益となるように働くこと、恵みであったことを知らされるということがありま す。そうすると、実は、天の御心から理解せずに離れてしまっていたのは自分の思いや考えでは なかったかと学ばされることもあります。地における御心の実現を願うことは、わたしたちにと って最も良いことを知っておられる神様のいと高き御心に信頼して生きられるということです。 今与えられている杯は、もしかしたら厳しいものと思われるかもしれません。けれども、御心を とことん祈り尽くしてくださった主イエスが受けられた杯、御苦しみの十字架は、わたしたちの救いとなって、復活の命をもたらしてくださったことをわたしたちは知っています。神様のご意 思は、義であり、愛です。全き正しさのうちに、まずご自分がご自身をお献げくださいました。

 素直にわたしたちは、神様に自分のことを素直に注ぎだしていいと思います。しかし、それ以 上に、「あなたの意思」「神様の御心」がなりますようにと祈ることが大きな祝福です。

 イエス様は、ゲッセマネで3人の弟子に、「目を覚ましていなさい」と言われました。一連の 祈りを、御傍で目を覚ましているように、祈りを合わせるようにと願われたと思います。けれど も、弟子たちは、眠ってしまいます。「心は燃えても肉体は弱い」とイエス様は言ってください ました。これは、実際にイエス様と私たちの関係であると思います。イエス様は、先に進んで目 を覚まして、父に信頼し、父に御心を祈り求めてくださっています。わたしたちのために、イエ スさまがまず進んで先に御心を祈っていてくださっています。わたしたちの不完全な祈りも、わ たしたちの眠ってしまう時も、絶えず目を覚ましておられる主がおられます。
 御心が実現しますように、という祈りは、天と地とが近くなり、やがて一つとなるための祈り です。神さまの義、平和、愛、栄光、それらが地においても実現するように。この祈りは、教会 を豊かに前進させ、神様の栄光が現れ、兄弟姉妹が育まれ、互いに愛し合いながら、伝道が実り、 福音伝道の前進、神の恵みが地に満ちることへとわたしたちを日々導いてくださる祈りです。わ たしたちの歩むべき道を示していただける祈りです。主の御跡に従い、主の祈りに倣って祈り続 けたいと思います。

祈祷
 天の父なる神様、イエスさまが祈られたように、わたしたちも祈ることができますように。 まず主がわたしたちに先んじて御心を祈ってくださっていることを覚え感謝いたします。神様の 御心が、天に実現しているように、この地にも豊かに実現しますように。主イエス・キリストの 御名によって祈ります。