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銀座の鐘

悪より救い出したまえ

説教集

更新日:2021年03月20日

2021年 2 月14日(日) 公現後第6主日礼拝 家庭礼拝  伝道師 藤田 健太

ルカによる福音書22章31~34節

 主日礼拝において少しずつ学びを深めてきた「主の祈り」も終わりに近づきました。
今朝皆さんと一緒にお聞きするのは、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したま え」の祈りです。厳密には主の祈りの中でこれは 2 つの別々の祈りです。主の祈りの 中で「我らを試みにあわせたまうな」が六番目の祈り、「我らを悪より救い出したま え」が七番目の祈りです。六番目の祈りはマタイによる福音書とルカによる福音書の 両方に記されます。一方、七番目の祈りはマタイにだけ記され、ルカには記されてお りません。しかしこの2つは内容的に分かちがたく結びついているため、1つの祈りと してお聞きすることもできます。
 主の祈りはこのあと「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり、アーメン」と 閉じられます。そこで、実質的にはこの「悪より救い出したまえ」が主の祈りの中の 最後の祈りになります。私たちは最後の最後に「悪よりの救い」を祈ります。なぜ、 主イエスは最後の最後に「悪よりの救い」を祈るように私たちに命じられたのでしょ うか?それはやはり、主イエスを待ち望む私たちにとって「悪」の問題が最も根深く、 また最も解決困難な課題であるからに違いないと思います。「試み」は私たちに困難 に追いやり、私たちを揺さぶる点では「悪」に通じるものがあります。旧約聖書のヨ ブ記は、私たちに「試み」と「悪」の関係について何事かを教えてくれます。「悪」 は神さまご自身から出たものではありません。しかし、「悪」は神さまのご支配の中 にあり、「試み」の器として利用されることもあります。ヨブを試みようとするサタ ンの提案は神さまによって受け入れられました。

 「試み」はもとの言葉で“ペイラスモス”という言葉です。この言葉は日常生活の 世俗的場面で用いられることはほとんどありません。人間が単純に誰かを「試す」と いった際に使われる言葉ではありません。ギリシャ語の世界で、この言葉は、神様に よる「試み」を意味しました。その力の背後に神さまの力が働いていることが明らか である場合に用いる言葉です。神さまによる「試み」は聖書の至る箇所に描かれます。 ヨブに与えられた「試み」はその典型的な例です。申命記 8 章 2 節には次のようにあ ります。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。 こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒め を守るかどうかを知ろうとされた。」神の民イスラエルの歴史は神さまによる「愛の 歴史」であると同時に「試みの歴史」でもありました。「試み」は必ずしも悪いもの であるとは限りません。出来事が過ぎ去って冷静になり、目を凝らしてよく見つめた 時、それは神様による愛に満ちた「訓練」であったと分かるケースも少なくありませ ん。箴言 3 章 11 節以下には次のような言葉もあります。「わが子よ、主の諭しを拒む な。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者 を懲らしめられる。」
 
 人間の些細な悪意は私たち自身の内にも、私たちの家族、友人の内にも十分見つけ ることができます。大抵の場合、それらは人間の善意と表裏一体で、適切にコントロ ールすることで十分対処可能な程の力です。しかし、時として対処不能と思える「悪」 の力が私たちの生活を脅かすことがあります。そういった力は「愛に満ちた訓練」と いう言葉では決して説明のつかないものです。そのような「悪」を神さまは決して見 過ごしになさりません。新約聖書の黙示録 3 章 10 節では、世界の諸教会に向けて次の ような言葉が送られます。「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆ え、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあな たを守ろう。」ここでは「試み」は「悪」と結びついており、神様に敵対する力、終 わりの日に私たちを試す力として言及されます。そのような根本的な「悪」を打ち砕 く神さまのイメージについて黙示録は繰り返し私たちに語ります。黙示録に語られる 「悪」の存在感は強烈で、神さまに仇なす“獣”や“サタン”といった人格的な存在 として認識されています。サタンのような人格的な「悪」の存在を信じるかどうかは 一人ひとりの自由な信仰に委ねられます。「悪」の力は普段は隠れていますが、思い もかけない瞬間にその力を現わします。悪の力の存在に不慣れな私たちは、ひとたび その力が現れた時には、その力を前に慄然とさせられます。「悪」の力があまりにも 顕著に現れる時には、私たちは人格的なサタンの力をさえ感じるような気がします。
 
 本日お読みした聖書の箇所は、ルカによる福音書の中の「ペトロの離反の予告」の 場面です。この箇所では、はっきりとペトロの離反の背後にサタンの働きがあったこ とが言及されます。また、ヨブ記に見られるように、悪意に満ちたサタンの決定につ いて神さまはすべてご存じであったことも記されます。しかし、そこには同時に、主 イエス・キリストの執り成しの祈りがあります。「しかし、わたしはあなたのために、 信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づ けてやりなさい。」(ルカ 22:32)「悪」や「試み」は強烈な力で私たちを撃ちます。 しかし、「悪」や「試み」のある所にはいつも主イエスの祈りがあることを覚えまし ょう。天の神さまは御自分の一人子の祈りを決して軽んじることはありません。私た ちもまた、主イエス・キリストに続いて、「天にまします我らの父よ」と祈ります。 神さまの子どもとされた私たちの祈りを神さまは軽んじることはありません。そこに は常に逃れの道、救いの道が備えられています。終わりの日の復活、永遠の命は「悪」 に対する完全な勝利の出来事です。

 火曜日の聖書講義では、現在、動画配信によってヨハネによる手紙一を読み進めて います。ヨハネの手紙一 2 章 13 節にはこうあります。「若者たちよ、わたしがあなた がたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。」この言葉は 教会の様々な世代に向けられたメッセージの内、若者に宛てられた言葉ですが、14 節 に同じフレーズが再度繰り返されており、手紙の著者の独特な強調点が置かれていま す。14 節ではさらに言葉が補われて、次のように書かれます。「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にい つもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。」「我らを試みにあわせず、 悪より救い出したまえ」と祈る私たちは弱いままの私たちではありません。神様が祈 りに応えて私たちを強めてくださり、祈りの言葉のあるところにいつも共にいてくだ さり、終わりの日の最終的な勝利へと導いてくださるのです。かつて 3 度も主を否ん だペトロは復活の主と出会い、「兄弟たちを力づける」ほどの信仰の成長を得ました。 ペトロもまた、弱いままではありませんでした。
 
 主の祈りは「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり、アーメン」と閉じられ ます。私たちの生活を脅かすあらゆる「試み」や「悪」の力に関わらず、私たちの生 活の一切は神さまの御手の内にあることを確信して主の祈りは閉じられます。私たち にとって不可解な力をも神さまは私たちの救いのために用いてくださいます。神の子 を死に追いやった人間の悪意をも、神様は良きご計画のためお用いくださいました。 復活のキリストを私たちの勝利の旗印として、神様によって強められて、今日も平安 の内を歩みましょう。

祈り
 天の父なる神さま、私たちを「試み」にあわせず、「悪」よりお救いください。 太刀打ちできない力に撃たれ、恐怖に脅える時、そこに主の祈りがあることを思い出させ てください。主が私たちを救い出すため執り成しの祈りをささげてくださっています。私 たち自身の口にも主の祈りが授けられています。この祈りによって、私たち自身強くある ことができますように。あなたにお仕えすることができますように。1 週間の歩みをお守 りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

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