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銀座の鐘

愛の命令

説教集

更新日:2021年03月20日

2021年 2 月28日(日)受難節第 2 主日礼拝 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

出エジプト記20章1~11節

 神の民はエジプトにおいて「奴隷の家」を経験しました。その「奴隷の家」にモー セが遣わされました。神の召命と愛の命令に従って、モーセはエジプトの王ファラオ と長い交渉の末、神の民を奴隷の家から解放しました。出エジプトの出来事です。エ ジプトの国から荒れ野へ脱出したモーセ率いる神の民の人生は、解放されて楽園の生 活が与えられたのではありません。荒れ野の旅では「奴隷の家」のほうが良かったと つぶやくほどの苦しみを経験します。その途上、神は耐えず神の民と共におられ、最強のエジプト軍に追いつかれそうになっても、守り抜いてくださいました。
 神は「奴隷の家」における神の民の苦しみを聞いておられました。出エジプト後の 荒れ野の旅が過酷な旅であることも知っておられたにちがいありません。神の民は、 目先のことしか知りません。奴隷の家から解放されることを喜びました。しかし、荒 れ野の旅に神が同行してくださることの恵みは、すぐには理解出来ませんでした。神 が同行し、共に苦しんでくれることを知るにつれ、エジプトの奴隷が神の民に成長し ていきます。神の民へと成長するために、神は声をかけ続けます。最も大きな試練の 時こそ、神の声は響きます。神の民は、出エジプトの二ヶ月目で不平不満を爆発させ ました。本日与えられた聖書の御言葉は、三ヶ月目モーセとアロンが神の民との信頼関係に亀裂が入りそうな試練の中で与えられた神のみ声です。
 出エジプト記20章1~11節は、十戒の前半部分です。この中で、神が自己紹介しています。それが(5節以下)「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神であ る。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6 わたしを愛 し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
 モーセとアロンは、神の民の苦しみの声を聞いていました。神の民は、モーセ達に対 して苦しみを訴えていました。双方共に神の声に耳を傾けていませんでした。そんな 「余裕」はありませんでした。私たちの人生の途上、教会生活の途上、神の声が耳に 届かなくなる時があります。「奴隷の家」のほうが良かったと真剣に考えるのです。 この時神は、黙していた口を開きます。「わたしは主、あなたの神」。
 皆さんは、ご自身の人生において「奴隷の家」を経験していることと思います。私 たちが自分のことで一杯になって「わたしは主、あなたの神」という神の声が私たち の心の底に届いていなかったことを思い出すのではないでしょうか。しかし、神の声 は、私たちが「奴隷の家」経験者であるからこそ御声をかけてくれるのです。神は、 そのような私たちにあなたの「モーセ」を用いて下さり、「わたしは主、あなたの神」 と語り続けて下さったのです。
 私たちが救い主イエス・キリストに出会う前の経験や洗礼後でも、神と教会から離れた経験をお持ちの方はよく分かるのではないでしょうか。もちろん、文字通りの「奴 隷」ではなくても、神の声が届かないところで不安と孤独に支配され、人間の声に支 配され、自分を見失ってしまう「奴隷の家」経験者であるといえると思います。モーセがエジプトの王ファラオとの交渉の時、エジプト脱出の目的を告げます。(5章)
どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさ せてください」。エジプト脱出の目的は、神にお会いすることです。荒れ野におられ る神にお会いし、礼拝をささげることが出エジプトの目的でした。荒れ野を旅する時 間は、神を礼拝する時間でした。神を礼拝し、神の声を聞くことなしに荒れ野の旅を 続けることは出来ないのです。荒れ野を旅することは礼拝です。私たちは、人生の荒 れ野の只中で、「わたしは熱情の神である。…わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」との神の声を聞くのです。 聖書の神は「熱情の神」です。私たちを神の熱情によって愛する神です。神は、神の熱 情によって十戒をお与えくださったのです。その時「わたしを愛しなさい」と私たちに愛 の命令をお与えになりました。私たちは神を愛するということがどういうことなのか分か りません。知りませんでした。しかし、そのような愛することを知らない私たちを愛することによって、神の愛の交わりに加えてくださるのです。神が私たちに愛を教える時、愛 とは何かを解くのではありません。愛を教える時、この私を愛しなさいと愛の命令によって教えるのです。「愛しなさい」といわれても途方に暮れる私たちに対して手取り足取り教えてくれます。それが十戒の前半です。
 

    第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」

何の取り柄もない、神が愛するに価しないこの私を神の愛の交わりに招いてくださっているのです。私たちは熱情の神以外に、よりどころとするようなものを一切必要としない ことを知り安心します。神の熱情によって愛されているのです。ゆえに他に神々を恐れる こともないし必要ないのです。私たちが神を信頼し愛する第一歩を歩み出します。

    第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。」

「像」とは何でしょうか。聖書の世界では「像」とは神の霊の住まいと考えます。古代 の社会では、人は死んだ後人間から霊が離れていくと考えます。そのため霊の住まいをお かなければならないと考えました。日本ではお墓に石を置きます。この墓石は死者の霊を 新しく住まわせるためのものです。古代オリエントでは国境に王の像を建てます。王がそ こにおられるのだと示すためです。同じように神の像を造るということは、神がそこにお 住みになる。そして人間を守ってくれることになるのです。神の像を造るということは、 神の住まいを人間が決めてしまうことです。像を造るなということは、神はどこにでもお られどこにでもお働きになる神の自由を信頼することです。人間の考えで神を利用し束縛 してはなりません。神の自由な働きを信頼することが、神を愛することなのです。

     第3戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」

「みだりに」という言葉に注目しなければなりません。「みだりに」とは、「むなしく」 という意味をもっています。「みだりに」とは、人間が神の名を利己的なことのために使 ってはならないということです。神の名を利用して呪術をして神の働きを自己目的にため に利用すること「むなしい」ことであり、愛することではないのです。

     第4戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」

 安息日は、キリスト教会にとっては土曜日ではなく日曜日です。この日には仕事を中断 して、聖なる日とし、神の時として礼拝をささげます。時は神のものなのだから神のもの としなさいと教えるのが第4戒です。ともすると、時は自分のものであり、自分の自由で あると考えてしまいます。主日礼拝をささげることは、決して強制ではありません。しかし、神の時であることを忘れることによって、安息日は、私の自由であると考えてしまい ます。しかし、そうではないのです。安息日は神の創造の御業、救いの完成を祝う日であ り、私たちは神の家族の一員とされていることを味わう日なのです。神が招いてくださり、 神の御業の完成を祝う礼拝をささげることこそ神を愛することなのです。
 十戒は、十の「戒め」と書きます。ヘブライ語でも十の言葉です。戒めとか掟という翻 訳から、この掟を破ったら破門されるという恐ろしいことを連想してしまいそうです。し かし、十戒は、私たちを破門するために与えた言葉ではありません。十戒を与えた神の御 心は、私たちの弱さ惨めさを探し出し、破門することではなく、弱く惨めな私たちと、ど こまでも共にいて下さるところに示されています。十の神の愛の言葉を通して、神と共に 神を信頼して生きるために与えられた神の愛と期待の言葉なのです。
 現在、キリストの教会において、主イエス・キリストが十戒を神を愛することと隣人を 愛することという意味を教えたように、私たちに与えられ続けている神の言葉なのです。
 いつの時代であっても十戒を神の愛の言葉として学び続け、神と共に歩む人生の途上で私たちに生きて働く力の源を携えて、信仰生活を豊かにしたいと願います。
 マルコによる福音書12章に記されている、ある律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という問いに対する主イエスの答えを読みましょう。
第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の 主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である 主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この 二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ 12:29-31)
 主イエスは、神がモーセに与えた二枚の石の板に刻まれた契約の言葉である十戒を神を 愛することと隣人を愛することであるとお語りになりました。十戒を学ぶ私たちは、この 主イエス・キリストの神を愛せよとの愛のご命令に従いたいと願います。

祈り
天の父なる神さま。十戒の言葉によって愛のご命令を与えられていますことを感 謝いたします。あなたのみ声を聞き、あなたを愛する道を歩ませてください。主イエスの 御名によって祈ります。
アーメン

  

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