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銀座の鐘

一人一人に与えられている恵み

説教集

更新日:2021年03月20日

2021年3月21日(日) 受難節第5主日 礼拝 家庭礼拝  近藤 勝彦 牧師

エフェソの信徒への手紙4章7~10節

 信仰生活において大切なことは何でしょうか。何が一番、何が二番とは言うわけにはいかないでしょうが、私たちに「恵みが与えられている」、その確かさを失わないという ことが、今、とても大切なことに思えてなりません。コロナ感染第三波の緊急事態宣言か ら2か月を経過しました。誰にとっても、毎日の生活が試練の中です。試練の日々はまだま だ続くと考えなければならないでしょう。その試練の中で、誰もがさらに、それぞれの事 情をかかえて日々を過ごしています。若い方たちには将来の不安があり、高齢の者たちに も日々の苦労があります。病に苦しむ人や家族もあるでしょう。しかしこの試練や苦労の 生活の中で、キリスト者は「恵み」の中に生かされています。そう信じています。今朝は 、「恵みを与えられている」とは、どういうことなのか、それがどんなに素晴らしく、力強いことか、御言葉を聞いて、神様の御名をほめたたえたいと思います。

 お読みいただいたエフェソの信徒への手紙4章7節にはこう記されています。「しかし、 わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」。 「恵み」は、「わたしたち一人一人に与えられている」と言われます。「しかし」と文頭 に記されていることは、その前に記されていることと違うことを言っていることを意味し ます。直前に記されていたのは、エフェソの信徒への手紙の後半、つまりさまざまな勧告 を記した最初の部分で「教会は一つの体」である、その「一致を保つように努めなさい」 ということでした。「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父であ る神は唯一であって」、あなたがたは一つの体、一つの霊、一つの希望にあずかっている と語られました。しかし、「恵み」は、わたしたち一人一人にそれぞれの形で注がれてい るというのです。教会という一つの体があるだけではない、その中に一人一人が恵みによ って生きている現実があります。教会の一致を保つのは、その一人一人を無視した全体主 義ではありません。教会は一つと言われる中で、私たち個人の一人一人がいる、いなくて はならない、恵みは私たち一人一人に与えられています。

 恵みが「与えられている」というのは、恵みは私たちが自分で造り出すものでも、つか み取るものでもない、努力して獲得するものでないことを言っています。一人一人に恵み が与えられているのは、キリストによって、その賜物によってと言われます。私たちそれ ぞれが、あれが欲しい、これが欲しい、これがなければ恵みじゃないというのでなく、「 キリストの憐みに」によって、私たちそれぞれに最も必要な恵みが与えられています。健 康でなければ恵みはないでしょうか。世でいう幸せがなかったら、恵みはないでしょうか 。そうではありません。何があろうとなかろうと、私たち一人一人にキリストご自身によ って、その憐れみによって、キリストの賜物から恵みが与えられています。
 
 エフェソの信徒への手紙は、この恵み、キリストの賜物を教会の役職や奉仕の業と結び つけました。今朝の箇所の直後には、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣 教者、ある人を牧者、教師とされた」、そしてそれら教会の指導者たちは「聖なる者たち 」、つまりすべての信徒、キリスト者たちが「奉仕の業に適した者とされ、キリストの体 を造り上げていく」、そのために仕えると言われています。恵みは教会での役割や職務でもあるのです。それも、教会の指導者の奉仕の働きだけでなく、すべての聖徒たちが奉仕の業に適した者へと備えられると言われます。

 教会の中で役割を持っていることが分かり易い人もいるでしょう。しかし特別な役割を 持っているとは思えない人の場合もあります。しかしどの一人一人にも恵みは与えられえ います。それによって、キリストの体を造り上げていくと言うのです。キリストの体を造 り上げるうえで特別な役割を持っていない人はいません。恵みを与えられていない人は教 会の中に誰一人としていないわけです。どの人もキリストの体を造り上げるメンバーとし て、欠けてはならないキリストの体の一部にされています。キリストの恵みを与えられた ということは、ですから、キリストの体の一部にされたことで、主から賜わった恵みとは 、その御身体の一部とされていることと言ってもよいのではないでしょうか。私たちの中 には弱く見える人もいます。見えるだけでなく、文字通り弱くなっている人もいます。自 分にまったく自信を持てない人もいます。しかしキリスト者であるということは、イエス ・キリストと結ばれ、主イエス・キリストの体の一部にされ、主にある者とされています 。キリストの御身体の一部とされていることは、キリスト御自身をいただいていることで あり、恵みとはイエス・キリスト御自身をいただいていることです。主イエス・キリスト は、私たち一人一人に御自身を恵みとして与えてくださり、それによって私たちはキリス トの体の一部にされました。

 このように御言葉から聞きますと、この短い箇所の中で、実に重大なキリストの恵み、 私たち一人一人が受け取っているキリストの恵みについて語られていることが明らかです 。恵みはキリストの賜物であり、私たち皆がキリストの体の一部とされ、教会の中で無く てならない人とされ、キリスト御自身を恵みとして受け取っています。
 
 これに加えて、聖書は不思議な語り方をします。それが、旧約聖書から引用された言葉 です。詩編68編19節からの引用ですが、それを用いて、主イエスの「昇天」、そして「高 挙」のことが語られています。主イエスは十字架上に死なれ、葬られたあと、復活し、天 に昇られました。そのことをエフェソの信徒への手紙は「もろもろの天よりもさらに高く 昇られた」と言い、それはイエス・キリストが「すべてのものを満たすため」であったと 言うのです。主イエスは今、復活のキリストとして高く上げられています。神は絶大な働 きをなさる力をキリストに働かせ、「キリストを死者の中から復活させ、天において御自 分の右の座につかせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、あらゆる名の上に置 かれ」(エフェ1・20-21)ました。

 キリストの高挙、キリストの昇天、そこに示された力が「恵み」と関係があると言うの です。キリストが高挙されたのは、目的があってのことでした。「すべてのものを満たす ため」と言われています。これが、私たちに与えられている恵みと深く関係しています。 高く挙げられたキリストがその絶大な力をもってすべてのものを満たします。すべてのも のの中に私たちも含まれています。主は、私たちのすべてを満たしてくださいます。私た ちを満たしてくださるというのは、私たちのどんなときにも、主イエスがその御力をもっ て共にいてくださることを意味するでしょう。どんな事情の中でもキリストの恵み、キリ ストの愛とその勝利の力が私たちを満たします。キリストがご自身を恵みとして与え、その御力がどんな時にも私たちをいっぱいに満たしてくださる。それが、恵みを与えられて いるということです。私たちがどんなときにもキリストに一杯に満たされていること、キ リストが私たちの中に充満してくださること、私たちの中に一杯に満ちてくださるキリス ト御自身がいてくだる。それが恵みです。
 
 そうであれば、いつ、どんなときにも、私たちは神の恵み、キリストの恵みを信じて、 確信を持つことができるのではないでしょうか。自分の調子のよい時だけに、恵みを確信 するのではありません。どんなに調子の悪い時にも、キリストの恵みを確信することがで きます。なぜなら、その時にもキリストは私たちをすべてにおいて満たしてくださってい るからです。そのために主イエスは復活され、高く挙げられました。
 神の恵み、神の絶大な力によるキリストの恵みに満たされていれば、私たちは満ち足り ることができるでしょう。神の恵みを確信して生きるということは、信仰の人生を満足し て生きるということです。外から見ると、不幸せに見えるかもしれません。色々な不足に 喘いでいるように見えるかもしれません。しかしそう見えるとしても、真の現実は違いま す。死にかかっているようで、見よ、生きています。私たちの現実は、主イエス・キリス トが私たちに御自身を恵みとしてお与えくださり、私たち自身を主の体の一部となさり、 キリストの体である教会のなくてならない一部とし、神の民の不可欠な一員にしてくださ っています。どんなときにもキリストが私たちの中に満ち満ちてくださいます。その恵み に生きる者として、主イエス・キリストに私たちは深く満足しています。その満足の中に 恵みの確信があります。キリストに満足することによって、キリスト者とされた自分の人 生にも満足しています。それがどんなときにも思い煩うのでなく、喜んで生きていく力で す。

祈祷
 主よ、どんなときにも私の中に満ち満ちて下さるあなたを感謝します。イエス・キリスト 御自身が私に与えられた恵みであることに,私は満足し、満ち足りた喜びにいます。同じ 喜びに他の方々を招くことができますように。願いと感謝を、主イエス・キリストの御名 によって祈り上げます。アーメン。