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銀座の鐘

恐れから信仰へ

説教集

更新日:2021年04月04日

2021年 4 月 4 日(日)復活日(イースター)主日礼拝・家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書16章1~8節

 主の年2021年イースター礼拝をご一緒にささげる幸いを感謝いたします。
 主イエス・キリストの十字架から復活の間、聖書を通して私たちに知らされていること は、全ての人間の無力さではないでしょうか。主イエスの復活の光に照らされた私たち人 間は、誰一人力を持っていません。主イエスを処刑しようとした祭司長、律法学者、ロー マ帝国のピラトの審きも無力であったといわなければならないでしょう。主イエスの十字 架刑を決定した裁判も、極刑判決後に主イエスを侮辱したことも、鞭打ち刑も、十字架上 の主イエスの祈りを前に、無力であったといわなければならないのではないでしょうか。
 人間のはかりごとで、神のみ子、主イエス・キリストを抹殺することも、神の救いの計 画を阻止することも出来なかったのです。神の救いのご計画の中で明らかにされたことは、 主イエスを処刑するための人間のあらゆる計画は、頓挫し、人の無力さだけが明らかにな ったのです。イースターの朝、神の御前に立つ私たちは、復活の主の光に照らされる時、 神の御前で私たち人間の無力さが浮き彫りにされているのです。
 受難週の金曜日に主イエスの十字架刑が行われました。イエス・キリストが十字架に架 けられた時、全ての弟子たちは逃げ去ってしまいましたが、十字架上の主イエスは執り成 しの祈りをささげて、息を引き取られました。その後、アリマタヤのヨセフという議員が 主イエスのご遺体を引き取り、自分の墓に主イエスを葬りました。金曜日の日没前に、急 いで墓に納められ、日没後、日が変わり二日目に入りました。土曜日の日没までが安息日 です。安息日は葬りの処置が出来ませんでした。安息日が明けた土曜日の日没から三日目 に入ります。夜が明けた日曜日の朝早く、婦人たちは主イエスが葬られた墓に行って香油 を塗ることこそ自分たちに与えられた奉仕と考えていたのでしょう。
 最初のイースターの朝、婦人たちは「安息日が終わる」やいなや、朝ごく早く、日が出 るとすぐに主イエスのご遺体が横たわっている墓へ行きました。墓の入り口の石を転がし てくれる人がいるかどうか話し合いながら墓へ急ぎました。婦人たちを早朝から急がせた のは、主イエスのご遺体に油を塗って差し上げたいという、主イエスへの思いです。残酷 に処刑され、十字架から下ろされた見るも無惨な主イエスのご遺体に対して、なんとか自 分たちが出来る最後の奉仕として、誰かから命じられたのでもなく、婦人たちが当時の習 慣に従って、葬り後の香油を注いで差し上げたいという思いが急がせました。墓の中の主 イエスのご遺体が復活して墓が空になっていることは全く知るよしもありませんでした。 彼女たちは、安息日の間、放置しなければならなかったご遺体に対して、一秒でも早く香 油を注ぎ、死臭漂うご遺体に香油を塗ることで整えたいと考えていたのです。しかし、こ の主イエスへの愛情深いこの計画も、神の御前では力を発揮することは出来ませんでした。 主イエスのご遺体に香油を塗ることも出来ません。復活の主イエスの前で、婦人たちも無 力でした。主イエスは、神の御業によって十字架の後三日目によみがえったからです。
 主イエスの十字架と復活の出来事から、すべての人間の無力さが浮かび上がってきます。 主イエスの十字架と復活という神の御業は、神の力によってのみなされたことであって、 人間の助けや配慮や力を必要としない徹頭徹尾、神の御業なのです。
 マルコによる福音書は、婦人達による墓の中での経験を伝えています。8節に記されて いるように「8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 主イエスの十字架と復活を通して、私たちは人間の無力さを知るだけでなく、これまで経験したことのないような恐れを知ることになりました。この婦人たちのように震え上が り、正気を失うほどの特別な恐れを経験しました。
 マルコによる福音書が私たちに伝える主の復活の知らせは、震え上がり、正気を失わせる恐れです。主の復活は、この恐れ抜きでは語ることが出来ないのです。当初、誰にも何も話せないほどの恐れが、主の復活を知ることになりました。主イエスの復活を語るということは、この恐れからはじめなければならないのです。
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たち はひどく驚いた。6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられた ナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさ い。お納めした場所である。7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方 は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかか れる』と。」8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、 だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 マルコによる福音書は、1章1節「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と記され ているように、主イエスの十字架と復活によって与えられた福音を告げています。主イエ スの福音とは、これこそ本当の信仰であり、これで喜びなさいということです。すなわち、 主イエスの復活の日に与えられた恐れこそ、本当の信仰のはじまりであり、この恐れを与 えられ、恐れを知るものとされたことを喜びなさいということなのです。マルコによる福 音書を生み出した教会は、この恐れの経験を大切なかけがえのない経験として語り継いで います。神の御業によって、これまで経験したことのない恐れを知る教会が生み出されま した。主イエスが葬られた墓の中に入った婦人たちが、白い長い衣を着た若者の言葉によ って、主イエスが納められた場所を見て、「あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行か れる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と聞きました。婦人たちは、震え上がりました。正気を失いました。墓から逃げ去りました。主イエスの復活の時、婦人たちが恐れたのは、主イエスが死んでいると信じ込んでいたからです。真の神の御業によって、私たちに信仰がないために恐れるしかなかったのです。復活の日に神の御前に恐れるのは、神の御業を見たからではないでしょうか。私たちも主イエスが死んだに違いないという不信仰を神の御前にさらけ出し、恐れる者ではないでしょうか。
 代々の教会は、この恐れから信仰を与えられました。この恐れは、いわゆるパワースポットと呼ばれるような霊性を感じる場所での経験とは違います。大自然の中での静寂や伝統的なたたずまいから感じ取る霊性とも違います。主イエスを通して神の御手が働いている恐れです。
 10年以上前、近藤勝彦先生がある青年向けの講演で語られた言葉を紹介します。「教会は神の国の大使館」ということばです。大使館に入るとなんとなく、その大使館の本国の香りがするように、教会は本国である神の国の香りがする大使館だというのです。信仰へ導かれる恐れは、神の国の香りを放つのです。例えば、主日礼拝の開始時、礼拝への招きがあり、神の御前に立ちます。私たち礼拝者は神の御前に恐れを感じて礼拝を捧げます。 この経験が主イエスが復活したことの恐れから信仰へ招かれる道です。
 16章9節以降には、神の御前に恐れを知る者が、復活の主が生きていることを聞いても信じなかったことが繰り返し報告されています。マグダラのマリアも信じなかった。二人の弟子たちは、復活の主が目の前に姿を現しても信じなかったと報告されています。とうとう、復活の主イエスは11人の弟子たちが集まって食事をしている席に姿を現して、 11人の不信仰とかたくなな心をおとがめになったと書かれています。
 私たちは、聖書を通して、主イエスの十字架と復活の出来事を通して、私たちが神の御前でいかに無力であるかを思い知るのです。同時に復活の出来事を前にして目撃しても、 信じないという不信仰あるいは無信仰であることを知るのです。そして、そのような信仰 なき者に主を恐れることと復活の主によって信仰が与えられたのです。
 17節「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」 新しい言葉を語る信仰と使命が与えられました。
19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言 葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。
 主イエスの復活は、恐れを知る者に新しい言葉を与え、主と共に働く恵みを与えて下さるのです。恐れから信仰をお与えくださる神へ祈りをささげましょう。

祈り
 天の父なる神さま。主の復活を御言葉によって婦人たちや弟子たちの足跡に、私 たちの足を差し入れるようにして導いてくださることを感謝いたします。信仰なき者に信 仰をお与えくださる復活の主によって、とがめていただき、目覚める私たちです。
 復活の主と共に働き、新しい言葉をお与えください。主イエスの御名によって祈ります。        アーメン

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