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銀座の鐘

キリストの体が築かれるために

説教集

更新日:2021年04月18日

2021年4月18日(日) 復活節第3主日 主日礼拝 家庭礼拝 近藤 勝彦 牧師

エフェソの信徒への手紙4章11~13節

 現代人にとって重大な問題と言ったら、何でしょうか。コロナ感染の脅威の中で人命こそが第一だとも思われます。また社会が活発に動いて経済が回ることも重大と言われます。しかしエフェソの信徒への手紙は、個人の生活でも社会の繁栄でもなく、重大問題は「教会とは何か」であり、真の教会が築かれることと語ります。個人の救いも世界の救いも、救いはイエス・キリストから来ます。救いがキリストから来るとき、教会が真に教会であること、そして教会がキリストの体として頭であるキリストを真実に礼拝し、真実に宣べ伝 えることが重大になるでしょう。エフェソの信徒への手紙は、教会をとおして個人も世界も救いとその完成に向かうと語ります。ここにエフェソの信徒への手紙の一大特徴があると言ってよいでしょう。

 今朝の箇所は、「そして、彼は与えた」という言葉から始まります。彼とは主イエス・キリスト、復活し高く挙げられ、すべてのものを満たすキリストです。そのキリストが、ある人を使徒、ある人を預言者という仕方で、教会に与えてくださったと言うのです。キリストが教職者たちを教会に与えたということは、そういう仕方で復活し高く挙げられたキリストが働いてくださっていることを意味します。ですから「教会とは何か」という問題を考える時、主イエス・キリストの働きを思わなければなりません。教会はキリストの働きの賜物です。
教会が真の教会として築かれる時、それが真にキリストの教会であるならば、なければならないものがあるでしょう。第一に聖書がなければならないでしょう。聖書のないところ、真の教会が成立するはずはありません。また聖書はどういう信仰をもって読まれたらよいのでしょうか。それに、どういう信仰が礼拝を真実なものとし、伝道を正しく推進するでしょうか。イエス・キリストをキリストに相応しく信じて伝える信仰が、真の教会には必要でしょう。それで教会が正しく教会として形成されるためには、聖書と共に、正しい信仰を表す信仰告白がなければならないわけです。「信仰は一つ」と言われたことは、その正しい信仰を指して、その重要さを語っていたと考えられます。その上で今朝の聖書の箇所は、イエス・キリストが使徒、預言者、福音宣教者、それに牧師、教師を立てて、教会に与えてくださったと言います。教会が真に教会であるためには、教職者の正しい奉仕が必要とされています。

 エフェソの信徒への手紙は、5つの教職の名を挙げます。使徒と預言者、それに福音宣教者、そして牧者と教師です。この個所によれば、教職者の役割を一切否定するといったやりかたでは、真の教会の形成にはならないということでしょう。しかしここには、教会でよく言われる「長老」という名称はありません。「監督」も出てきません。いわんやローマの「教皇」といった教職名もないわけです。使徒と預言者、そして福音宣教者、それに次いで牧者と教師が語られます。「使徒」というのは、主の弟子ですが、特に復活のキリストを目撃し、復活の主にお会いした人たちで、その中から復活のキリストを証言するために特別に選ばれた者たちです。復活のキリストを証言する意味で、御言葉の宣教者です。次いで、「預言者」ですが、「預言者」は神から与えられた言葉を語る特別な人ですが、ここでは旧約の預言者でなく、初代教会において使徒たちに準じて福音を語った人々が意味されています。使徒も預言者もあらゆる地域にわたって、どこででも福音を語った人々でした。福音宣教者と言われている人たちも、どこにでも福音を伝えた人々と思われます。それに対して牧者と教師とあるのは、それぞれの地域で、その地の教会に仕えた人たちと思われます。彼らは、使徒と預言者が伝えた福音に生かされながら、各地域の教会に仕えて、福音を伝えました。
いずれにしても、見落としてならないのは、彼らがキリストによって与えられ、その働きが真の教会の形成にたずさわったことです。その際、彼ら自身、あるいは彼らだけで教会を形成したのではありません。そうでなく、彼らは「聖なる者たち」に仕えるべく与えられました。「聖なる者たち」とは、すべてのキリスト信徒です。すべてのキリスト信徒が「奉仕の業に適した者とされるよう」に、そして「キリストの体を造り上げていくよう」に、そのために使徒も預言者も、福音宣教者も、牧者と教師も仕えると言われます。
 そのようにして、真の教会形成とは何かが記されます。それは、「キリストの体」が「奉仕の業」をもって築かれることです。聖なる者たち、つまりキリスト者、信徒たち、教会のすべての者たちが、奉仕の業に適した者とされながら、キリストの体を築く。キリストはそのために教職者を与えられました。ですから「キリストの体を築き上げる」ことが、すべてのキリスト者の使命であり、目標です。そのためにそれぞれが奉仕の業に適した者とされなければなりません。神に仕え、互いに仕える。そのために教職者たちは使徒も預言者も、牧者も教師も仕えるわけです。牧者と教師は、使徒や預言者に基づきながら仕えます。福音が語られることで、聖徒たちが整えられ、キリストの体が築かれる、そのために教職たちは仕えます。それがキリストの働きです。
 そしてこの道は、さらに目標を持っていると記されます。13 節の「ついには」という言葉が、その目標を示します。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです」とあります。キリストの体が築かれること、 真の教会が形成されることは、わたしたち皆が一つになる、神の御子、キリスト・イエスに対する信仰と知識において一つになる、そして成熟した人間になることでもあります。

 今、礼拝をとおして私たちは、復活したキリストにつながっています。キリストの体の部分とされて、キリストの体を築き、その一員として私たちは救いにあずかっています。私たちの救いや完成は、教会なしにではありません。キリストの体である教会と共に、その中にあって、救いと完成が与えられます。真の教会があっての私たち一人一人の救いと言わなければならないでしょう。教会のない救済はないとも言えるのではないでしょうか。教会の方から言うと、個々人と世界の救済に無関係な教会はありません。真の救いと真の教会は一つながりです。真の救いは、復活のキリストにあずかり、その命にあずかることでしょう。それが永遠の命にあずかり、救いの完成にあずかることです。しかし復活のキリストにあずかるのは、キリストの体である教会にあってのことです。
 キリスト者が長く病床にあるとき、何を願うでしょうか。皆と共にいつもの礼拝にあずかることを願うのではないでしょうか。病床にあっても聖餐にあずかることを願うでしょう。詩編 42 編の詩人は、涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求めますと歌いました。「命の神に、わたしの魂は渇く」と歌い、「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」とも言いました。そして「お前の神はどこにいる」と絶え間なく人は言うと嘆いています。彼は死の病に侵されていたのかもしれません。しかし彼には思い起こすことがあり、それが彼を支えます。「喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群と共に進み、神の家に入り、平伏したことを」。礼拝の経験を思い起こすことが彼を慰め、希望と平安の根拠になっています。
 これは、私たちの経験にもあるのではないでしょうか。私たちも真の教会があることによって、救いに生きることができます。救いは真の教会と共にあり、教会の中で復活の主イエス・キリストに結ばれ、その体のなくてならない一部とされることによります。真の教会がキリストの体として築かれるところ、そこに私たちの救いと完成も含まれています。世界の救済もそこにかかっています。そのためにキリストは使徒や預言者とともに牧者と教師を与えてくださいました。教会とは何かと思いめぐらすとき、キリストの働きがあって、教会がキリストの体として築かれること、それによって私たち一人一人の救い、そして世界の救いが示されている ことを覚えたいと思います。