銀座教会
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銀座の鐘

網を捨てて従った

説教集

更新日:2021年05月02日

2021年5月2日(日)復活節第5主日 家庭礼拝    牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書1章16~20節

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」
 マルコによる福音書は、主イエスの伝道開始が、洗礼者ヨハネの逮捕と関係していると語っています。聖書は、ヨハネ逮捕と主イエスの伝道開始は、たまたま時が一緒だったと いうことではなく、神のご計画としてヨハネ逮捕後、主イエスの伝道が開始されたと語ります。このことは、私たちにとってもとても大切な事を教えていると思うのです。
主イエスは洗礼者ヨハネの逮捕の後、ガリラヤに行き、福音を宣べ伝え始めました。洗礼者ヨハネの逮捕は、神のみ言葉を聞いて語る者の逮捕です。すなわち、神のみ言葉を聞くことも語ることも封じられる出来事です。洗礼者ヨハネは、最後の預言者と言われることがあります。ヨハネは預言者のように神の警告を告げ知らせ、悔い改めの洗礼を授けて いました。神の義を打ち立てるために、ヘロデ王に対しても神の警告を告げました。そのヨハネが逮捕されたということは、御言葉を聞くことが出来なくなる緊急事態を意味しています。しかし、神はその時、動きました。聖書は、その時、主イエスは立ち上がり、「時 は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と伝道開始の第一声が紹介されています。救い主を待望していたヨハネの願いが実現しました。ヨハネが指し示した主 イエスが語りはじめ伝道が開始されました。洗礼者ヨハネと主イエスの関係は、親戚関係 というだけではなく、「神の国」すなわち神の支配を指し示すことによって深い関係があ ります。救い主メシアをお迎えする道備えを使命とした洗礼者ヨハネは、旧約聖書が語り 続けた救い主として主イエス到来を見ることが出来ました。その意味では洗礼者ヨハネの使命は果たされたといえるでしょう。ヨハネが逮捕された理由については、マルコによる福音書第 6 章に記されています。ヘロデ王が王の弟の妻ヘロディアと結婚したことを律法 によって許されない行為であると洗礼者ヨハネが指摘しました。このヨハネの預言者的な行為が王の恨みをかうことになり、逮捕され殺されてしまいました。すなわち、ヨハネは王に対してであろうと、神から与えられた言葉を聞いて、そして語ったのです。
当時の多くの人が王を恐れて語ることの出来ない警告を、洗礼者ヨハネは躊躇することなく語りました。たとえ王に対してであっても、神の御前に罪を悔い改めるように指摘したのです。洗礼者ヨハネが神を恐れ、王を恐れない姿勢を整えられたのは、主イエスを待望していたからです。しかしこの姿勢は、神の言葉を聞くことが出来ないヘロデ王にとっては目障りでした。マルコ福音書 6 章 14 節には、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。 だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」洗礼者ヨハネを抹殺しても神の言葉は抹殺することは出来ませんでした。
主イエスの伝道開始は、ヨハネ逮捕によって御言葉が消えてしまうのではなく、逆にいよいよ御言葉が本格的に神のみ子によって語られる契機となりました。ヘロデの支配ではなく、神の支配が明らかにされる時の到来の印です。主イエスは、ヨハネが逮捕された後、 伝道を開始し、神の御支配の到来を宣言しました。ヘロデがどんなに恨もうと、ヨハネを 殺そうとも、神の御前でヘロデ王の罪は神の光に照らされ、逃れることが出来ない時を迎 えました。それが主イエスの伝道開始のお姿です。
主イエスが、ガリラヤ湖のほとりを歩いていたときのことです。主イエスは、漁師であ ったシモンとアンデレに対して「わたしについて来なさい」と語りました。シモンとアン デレは、なぜ主イエスの一言によって従ったのでしょうか。たった一度の人生、初めて会った人からの一言で決断して良いのでしょうか。もし、シモンとアンデレが私たちの家族であったらどうでしょうか。初対面の人について行ってはいけませんとか、大切な人生の決断だからもっとよく考えてからにしなさいとか、主イエスとはどんな男なのか調査してからにしなさい等といいたくなるのではないかと思います。弟子たちにとって、そして私たちにとって、主イエスの従うということはどういうことなのでしょうか。
 銀座教会では 1990 年に教会創立百周年を記念して、証し集「銀座の一角から」が発行されました。その後は 10 年ごとに証し集が発行され、2000 年、2010 年続いて発刊されまし た。そして現在 2020 年を迎え、最新の証し集が編集準備されています。証しは、私たちが 神さまに出会った感動的な物語を語れる人もいますが、母のお腹にいた時から教会に通っているので気がついたら教会にいたし、特別な困難に出会って神さまに救われたような、 人を感動させる経験は何もないという人も少なくないと思います。私もその一人です。
シモンとアンデレはどうだったのでしょうか。主イエスはシモンとアンデレが網を打っているのを御覧になったとしか書かれていません。19 節には、主イエスがヤコブとヨハネ が船の中で網の手入れをしているのを御覧になったとあります。そして、主イエスが彼らを呼んだと書かれています。シモン、アンデレそしてヤコブ、ヨハネの気持ちとか考えとか、決断までの葛藤ということは何も書かれていません。マルコによる福音書は、そのような私たちの物語には関心がないのでしょうか。聖書が語っていることは、「主イエスが彼らを呼んだ」という一点です。これが最も大切なことなのだと語っているのです。
漁師であるシモンとアンデレが網を打っていたということは、日常の仕事をしていたということです。主婦であれば、家事をしていたということですし、教師であれば生徒に教えていたということでしょうか。私たちであれば、特別に困っていたわけでもないし、救いを求めていたわけでもない、ごく当たり前の日常生活をしている時、主イエスが声をかけたのです。弟子たちは何か特別な問題に直面して、救いを求めて彷徨っていたというのではないのです。彼らが主イエスに出会ったのは、何気ない日常生活の中でのことだったのです。もちろん、聖書には長年、不治の病を煩っていた女性が救いを求めて主イエスに近づいた物語も記されています。しかし、私たちの切実な求めがあってもなくても私が第 一義的な事ではなくて、第一に大切な事は主イエスが声をかけて下さるということを聖書は告げているのです。キリスト者になるということは、自分自身の決断とか判断という実存的な「私が」ということを第一にしがちですが、そうではなく、ある時、背後から私たちを見つめていて下さった主イエスから呼びかけられたことこそ大切なのです。私たちが今主イエスに従っているということの最も深いところにあるのは、主イエスがこの私を呼んで下さったということです。こんな私をキリストが呼んでくださったことこそ大切なのです。この事はしっかりと受け止めなければなりません。ゆえに、私たちの生まれた環境であるとか、血筋であるとか、受けた教育であるとか私たちの側の問題を越えたところで神の御心によってキリストに呼ばれている、召されているということが大切なのです。
主イエスに声をかけられた 4 人の漁師たちは、すぐに主イエスに従いました。18 節では、 シモンとアンデレ兄弟は「二人はすぐに網を捨てて従った」。網の手入れをしていたヤコブとヨハネを主イエスが呼ぶと、この二人も父を雇い人たちと一緒に船に残して、主イエスの後についていった、と記されています。
一体どうして、このようなことが起こったのでしょうか。シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは、同じ漁師で、漁師は素直でいうことを聞く人々だったからということではないでしょう。そうではなく、聖書がここで私たちに告げている大切な事は、彼らが初めて神の声を聞いたということです。時の支配者ヘロデ王の声を聞くことはあったかもしれません。日常会話で隣人の声を聞いていたことでしょう。人間の声を聞いて日常生活をしていた彼らは、洗礼者ヨハネが捕らえられ、そして立ち上がって伝道を開始した神の御子主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という神の声を聞いたのです。今まで聞いたことのない神の招きの声を聞いたのです。ヘロデの声とは全く違う声を聞いたのです。聖書は、ヘロデの声におびえたり従う者の中に、神の声に従うものがいたことを伝えているのです。神の声を聞いて、従う者が一人、二人、三人、四人と続き始めたことを伝えているのです。大変素晴らしい、感動的な出来事です。
   現在、キリストに従う私たちも、アンデレ、シモン、ヤコブ、ヨハネに続いて、神の招きの声を聞いて従う者とされ、主イエスの交わりに加えられているのです。ヘロデの声ではなく、主イエスの声に聞き従う事の大切さは、洗礼者ヨハネを恨み、殺した者の声と主イエスの声を聞き分ける心の耳を与えられていることです。
  ガリラヤの漁師が神の国へ招かれました。ガリラヤの漁師が神の声を聞く事は、当時考えられなかったかもしれません。しかし、それ以上にここにともにいる私たちがが神の声を聴き、神に従う恵みに置かれていることこそ考えられなかったことではないでしょうか。
 神の声を聞く者は、現代のヘロデの声と神の声を聞き分けることが出来るのです。ゆえ に、私たちは私たち一人一人の網を捨てて主イエスの従う事が出来るのです。
  「網を捨てて」とはどういうことでしょうか。漁師にとって網は、毎日手入れして漁をするのになくてならない道具です。網を捨ててという言葉には、船と自分の家族を残してという現実も込められていると思います。網があれば生きることが出来る、船がなければ生きていけないと思って漁師をしていたと思います。しかし、網を捨ててということは、 網が命の糧ではなく、私を呼んで下さった方のほうを向いて、救い主を仰ぎ生きることです。たとえ網が命の糧ではないし船が命綱でもないのです。聖書の「従う」という言葉には、聞くという字が入っています。主イエスに従うとは、主イエスが語られる福音を正しく聞くことです。神の言葉を聞いて従う時に、キリストがお与えになる約束だけに従う生活が与えられます。主イエスの福音を聞いて従う生活は、私たちが救われる生活です。私たちの日常が復活の主イエスの声を聞きながら生かされる生活になるのです。

祈りましょう。

 天の父なる神さま、主イエス・キリストが弟子たちに呼びかけ、弟子たちが従いました。 私たちも自分のことで精一杯になっている日常生活の中で、あなたの呼ぶ声を聴き、招き を与えられました。神さまの御声を聞かせていただき感謝いたします。あなたのみ声を聞 き続け、豊かな恵みの生活を送らせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。