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銀座の鐘

未熟な人から完全な人へ

説教集

更新日:2021年05月16日

2021年5月16日(日)復活節第7主日 家庭礼拝 近藤 勝彦牧師

エフェソの信徒への手紙4章13~16節

 人間は子供から大人に成長します。成長は誰にもあって、人間は皆その人なりに成長すると言ってよいでしょう。しかし信仰はどうでしょうか。他のことはどうあれ、信仰こそ 成長してほしいと思うのですが、自分自身の信仰生活を振り返って、まるで成長がないと 嘆かわしく思うこともあるのではないでしょうか。初めて信仰に入った頃の新鮮さや熱意 がいまでは失われていると感じる場合もあるでしょう。溌溂としたかつての信仰の力を失 って、どうどう巡りの中で進歩も成長もないと感じている場合もあると思います。一体、 信仰が成長し、キリスト者として成熟し、さらにはキリスト者の完全に達するということは、言えることなのでしょうか。

 13 節に「成熟した人間になる」という表現が出てきます。「わたしたちは皆、神の子に 対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふ れる豊かさになるまで成長するのです」とあります。「成熟した人間になる」という表現 は、「完全な人になる」と訳してよい言葉です。「完全な人」と言うと、ジョン・ウエス レーが生涯語り続けた「キリスト者の完全」という言葉も思い出します。ウェスレーは、 キリスト者は死後のこととしてでなく、いまこの限られた時間の人生の中で「キリスト者 の完全」を生きると主張しました。率直に言って、私たちは未熟な面のなお多い者たちで す。その私たちが、キリスト者として、どうして成長とか成熟、さらには完全について語 ることができるのでしょうか。聖書は「わたしたちは、もはや未熟な者ではない」と記し ています。かつて未熟であったとしても、それは変えられ、成熟した人、完全な人へと成 長すると言うのです。キリスト者にされたということは、未熟な人から完全な人へと成熟 し、成長していく者にされたことというのです。

 未熟な者から完全な人へ、ここにはその相違がいくつかの言い方で語られています。未熟な人は「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の風のように変わりやすい教えに、もて あそばれたり、引き回されたりする」と記されています。「変わりやすい風にもてあそば れる」というのは、当時の船旅の経験を踏まえて語られています。当時は誰もが皆、風に もてあそばれる危険な船旅を知っていました。風向きがたちまち変わって、陸から遠く流 されたり、座礁したり、時には沈没したりで、まことに頼りない、危険な旅路でした。そ の一端は、使徒言行録のパウロの伝道旅行にも出てきます。風頼みの危険なこの船旅は、 未熟な人の人生そのものと言うわけです。ここにはまた「さいころ遊び」という言葉も使 用されています。私たちの聖書の訳では隠れていますが、「人々を誤りに導こうとする」 とあるのは、「人間のさいころ遊びによる」と訳せます。未熟な人間が誤りに導かれるの は、「さいころ遊び」のようなもので、運任せであり、また気まぐれに翻弄される無責任 な状態と言うのです。その上で「悪賢い人間」とあります。ただ変わりやすい風や偶然任 せのさいころだけでなく、それらの背後には人間をだます悪意や、狡猾さが働いており、 その狡猾な悪賢さの餌食にされるのは、未熟な人であるからだと言われているわけです。

 しかしキリスト者はもはや未熟な者ではないと聖書は語ります。キリストの体の一部と され、神の御子に対する信仰と知識において一つにされています。それは成熟した人間に なることであって、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長すると言うのです。そこで未熟な者とは違った成熟した人間のあり様が二つの文言で語られます。「むしろ、愛に 根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」と 言われます。ここに言われる二つの文言の一つは、「愛にあって真理を語る」です。この 言葉は「キリスト者の完全」を語るこの個所に出てくるわけです。「愛にあって真理を証 言する」とも訳せ、「愛にあって真理を帯びている」とも訳せます。主イエスは「あなた がたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタ 5・ 48)と言われました。それは隣人を愛するようにと言い、「敵を愛しなさい」と言われた ところで語られました。キリスト者の完全は、完全無欠で何でもできる意味での完全を言 っているわけではありません。そうでなく、愛にあって真理を証しする者であることを言 っています。それは、愛において主に倣う者です。主に愛されているゆえに、愛すること において未熟であってはならないと言うのです。主の愛に倣いつつ、真理の実現者である 主イエス・キリストを証しします。それが成熟した人間であり、キリスト者の完全です。

 一つの文言が語られます。「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していく」 と言うのです。それがキリスト者の成長であり、キリスト者の完全です。あらゆる面で、 あの方に向かって成長していく、頭である方、キリストに向かって、と書かれています。 愛にあって真理を証言する人は、真理そのものであるキリストに向かって成長する人です。 その人は嵐に翻弄される不安な人生を生きるのではないし、さいころ遊びの運任せや悪の 狡猾さに引き回されることから、解き放たれています。

 「キリストに向かって成長する」「成長していきます」と繰り返されます。その語り口 は、ことはもう定まっているという言い方です。キリスト者の成長は神の御計画の中で決 定され、成長させる力が神からきます。成長するのは、あなたのことで、ひとりで頑張れ と言われてはいません。成長の力がどこから来るか、今朝の聖書の箇所はそれを詳しく論 じてはいませんが、明らかに読み取れる仕方で語っています。私たちの成長する力、それ は「頭」であるキリストから来ます。頭であるキリストに向かって成長していくのは、頭 であるキリストから成長させる力が来るからです。それで、この段落の最後には「関節」 の話が出てきます。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによって しっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は・・・体を成長させ、自ら愛 によって造り上げられてゆくのです」とあります。

 キリスト者の成長は、一つの部分だけで孤立して完成するわけではありません。「関節」 によって他の部分と結び合わされ、体を形成し、そこに成長する力が働くと言われます。 古代世界には、それなりの身体理解がありました。それによると「関節」は特別な機能を 持っていたと指摘する研究者がいます。体の「節々」は、ただ個々の部分をつなぐだけで なく、頭からの刺激と成長の力を伝える器官と考えられていたと言うのです。成長のため にキリストはそれぞれの部分をつなぐ節々、つまり「関節」を用い、それをとおしてそれ ぞれの部分に成長する力を送り、体全体を維持し、一つ一つの部分を体全体と合わせて成 長させてくださるというのです。キリストに結ばれ、教会の一致の中にいることが、キリ ストからの成長の力をもたらします。
 従って「キリスト者の完全」は、主イエス・キリストとしっかりと結ばれていることに よります。洗礼により、また御言葉を聞くことにより、さらに心沈めて祈ることにより、そして聖餐にあずかることにより、私たちは活ける復活のキリストに結ばれています。そ のとき、キリストから送られてくる成長の力があるというのです。ですから、キリスト者 の成長は、教会の成長と共にもたらされます。「キリスト者の完全」は、キリスト者一人 一人の完全ですが、同時に教会のことでもあります。キリストの復活の体があり、それが 霊の体として「完全な教会」を造り上げます。ですからキリストにあるとき、キリストに 結ばれているとき、もはや未熟な者ではないのです。キリストに向かって成長していく人 にされています。主イエス・キリストに結ばれている中に、キリスト者の完全はすでに始 まっています。感謝して、祈りましょう。

祈 祷:
 天の父なる神様。御子イエス・キリストに結ばれ、キリストに向かって成長する力 を与えられていることを感謝いたします。未熟さのあまり恥ずかしく思うことの多い者で すが、誤った教えや狡猾な悪だくみに引きまわされず、試練の中でも主にあって成熟した 者であることができますように。キリストに堅く結ばれ、キリストの愛にあって真理を証 し、キリストに向かって成長していく者であり続けることができますよう、支え、導いて ください。キリストの体によって結び合わされたすべての兄弟姉妹に、あなたからの成長 の力が与えられますよう、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。