銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

主を中心とする交わり

説教集

更新日:2021年06月27日

2021年6月27日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝 家庭礼拝 伝道師 藤田 健太

マルコによる福音書3章31~35節

  教会ではよく、お互いのことを「兄弟」「姉妹」と呼びます。名前の下に「兄」や 「姉」を付けることで、その人との間にある「主にある交わり」を表現します。教会 に初めて足を運んだ方が、この独特な慣習にしばしば注意を向けることは周知の事実 です。戸惑いを覚える人もいれば、教会ならではの魅力をそこに感じる人もいます。小さな教会でこの呼び名が使われるのを目の当たりにした訪問者が、「この教会の会 員たちはみんな血のつながった家族なのだ」と誤解された逸話はしばしば冗談交じり に語られます。しかし、本来「家族」という言葉は、血縁関係を大切にしつつ、血縁 関係にのみ縛られない広がりをもった言葉です。「家族」という言葉で主に「肉親」 との関係のみをイメージする感覚は、むしろ核家族化が進み、プライベート意識の高 まった近代以降の考え方であること、家族の捉え方もまた時代によって様々であるこ とを、聖書と向き合う中で気づかされます。

 たとえば、旧訳聖書では、家庭や家族のことを“ベト・アブ”(「父の家」)、ある いは“ミシュパハー”(「部族」)と呼びます。3~4 世代の親・兄弟・兄弟の伴侶たち からなる大家族形態が基本です。さらにそこに財産である「奴隷」「家畜」たちも含 まれます。時には短期間の間、故郷から離れ、身を寄せる「寄留者」たちがその家族 の中に加えられることもあります。このような世帯ごとの構成員を包括的に結びつけ る概念が「部族」のまとまりです。そこから分かりますように、聖書において、本来 「家族」は「生活を共にする人々の交わり全体」を意味する言葉です。聖書の歴史に 即していえば、王国ができる以前の部族社会においては、このような家族の単位が生 活の基盤でした。王国ができることによって、部族の独立性は弱まりました。しかし、王国が滅んだあとは、バラバラになってしまったアイデンティティを取り戻すため、 このような家族や部族の単位が再び脚光を浴びることになりました。たとえば、そのような時代に書かれた文書に旧約聖書の「歴代誌」があります。歴代誌では「全イス ラエル」という言葉が繰り返し使われます。解体してしまった王国時代の歴史を「全イスラエル」の歴史として再構成することで、バラバラになってしまった民たちが再び一つに結びつく糸口をさぐりました。新約聖書の書かれたギリシャ語の“オイコス”、新約時代の聖書の世界を支配していたローマ人たちが用いたラテン語の“ファミリア”という言葉も「生活を共にする人々全体」を指す言葉でした。
 「教会」を意味する“エクレーシア”という言葉は「(主なる神さまの御心によって) 呼び集められた者たち」を意味する言葉です。血縁関係を中心とした繋がりが「肉に おける家族」を形成するのに対して、教会の礼拝を中心とした繋がりは「霊における 家族」を形成します。天の父なる神様、子なるキリストを礼拝する私たちは、聖霊なる神様のお働きによって「神の家族」の交わりの内に入れられます。教会の礼拝において、私たちは信仰によるお互いの一致を確認することができます。また、教会は、それぞれの家庭における交わりを顧みる場所でもあり、それぞれの家庭の恵みを再認 識する場でもあると思います。

 主イエスにも肉による家族と呼べる人たちがいました。クリスマスの聖書箇所とし てよく読まれる「聖家族」と呼ばれるマリアとヨセフ、その子どもたちの家庭の交わ りは、マタイやルカによる福音書で最も詳しく、また美しく描かれます。一方、マル コによる福音書は、神さまのくすしき御業に基づいて結びついた聖家族の交わりとは
少し違った主イエスの家庭のイメージを私たちに伝えます。本日の聖書箇所では、群 衆たちと共にいるイエスのもとにイエスの「母」と「兄弟たち」がやって来ます。彼 らは何をしにやって来たのでしょうか?群衆たちと同様、主イエスを通して、神様を 礼拝しに来たのでしょうか?―残念ながらそうではありませんでした。彼らの訪問の 理由は、おそらく、直前の「悪霊追放」の物語の中にあるのと同様の理由です。21 節 には次のようにあります。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。 『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」主イエスの癒しの業 はしばしば、神様の御業によるものではなく、悪霊の頭による悪しき力によるもので あると中傷されました。その現場を押さえるため、エルサレムからはるばる律法学者たちがやって来ました。主イエスの家族もまた、身内が悪霊に取りつかれているという噂を聞きつけてやって来ました。身内が人々に迷惑をかけているのではないかと誤 解し、主イエスを止めるため、その場所にやって来たのでした。

 イエスの母と兄弟たちは「<外>に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあります。 それと対照的に、「大勢の人が、イエスの<周り>に座っていた」とあります。そこで、 主イエスが語られた言葉が、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」というお言葉でした。そして、主イエスは「<周り>に座っている人々を見回して」言われたのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」神様の礼拝によって結びついた教会の交わりの恵みをそこに指し示されました。主イエスはここで、肉における家族の交わりを否定されたわけではありません。そうではなく、家庭にせよ、教会にせよ、人間の共同生活の交わりの中心に神様がいらっしゃることを覚える大切さを教えてくださっているのです。主イエスの兄弟ヤコブは、のちにペトロとともにエルサレム教会の指導者として活躍しました。本日の聖書の箇所で、外から人をやりイエスを連れ戻そうとした家族たちも、十字架と復活の出来事によって、自分たちの小さな家庭の交わりに神様の驚くべき介入があったことを知らされたのでした。そこから自らの家庭を顧み、教会の交わりを形成するため献身してゆきました。それゆえ、本日の物語は、主イエスの家族による誤解と分裂を伝えるエピソードではなく、むしろ、主イエスの家族の礼拝の始まりと理解することができるのではないでしょうか。肉における家族が霊による家族の在り方を初めて目にし、そこから自らの家庭にある交わりを顧み、自らの家庭にあっても神様を中心とするように変えられてゆきました。マタイやルカにおける「聖家族」の物語の起源には、主イエスをキリストと信じる信仰が家庭の中にも受け入れられていった際の祝福と喜びがあるのではないでしょうか。

 教会の信仰が家庭内で共有されない場合も、そこに与えられている大きな祝福をお ぼえたいと思います。一人の信仰者が一つの家庭に与えられている幸いというのは大 変大きなもので、その人を通して、神さまの御国の恵みが家庭の中にも広がっている からです。さらに言えば、孤立や疎外、アイデンティティの喪失といった問題を抱え
る私たちの社会全体にあって、教会が提供する共同体のイメージは希望に満ちている と思います。主なる神さまを中心とする教会の交わりを見つめることで、家庭や地域、社会の交わりを顧み、私たちがどこにあっても、そこで主を中心とすることができる ように努めたいと思います。「神の御心を行う人」として、私たちの生活の基盤をな す人々の交わりに貢献することができるように励みたいと思います。

祈り
 父なる神様、主イエス・キリストを中心とした教会の交わりの恵みを教えて下さり ありがとうございます。どこにあっても、主が私たちの中心にいてくださることを確 信して、希望と共に社会に踏み出してゆけます。「神の御心を行う人」として人々の 群れに仕えることができますように。私たちの家族を祝福し、その真ん中にいてくだ さるあなたを見つめることができるようにお守りください。主イエス・キリストの御 名によって祈ります。
アーメン