銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

「葡萄つくりの手によって」

説教集

更新日:2019年12月03日

2017年3月26日 受難節第四主日:長山 信夫 牧師

ヨハネによる福音書 15章1-7節

限りある命の時を歩んでいる私たちにとって、時は決定的な意味合いを持ってくるということを感じます。

銀座教会での20年の伝道牧会の生活も、今日の主日を以ってそこから解いていただく時が与えられました。あっという間の20年であったということを私も家内も感じております。多くの信仰の兄弟姉妹たちとともに喜びを、また悲しみをともにさせていただくことができました。新しい家庭が誕生し、あるいは幼子たちが生まれ、成長していき、そういう喜びの数々もともにさせていただいておりましたし、複雑で問題に満ちたこの世界の中に歩む方々が、生き悩み、そういう相談に真剣に与らせていただくこともできました。愛する人を失ってどのようにして良いかわからない、そういう方々に牧者としての働きを求められるということは、誠に光栄なことであり、悲しみをともにしながら主がいてくださって、喜びの時には感謝を、また悩まれている課題についてはともに祈りを、悲しみの中に慰めを祈ることができたことは、私にとって何よりの恵まれた20年であったというふうに思います。

20年という年は、今日教会学校の礼拝に出て思いましたが、また、私どもに与えられた3人の娘でもそうですが、まことに幼い時に教会にともに生き、そして頼りになる社会人として巣立っていってくれる、そこにもともにいて命を育んでくださる神がおられる。その神様にお仕えさせていただいている、そのことは大きな喜びであります。特に十歳児祝福ということをさせていただき、その最初の祝福に与った方々が、イースターには信仰を告白し洗礼を受ける決心をしてくださったということは、何よりの神様からの与えられた恵みとして今感謝に満ち溢れる思いであります。全ては主のお導きですので、そして自分の思ったようなことがほとんどその通りでありませんので、ともにいてくださり導いてくださる神様にお委ねして歩んでまいりましたけれども。

銀座教会にはいくつかの明確な課題があって、そのことにも力を尽くすことができたのはまことに感謝でした。情熱をもって奉仕を惜しまず、ともにそれを担ってくださる役員の方々や、祈りをもって支えてくださる教会員の方々がいてくださったおかげで、いくつかの課題を、この日を迎えてみれば、ある方向を打ち出せたのではないかというふうに感謝している次第です。何よりも、祈りと証しに励んでくださる方々によって、銀座教会の諸集会が祝され、そしてこうして多くの方々とともに主をほめ讃え、主の恵みを覚える多くの方々の中で、神様の生きておられることの確かなことを共々に味わうことができているということは、ほんとうに素晴らしいことだというふうに思います。

新しい分野の伝道の開拓として、東京福音会センターが開設されて20年余の時が過ぎましたけれど、これも一つの形をとって、これからこの会堂を、キリストを信ずる多くの人々のために用いていただきたいという、奉仕する教会の体制がとれたこと、道往く人々が気軽に入ってこられる、そういう銀座教会の永年の ―あの高い階段を登っていくという― 課題を、ある解決をすることができたのも大きな感謝ですし、銀座教会の財政のあり方についても透明性を確保して、皆で心を合わせて支えていく。そういうことも相まって永年の課題だった会堂の改修事業も主に導かれ、まことに感謝のうちに終えることができたのは、皆様方の教会を愛するその思いの中に牧師として招き入れていただいた、そういう結果であったと心から感謝しています。

若い伝道者たちが与えられ、ともに協力牧会、協力伝道するということは、私にとって銀座教会で初めて経験し、今後経験することのないことと思いますが、良い働きをされて送り出され、日本の各地で活躍されていることも、これは鵜飼先生から引き継いだ協力牧会のあり方ですが、銀座教会は伝道者を生み出し、伝道者を育てていく力のある神様の恵みに満たされた教会であることを覚え、そのような中に働かせていただいたことを光栄に思っている次第です。

今日の御言葉に、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(ヨハネ15:1)と冒頭にあります。葡萄の木というのはご承知のように、旧約聖書では神の民イスラエルのことを表しています。聖書を読みますと、父なる神が葡萄を植え、垣を廻らし、物見櫓を建て、そして収穫の葡萄を絞る、そういうすべてのものを調えて、そして実りの時を楽しみに待っておられても、しかし神の民の生み出したものは酸い葡萄だった、そういうことが記されています。「わたしはまことのぶどうの木」主イエスが「まことの」と言うように、わたしだけがまことの葡萄の木なのだ、と言われる。思いを込めた言葉であると思います。御子イエス・キリストは父なる神のみ旨をご自身のものとされて、そして、託されたつとめを神からの掟として忠実に果たされていかれました。主イエスキリストが「わたしはまことのぶどうの木」こういうふうに言われたり、その「まことのぶどうの木」であるキリストの体である教会に、私たちが結ばれているという恵みを、神様の救いの確かであることを、私たちはこの主イエスのお言葉に聞き取りたいと思います。そのようにして確信をもって、安心して私たちの信仰生活、礼拝の生活をこれからも守り続けていきたいと思うのであります。

主イエス・キリストはそれに続いて「わたしの父は農夫である。」こう言われます。主イエス・キリストはまことの葡萄の木であられて、天地の造り主なる父なる神がその葡萄の木を育てる農夫として手を差し伸べて下さる、それが私たちの教会の姿ということであります。

家内の従兄弟が山梨で葡萄園をもっている家の長男でありまして、県庁に勤めていたということもあって、葡萄園を継がないということを私は不思議に思って、「何故、この葡萄園を継がないのか、日々の努めを果たしながら葡萄の木を育てることはできるのではないか」。私はそういうふうに素人考えで尋ねてみたことがあります。その家内の従兄弟は「それはできない。毎日足音を聞かせなければいけないんだ」。そういうふうに答えて私をそれとなく諭してくれました。私たちの父なる神がまことの葡萄の木を育てる農夫としてともにいてくださる。これも私たちの信仰生活、教会のあり方、キリスト教の将来、そういうことを思う時、決して忘れてはならない事柄だと思います。

問題は、この15章のところに繰り返し繰り返し記されていることですが、葡萄の木に繋がっている、枝であり続ける、そこに私たちの生命線があるということですね。

この季節になりますと、葡萄園の主人は葡萄の幹に手を当ててみるということであります。そうすると幹が温まり始めているというわけですね。その幹に耳を当ててみると、大地から次々葡萄の枝の先々まで養分を運ぶ樹液が勢いよく流れている、そういう音が聞こえる。それは、私たちが、私が、そうしても感じないことだと思いますが、葡萄を育てる人たちは、そういうふうにして葡萄の収穫の時を楽しみにしながら、様々な手を差し伸べてくれているということになります。「まことのぶどうの木」であられる主イエス・キリスト、教会にしっかりと繋がっている、これが、私たちがまことの命の時を豊かな実りを結ぶべく歩んでいるか歩んでいないか、ということの生命線だというふうに思います。イギリス国教会では、伝統ということを言うときに、それは形を残すことではなくて、生命線に繋がっているということが何よりも、それは伝統を継承し生み出していくことなのだと。lifeline という言葉を以ってそれを受け止めているということですが、私たちもこれを今日のみ言葉に従って教会に結ばれている、主イエス・キリストに繋がる枝であり続ける、そういう教会であり、私たちである、ということを覚えていたいと思います。

ここでは、「つながっている」という言葉で“メノウ”というギリシャ語が訳されていますが、葡萄の木に枝が自ら繋がろうとしても繋がれるわけではありません。それはもうそのようになっているわけですね。ですから葡萄の木ですから枝が繋がっている、というふうに訳されますけれど、しかし“メノウ”は、キリストのうちに「留まる」と、もともとは「留まる」ということであります。このキリストに繋がっている、結ばれている、キリストのうちに留まっているということについて、今日の御言葉はこういうふうに私たちに語りかけてくれます。7節ですが、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。

キリストに繋がっているという時に、7節は、私たちが主イエスのお言葉をいつも私たちの内に受け入れているということですね。主の言葉ということがここで言われています。

言葉というのは、考えてみますと、私たちの互いの関係を結ぶ最も重要なことではないでしょうか。その人の言っている言葉は、もう上の空でほとんど聞いていないというような関係であれば、それはその人との良い繋がりを持っているというふうには言えないわけであります。あの人はうまいことを言うけれど、しかしあの人の考えていることとは違う、そのような認識を持っていれば、言葉はむしろ人と人とを遠ざけてしまうような働きをすることになります。しかしそれは本来の言葉のあり方ではなくて、言葉を語る人が、心からの真実の言葉を相手に語っている、その言葉を聞き、受け入れている人たちもその言葉を語っているその人自身を深く信頼している。言葉が本来のそのような用い方がされる時に、お互い同士の関係は信頼しあう強い絆で結ばれているというふうに言わざるを得ないのであります。

7節の後半に「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。主はそういうふうにおっしゃっていますが、主の言葉を聞き、主の言葉を受け入れて、信仰をもって歩んでいる私たちは、私たちの言葉そのものが私たちの願い、私たちの祈りそのものが、主の御思いと結びついている、一つになっているということではないでしょうか。ですから、「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。主イエス・キリストと私たちとのそういう深いつながりをこういうふうに表現しているのではないでしょうか。

16節に銀座教会ではよく引用される御言葉があります。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

ここでも「願うものは何でも与えられるようにと」「わたしの名によって」。主イエス・キリストと主イエス・キリストに救われている私たちとの深い繋がりがこのように表現されているのだと思います。教会に留まっている、キリストに繋がっている、それは従ってこうして私たちが礼拝にともに集い、ともに御言葉に聞き、そして御言葉に歩む生活をしている、それぞれの場所にあって様々な問題の中に投げ込まれながら、そこでも御言葉に聞き、祈りをささげ、信仰をもって歩んでいる。そこにまことのぶどうの木である、主イエス・キリストを中心とする教会の姿が表されているのだと思います。

9節には、それが「愛」という言葉で表されたとしても、それは私たちはもうすぐに理解できることではないでしょうか。主と私たちの間にそのような言葉が介在し私たちを結びつけている。それは主イエス・キリストが私たちを愛し、私たちも主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストを愛している。その愛の中に私たちは置かれているのであり、そしてそれは豊かに実を結び、命の交わりが教会に形成されているのだというわけであります。

9節、10節を読みますと、このようにあります。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」。

このようにして教会は主が冒頭に言われたように、豊かな実を結ぶ葡萄の木として、農夫であられる神に守られ育てられながらこの地に確かに存在しているということを覚えたいと思います。

もうこの次の日曜日は、安藤記念教会の講壇で説教させていただくことになり、髙橋潤先生も今日送別会を終えると、車を運転してご家族でこちらに向かってくるということで、私は運転できませんから、どうしてこんな大事な時に大事な家族を乗せてそんな冒険をするのだろうかと思いますけれど。無事に着任されるように愛のうちに先生を覚えて祈っていただきたいと思います。

安藤記念教会は、何遍か申し上げていますけれど、私も行くことになって知ったことですが、銀座教会が最初に生み出した教会ということであります。

銀座教会員であられた安藤太郎、文子夫妻。その方が明確な信仰を持たれて、そして銀座教会でともにこうして礼拝をささげていらしたのであります。ご夫妻の祈りは、自分たちの命がまた豊かに実を結んでいくようにということであったと思います。ご自身、ご夫妻の財産をすべて教会にささげたいというふうにともに祈り願っておられたことですが、奥様が天に召され、そして安藤太郎さんは、ご夫妻が話していた通り、ご自分の邸宅を教会のためにささげたいという決意をした。銀座教会はそれを受けて、そして日曜日の午後3 時からの礼拝に主任牧師であられた鵜飼猛先生が通われて、1年後には日本メソヂスト教会はそこに「安藤記念教会」と名付けた教会を建設したということであります。関東大震災の少し前ですけれど、銀座教会の何人かの方々が「有志」という箱書きで洗礼盤を安藤記念教会に送って下さったのだと、教会員の方からそれを一番最初に見せていただきました。今の銀座教会の洗礼盤はなかなか立派なのですけれど、それ以前は私も気がつきませんでしたが、非常に粗末なものであったようで、自分の孫の洗礼に臨んだ方が洗礼盤を寄付して下さって、今は立派な洗礼盤が使われています。

安藤記念教会では、銀座教会の有志の方からいただいた立派な洗礼盤で、洗礼の杯で洗礼が授けられ続けてきたことでございます。聖餐卓がないのが今課題です。狭い講壇に説教壇、聖餐卓、洗礼盤、どういうふうに配置するかということが一つの悩みですけれど。もし銀座教会が聖餐卓をプレゼントしてくれたならば(笑)、一挙に解決するのではないかと目をつけている机があるのですが、この前安藤記念教会に行って、オルガニストの何人かの方々とこの次の礼拝の準備を細かくさせていただきましたけれども、ちょっとその机は置くのは無理で、諦めましたので、どうぞご安心いただきたいと思います(笑)。でも銀座教会が建てた教会であるということはとても深く意識していることで、そしてそこからもう辞めて行く牧師なのですけれど、(その)牧師が来たということで歓迎して下さっているというのは、大きな喜びであります。

葡萄の枝のその先に伸びて行った枝というふうに言うことができるかもしれませんが、教会のようなそもそも主イエス・キリストがまことのぶどうの木であられて、どこにある教会も、どの教会も、そのまことのぶどうの木に結ばれている教会なのだ、と言うことですね。そしてそこで大切なのは、主の御言葉が語られ、聞かれていると言うこと、主を信じ主に愛されているものとして主の愛に生きている、そこに教会がある、と言うことではないでしょうか。

そのように思い至った時に、私は何か今日を最後にしてこの教会を離れるとか、別れるとか、そういう思いからは少し解放されました。どこにあっても御言葉に聞き、御言葉に生きている、御言葉を宣べ伝えている、そこに主に結ばれた私たちの命の交わりがあるのだ、ということを思って確信しております。銀座教会のこれからの歩みのことについて覚えたいと思いますし、私どもの(もうそう言ってもいいのでしょうか)安藤記念教会のこともお覚えいただいて、そして、ともに御言葉に立つ教会として励ましあっていくことができれば、それは二つの教会だけでなく全国の教会を、また世界が福音によって生き生きと成長していくように、私たちはともに主にお仕えしたいとそのように願っており、そして伝道者としての働きを支えていただき、恵みのうちに送り出されることを感謝させていただきたいと思います。

お祈りをささげます。

天の父なる御神様、あなたの尽きることのない愛の恵みのうちに置かれている私たちであることを感謝いたします。
どうかあなたに心を閉ざすことなく心に広くあなたを受け入れ、また兄弟姉妹方を受け入れ、ともに福音に生きるものとさせてくださいますようにお願い申し上げます。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってみ前におささげいたします。
                                  
アーメン