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銀座の鐘

新しい生き方とその根拠

説教集

更新日:2021年07月25日

2021年7月25日(日)聖霊降臨後第9主日  家庭礼拝 近藤 勝彦 牧師

エフェソの信徒への手紙4章25~32節

 人間は誰でも他の人と共に生きています。お互いの関係の中で倫理的な生活を営んでいるわけです。しかしキリスト者はさらに根本のところで、神と共にある生活にあずかり、救いに入れられた者として生かされています。キリスト者とされ、救いにあずかったことは、神からのことですが、それはまた人々と共に生きる中にも新しい生き方を表すでしょう。今朝の聖書の箇所はそういうキリスト者としての新しい生き方を語っています。
  新しい生き方は、まず、四つの言葉で語られています。「偽りを捨てる」、「日が暮れるまで怒ったままでいない」、「盗みをしない」、「悪い言葉を口にしない」という四つの表現です。一見して、別段、新しい生き方というほどの新鮮さは感じられないと思われるかもしれません。世界中のどこでも言われる道徳が何 の統一性も、論理的な順序や体系もなしにアットランダムに思いつくまま記されているように見えます。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません」とある個所など、エフェソの教会にはかつて泥棒だった人がいたのかと、かえって驚いてしまうかもしれません。確かにこれら四つの生き方は、特別論理的に整然と配置されているわけではなく、教会生活の具体的な必要の中から語られたとも考えられます。
 しかし問題はこれらの生き方がどういう根拠から語られているかです。それが重要で、そこから理解するとき、ここにまぎれもなく新しい生活が語られていると分かります。「だから偽りを捨て」と初めに言われます。「捨てる」は「脱ぎ捨てる」です。22節にも同じ言葉が記されていました。「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てる」とありました。また同じ言葉が使われたのです。「嘘を脱ぎ捨てる」と言うのです。「脱ぎ捨てる」という表現は、洗礼と結びついています。キリストにあって洗礼を受け、新しい人を身に纏い、神の命に生かされました。それがここでの新しい生き方の根拠を形造っています。それで、隣人に嘘でなく真実を語りなさいと言って、「互いに体の一部なのです」と続きます。洗礼をとおしてキリストの体に加えられ、互いに主にある体の一部にされました。もちろん嘘をつかず、真実を語るのは教会の中だけのことではないでしょう。誰に対しても生きる新しい生き方として語られています。しかしその根拠は、イエス・キリストにある現実から来ています。そのキリストにある生活は、教会生活の中でとりわけ力を与えられ、そして世界のどこに身を置いてもキリストを身に纏って過ごす。神との関係の中で生かされていることを根拠にして、人々の関係を 生きる。ですから、「嘘をつかない」というのは、神の真実によって生かされて いる深みから出てくる新しい生き方です。
 盗んではいけないと言う言葉も、同じキリストにある現実から発せられています。教会に泥棒がいたという話ではなく、あの時代、労働するのは一般に奴隷の仕事と考えられ、人に働かせて自分は働かないことが価値ある生き方とされていました。しかしキリストにある新しい生き方は、働くことなく生きることを戒め、働くことの大切さを示しました。福音が伝えられるところどこでも労働の尊さが伝えられたのです。しかし聖書は、ただ労働によって正当な収入を得るだけでなく、それを困っている人に分け与え、他者に仕える、そのために働く道を示しています。キリスト教伝道と共に労働の意味は見直されました。しかしさらに他者のために仕える労働ということでは、人類はさらに聖書から学ばなければならないでしょう。
 四つの言葉のはじめは「嘘をつかず、真実を語りなさい」でした。そして四つの言葉の最後は「悪い言葉を口にしないように」とあります。キリストにある新しい生き方が、言葉に注意を向けた生き方であることが分かります。隣人に対し真実を語るのは、互いにキリストの体の一部に属するのだからと言われ、今度は私たちの言葉が「その人を造り上げるのに役立つ」ようにと言われます。人を造り上げる言葉を語ることが重要なのです。人を造り上げる言葉とは何でしょうか。その人を突き飛ばす言葉ではなく、助ける言葉でしょう。励まし、勇気づける言葉、そして慰める言葉ではないでしょうか。ヨハネによる福音書が「はじめに言があった。言は神と共にあった」と言いますように、キリスト教信仰は言葉の重さをよく知っています。主イエスの言葉の中に神の国の力が働いています。 人を造り上げる言葉は、神の言葉であり、主イエス・キリストがその言葉です。ですからキリストを語る言葉、つまり福音が語られるとき、まさに「人を造り上げる言葉」が語られます。キリストを語ることで、他者を突き飛ばすことはでき ません。人を傷つけ、人と人との交わりを破壊する言葉、あるいは教会を非難し、壊す言葉、不信を撒き散らす言葉、緊張を与える言葉、それらは「聖霊を悲しま せる」と言われます。聖霊は私たちをキリストと結び合わせ、キリストにあって神と結び合わせます。人々を神との和解に入れ、安心と喜びを与え、信仰を与え、命を与え、そして生かします。聖霊はまた人と人とを深い場所で互に結び合わせ ます。「その人を造り上げるのに役立つ言葉を語りなさい」。キリストを語る言葉は、聖霊の喜びの中に自分も生き、他者を生かすでしょう。その人を破壊し、生きにくくするのは、聖霊を悲しませることと知らなければならないでしょう。 聖霊を敵にまわして、私たちに命も喜びもありません。
  四つの言葉の中ほどにあるのは、怒りについての警告です。怒ることは頭からだめだとは言われていません。しかし怒りを無制限にいつまでも続けることがないようにと言われます。怒ることがあっても罪を犯さないように。怒ることには危険があって、怒りの時間を短くするように、怒りに時間的制限を与えるように、それができるはずだと言うのです。「太陽があなたの怒りの上に沈むことがないように」とあります。日没で一日が終わりますが、そこから新しい一日が始まります。宵越しの怒りは控えなさいというのです。
 興味深いことは、この段落に怒りの問題が二度出てくることです。31節では、捨てるべきことが五つの言葉で語られています。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」、それに「悪意」が絡まっています。五つの言葉の真ん中は「怒り」です。そこに向かう内面が「無慈悲」あるいは「不機嫌な気持ち」、そして「憤り」、それが「怒り」に高まり、その怒りが外へ爆発するのが「わめき」、「そしり」です。教会の現実を踏まえていて、諸教会の間に不一致や争いがあり、その根源 に「怒り」があるのを見ていたと思われます。「正義の怒り」などと言う場合もありますが、怒りの上に太陽を沈ませてはならない。「宵越しの怒り」をもってはならない。怒りに時間的な制限を与えよです。
  そしてそれができるはずで、その根拠は「神があなたがたを赦してくださった」 ことにあります。怒りをかうというなら、それは私たち自身ではないでしょうか。しかし神は、キリストによって赦してくださいました。そこに私たちが新しく生きる根拠があります。キリストによる神の赦しの中で互いに赦し合う。このことは「きれいごと」を言っているわけではありません。「神がキリストにあって赦してくださった」ということは、通り一遍に教科書に書いてある思想ではないのです。神の赦しがただのきれいごとに過ぎなかったら、私たち人間は古い人として滅びに向かうほかはないでしょう。怒りに燃えて自暴自棄にもなるでしょう。しかし怒ったままで日を過ごさなくてよいのです。ゴルゴタの丘で十字架に架けられた主キリストの出来事、その膨大な苦痛の死の中で起きている神の事実は、今日の現実でもあるのです。主イエスの十字架の死は、復活者キリストの十字架の死として今日も赦しの効力を発揮しています。十字架にかかり復活したキリストが今日共にいて下さるとき、主の十字架は今日もあって、神の赦しを発動し、私たちを新しく生かしてくれます。復活者キリストとその十字架の死は、今日、私たちを包む現実です。だから、あなたがたも赦し合いなさい。「日が暮れるまで怒ったままでいてはならない」。神の確かな赦しの中で新しい命を与えられて いることを感謝したいと思います。

 共に祈りましょう。:聖なる、天の父なる神様、今日も御前に集められ、会堂 にあって、また家庭にあって、共に礼拝の恵みにあずかることができますこと、感謝申し上げます。御子イエス・キリストの十字架の死によって、あなたの赦しの中に今日も身を置く幸いを感謝いたします。あなたによって新しくされた者として、人々との交わりに生きることができますように導いてください。御言葉にありますように、偽りでなく真実を語り、日が暮れるまで怒りを引き延ばすことなく生きることができますように。困っている人を助け、人を造り上げるのに役立つ言葉を語り、聖霊を悲しませることがありませんように。教会が主キリストの体として、神の国の希望を世界に指し示す群れであることができますように。このために伝道者・牧師を顧み、新たに伝道者として献身する人を起こしてくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。