銀座教会
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銀座の鐘

復活のキリストがあなたを照らす

説教集

更新日:2021年09月25日

2021年 9 月19日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝  家庭礼拝 協力牧師 近藤勝彦

エフェソの信徒への手紙5章6~14節

 聖書によりますと、神の天地創造の第一声は「光あれ」でした。光は物理的な光でもありますが、また私たちの心の光でもあります。人間とこの世界にとって光がどれほど大切なものであるは、誰も知り尽くすことはできないでしょう。人類は一昨年の末以来、もうほとんど2年間にわたって、新型コロナのパンデミックのためにトンネルの闇の中を歩んでいる状態です。ですから、誰もが「明かりがある、明かりが見える」という言葉を確かな根拠をもって聞くことができることを望んでいます。それだけに、確かな根拠もなしに明かりが見えると言われると、たとえ総理大臣の言葉であっても無責任に思えて、不信と嫌悪を感じないわけにはいきません。明かりが確かであれば、それは安心を与え、希望を与えます。明かりが見えれば、頑張る力も与えられます。それだけ人間は闇の中では行く先が分からず、不安であり、生きる確かさを持てないわけです。
 今朝の礼拝のために示された御言葉は、キリスト者にとっての明かり、光のことを語っています。その光が誰にとっても救いであると告げています。9 節には「光から、あらゆる善意と正義と真実が生じる」と言われています。善意と正義と真実が生じてこなければ、この世の闇が続きます。悪意や不正、邪悪や虚偽は闇というほかはないでしょう。聖書が 光と言い、またその反対に闇というとき、ただ暗い空間や明るい領域といった、人間生活が営まれる場所、その暗さ、明るさを語っているだけではありません。場所や状況の明るさや暗さもありますけれども、光か闇かという区別は、そこに生きる人間自身のことでもあって、善意や正義、そして真実があるか、それとも悪意と邪悪さの中に浸っているか、その人の生き方そのもが問題です。闇の問題は、その闇の世界と共に、そこに生きる人間自身が闇を抱え、闇に支配され、闇になってしまうことです。闇の仲間や闇の業にくみして、その人自身が闇のものになるわけです。
 そこでこの手紙の著者であり使徒的リーダは、手紙の受け取り手である教会の信徒たちに「あなたがたは以前には暗闇でした」と語っています。しかし「今は主に結ばれて、光となっています」と言うのです。聖書は人間を理解するのに性善説かそれとも性悪説かといった単純な見方をしません。神の似姿として創造され本来罪のなかった人間が、誘惑によって罪に堕ち、自分に闇をかかえる、そういう人間の現実を見ています。しかしその人間が「今は主に結ばれて、光となっている」と言うのです。これを受け留めて「光の子として歩みなさい」と勧められます。
 「今は主に結ばれて、光となっています」。ということは、光か闇かは状況や環境とい った生の場の問題ではなく、たとえそれが闇であり、トンネルの中に置かれた状態であっても、その人自身は光となり、光の子として歩むことができると言います。重大なのは、この転換点です。光に変えられ、光の子となる、その転換点はどこでしょうか。
 聖書はそれを「今、主に結ばれて」と語ります。ここが決定的です。「主に結ばれる」という言葉は、説明的に訳しているので、本文はただ「主にあって」、あるいは「主の中で」という単純な言葉です。単純ですが新約聖書における最も重大な御言葉です。「主の中」(エン・キュリオ)、「キリストの中」(エン・クリストー)、主にあり、キリストにあるという事態。これが、その人が闇の人か、それとも光に属する人、光の子かを分ける分岐点です。「主にあって」は、さらに具体的に言えば、洗礼を受けてキリストの中に入れられたことを意味します。光か闇かは、善意か悪意か、正義か邪悪か、真実か虚偽かということでもありました。さらに言えば命か死かということでもありますし、救いか滅びかと言ってもよいでしょう。悪意や邪悪や虚偽とは誰も無関係とは言えません。罪のな い人はいないからです。「あなたがたは、以前には暗闇でした」と言われるとおりです。 私たち自身に悪意や邪悪さがあり、虚偽があります。そこから光の子にされたのは「主にあって」であり、「主にある者」へと転換させられたことによります。ですから、暗闇から光の子へという転換は、洗礼体験と言ってもよいのです。洗礼によって主のものとされ、 キリストの恵み、その御身体の中に入れられたのです。それはキリスト体験と言ってもよいでしょう。それが私たちの光の体験です。
 洗礼体験はいつのことかと問われれば、私たちが洗礼を受けた時のことですが、その時 だけではありません。その時には分からなかったことが、信仰生活が進むにつれて、後から分かって来きます。洗礼体験は主にあることの確かさ、その平安や喜びが分かることです。それは今、礼拝において、今信じる中で「主のもの」とされ、復活の主に照らされて経験することでもあります。
 光とされることは、主にあって、キリストのものとされた洗礼体験だと言いました。聖書のこの個所で洗礼が記されているのは、「主にあって」という言葉がそれです。さらには14 節に引用された三行の詩からも分かります。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」この三行の歌はどこからか引用された言葉ですが、どこからの引用でしょうか。有力な説は原始教会の讃美歌から、それも内容から言って洗礼歌からの引用だということです。異邦人キリスト者の洗礼式に「大いなる光があなたがたの上に登った」と言う洗礼式文が用いられていた事実も知られています。洗礼は光に照らされる経験でもありました。死者の中から立ち上がって、 復活のキリストの光を受けると言われました。闇は死と結びつきますが、それに対して、 光は死に対する勝利であり、復活の命と結びつきます。光は命の光であって、復活のキリ ストから射し注ぎます。復活者の光が照らすとき、闇の力は削がれ、命と喜びがあふれま す。
 洗礼体験は、復活のキリストの体験であり、キリストに照らされる体験です。このこと は「信仰とは何か」ということを表してもいます。信仰は、今活ける復活のキリストを仰ぎ、キリストの命との交流の中で生きることです。「信じる」ということは、復活のキリストに「照らされる」ことでもあります。
 光はトンネルを過ぎた向こうにただ明るく開けて、私たちの方からその光に向かって行くのを待っているだけではありません。光であるキリストは私たちのもとに来てくださいます。死を克服し、神の勝利の力のうちに来てくださいます。人生の色々な試練の中にあって、私たちが暗闇にあるとき、トンネルの中にいるとき、復活の主キリストは今すでに照らしてくださっています。キリストに照らされ、闇の中ですでに光とされ、光の子として歩む。それが信仰生活です。試練の中にも平安を持ち、確かさを持ち、また希望をもち、喜びをもって、歩むことができます。トンネルの向こうだけでない、トンネルの中ですでに復活のキリストの光は射しています。命も平安も喜びもすでに闇の中で始まっています。それだからヨハネによる福音書は、「光は暗闇の中で輝いている」と語りました。光が暗闇の中で輝いているのは、暗闇の中で光が闇の力、脅し威嚇する力に打ち勝っているからです。
 復活のキリストがあなたを照らします。キリストの光に照らされれば、すべて明らかにされます。私たち自身の暗闇の業も明るみに出されます。「むしろ、それを明るみに出しなさい」と言われているとおりです。主キリストの目から隠すのでなく、キリストの光に 照らされることです。「すべてのものは光にさらされて、明かにされます。明らかにされるものは、みな光となるのです」と言われます。復活のキリストの光の中にすべて明るみに出す。それが悔い改めるということ、死人の中から立ち上がることでしょう。光の子として歩むというのは、キリストに照らされて、その赦しの中で勇気をもって歩むことでもあります。

祈りましょう。
 天の父なる神様。「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」御言葉によって復活の主イエス・キリストに照らされ、主の命にあずかることを許され感謝いたします。主の光に照らされて、光とされ、主にある善意と正義と真実に生きることができますように。オン・ラインで礼拝にあずかっているすべての兄弟姉妹とともに、同一の主キリストにあって光の子とされ、新しい一週間を御栄のために歩むことができますように。世界の教会がいま試練の中にありますが、この時にこそ求められているあなたの福音を告げ、教会の使命を果たすことができますように、御霊のお導きを祈ります。新たな伝道の献身者が起こされますように。私たちのために贖いとして御自身を捧げ、復活し、今私たちの主でいてくださる御子イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。