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銀座の鐘

主がお与えになる信仰告白

説教集

更新日:2021年09月26日

2021年 9 月26日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝  家庭礼拝 伝道師 藤田由香里

マルコによる福音書8章27~30節

 マルコによる福音書を読み進めております。本日は、ペテロの信仰告白の記事です。この記事は、マタイ・マルコ・ルカに記されます。この共観福音書の記事の中では、何と言ってもマタイ福音書が詳しく記すことで知られます。主イエスは、「わたしはこの岩に教会を建てる」「天国の鍵を授ける」と信仰告白を与えられたペトロに言われました。けれどマルコによる福音書は、四福音書の中で紀元66~70年頃、はじめに書かれたと言われます。古代教会では、古代教父の発言もあり、正典の順に成立しただろうと考えられていました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。18世紀以降の聖書学の研究では、マルコが始まりであるだろうという説が有力になりました。マルコ福音書の91%の記事がマタイ・ルカ両方あるいはどちらかにあると言われます。詳しいことを私たちは断定することはできません。けれど、考えてみることができると思います。マルコはローマで記されたとされる説があります。マルコ成立の紀元60年代といえば、ちょうどパウロ・ペテロ・ヤコブが殉教した時と伝えられます。ローマ皇帝で言えば、迫害者皇帝ネロもこの時期に現れています。ペテロの通訳者ヨハネ・マルコが記したにせよ、他の人物にせよ、ペテロ自身の体験と言葉が受け継がれた書であることを期待していいと思います。だとすると、復活のキリストに直にお会いした使徒たちが次々に迫害され、殉教の死を遂げる中で、福音を伝えねばならない・主から受けた重要なことを書きしるさねばならないという思いも教会の間にあったでしょう。その時代にキリストのお命じになったことから重要なことを凝縮したのがマルコ福音書だと考えますと、多くを語らない簡潔なこのマルコ福音書は、実はマタイ・ルカよりも語らずして伝えている福音の真髄を宣べていると思わずにはいられないのです。マタイはシリア地方・アンティオキアなどにも根付く場所で書かれたと推測されます。アンティオキア司教ともされるペトロですから、マタイが書かれた場所は、司 教ペテロの影響があったと思われます。もし迫害地ローマで書かれたペテロの生きた証言としてのマルコ福音書を、シリア・アンティオキアの教会が受け取ってペテロをよく知り、徴税人マタイ・レビかそれと近いキリストの弟子たちがマタイ福音書を詳しく書いたとすると、マタイ福音書がマルコやペテロに敬意を払いつつ、大変詳しくまとめている歴史を感じます。
 本日示された箇所も、マルコであるからわたしたちがお聞きできるメッセージがあるだろうと思います。やはりマルコはとてもシンプルに少ない言葉でペトロの信仰告白の出来事を語ります。
 イエス様は、弟子たちに尋ねられました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
するとイエスはお尋ねになりました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロは、あなた方はと尋ねるイエス様に対して、率先して自らが答えます。
「あなたは、メシアです。」この言葉は「クリストス」つまり「あなたはキリストです。」を意味する信仰告白です。マタイは「あなたはメシア、生ける神の子です」、ルカは「あなたは神からのメシアです」と表現します。けれど、マルコは一言「あなたはキリストです」と告白します。キリストは、油注がれたもの、救い主を意味します。聖霊によって与えられる信仰・信仰告白ですが、マルコ福音書は「あなたこそキリストです」というこの一言の大切さを伝えます。使徒信条でもわたしたちは「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白します。この信仰は、神からの賜物、つまり贈り物、上から与えられる恵みなのです。
 さて、信仰告白に至る難しさを語る記事があります。ヨハネによる福音書3章のニコデ モの記事です。ユダヤの議員であったニコデモは夜の闇の中、密かに道を求め主イエスに会いに来ます。イエス様はニコデモに言われました。「はっきり言っておく。人は、新た に生まれなければ、神の国を見ることはできない。」けれどニコデモは答えます。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」自由に思いのままにふく風、神の自由なご意志による息 吹が吹き込まれなければ、信仰は起こらないのです。
 けれど、わたしたちは伝道に悲観する必要はありません。長年家族や親しい友人や同僚に伝道を試みてきたことがあるでしょう。けれど、あの人はクリスチャンになりそうだけどと思っていても、祈り・伝道してみるとやっぱり難しいなと諦めかける気持ちになるこ ともあると思います。神様がすべてをご支配されています。でも、そういうわたしたちの判断は時にわたしたちによる無理解となって現れます。ルカ福音書10章にはマルタとマリアの話があります。マルタは忙しく仕える姉、マリアは真剣にイエス様の言葉を聞いてい妹として対比されることがあります。
 ルカではこのように書かれるマルタですけれど、ヨハネ福音書11章では、イエス様を 前に信仰告白しています。イエス様はラザロの死を聞いて駆けつけ、マルタに言いました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (ヨハネによ る福音書11章25~26節)するとマルタは答えます。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 (11章7節)
 このマルタの信仰告白の「信じます」という言葉は、文法的に現在を強調するような表現、「まさに今、キリストよあなたを目の前にしてわたしは信じます」というニュアンスがあります。
 主はこの時マルタに復活の勝利を信じる心をお与えになったのであります。信仰告白が与えられるときは、これは神様の時、神様のご意志に委ねられています。
 ペトロも主イエスを前に、大変立派な信仰告白が与えられました。そしてこの話
が、直後のペトロが主イエスに「退け、サタン」と叱られる話に続くことをわたしたちはよく知っています。このところで、マルコは主イエスとペトロのやり取りに同じ言葉を使い続けています。それは、「叱る」という言葉です。イエス様が信仰告白の後、弟子たちにこのことを誰にも話さないように「叱った」とあります。同じ言葉が続く受難予告で用いられます。イエス様が受難と復活を予告されると、ペトロは「叱る」という語で主を諌めます。福音の中核となるべき事柄を、ペトロは否定しようとしたのです。するとイエス様がお叱り返すのです。「退け、サタン。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」この「退け」は、直訳すると「わたしの後ろに退け」、「わたしの後に行け」とあります。「オピソームー」わたしの後にという言葉があります。退けは、マルコの他の箇所では「帰りなさい」「安心して行きなさい」と純粋に行くという意味に読める言葉です。ですから、主イエスはペトロが信仰的に間違った時、ただ退けといったのではなく、「わたしの後に下がれ」と、主イエスの後ろに続くように言われたのです。勇み足で自分の判断で行き過ぎてしまったペトロを、主はお叱りになります。けれど、去りなさいというのではなく、わたしの後ろに、主イエスの導きの元に退きなさいと言われるのです。主はそのようにしてペトロを教え導かれます。そして、ペトロが行くべき道に進めるよう、神の恵みに満ちて遣わされていけるようにしてくださいます。「あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける」(詩編23編4)とあるようにです。そして、ペトロがキリストの贖いによって、清らかに家に帰れるように、安心して遣わされるように。主が、必要な恵みを備えて祝福とともに遣わしてくださるのです。信仰を与えられているわたしたちは、嵐の時も、 患難の時も、神様の希望と愛のうちに守られています。
 ペテロには、「あなたはキリストです」という信じる心と告白が与えられていました。 神様が、信仰告白・洗礼を始まりとしてわたしたちを日々新たにしてくださいます。洗礼 はもう一つの誕生日です。「人はだれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入 ることはできない。 」(ヨハネによる福音書3章5節)夏休みカテキズム講座を子供達と 学びました。「あなたたちは誰ですか?」その問いに「わたしたちは神様の子どもです」と答えます。主イエスは、今度はわたしたちに「あなたは誰か」と問いかけられているように思うのです。あなたは誰であるか?洗礼によって、新しく水と霊によって生まれた時、わたしたちは神様から新しく生まれています。天を本国とした神様の子です。
 だから、わたしたちが頂いている信仰告白が、神様からわたしたちに与えられた尽きぬ恵の贈りものであることを改めて心に覚えたいと思います。そして、自由な息吹で吹き巡る聖霊がどうか新たに信仰を与えられる兄弟姉妹を増し加えてくださるよう祈り・仕えましょう。ペトロが信仰を与えられた後、与えられた使命は、天の門を閉じて開けること、伝道と宣教です。聖霊は、わたしたちを罪から清め、キリストのお姿へと造り変えていき、また新しく信じるものを起こされます。伝道により再臨の時が近づきます。

祈り
 天の父なる神様、恵みにより、信仰と信仰告白を与えられていますことを感謝い たします。教会の歴史を通して与えられている信仰告白を大切に告白していけますように。 主を愛し、自分を愛し、隣人を自分のように愛するものと、あなたを証しするものとして導き養ってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。