銀座教会
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銀座の鐘

白く輝く主の衣

説教集

更新日:2021年10月10日

2021年10月10日(日)神学校日・伝道献身者奨励日・聖霊降臨後第20主日礼拝 家庭礼拝 伝道師 藤田 由香里

マルコによる福音書9章2~13節

 マルコによる福音書9章は、「山上の変貌」の記事によって始まります。その始まりはこう記されます。「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マルコによる福音書9章2節)イエス様が3人の弟子を高い山に連れて行くこの光景は、旧約聖書の出エジプト記24章のモーセが、ヌンの子従者ヨシュアを連れてシナイ山に登る状景を思い起こさせます。モーセにはヨシュア、主イエスには3人の弟子が伴われました。主の恵みの御業には、一緒にそれを見て証しする弟子の姿がありました。「六日の後」とありますが、モーセがヨシュアを連れて山に登ると、雲が山を覆って、主の栄光がシナイ山に宿りました。そして「六日間」雲は山を覆い、七日目に主は雲の中からモーセに呼び掛け、十戒を書き記した2枚の板を授けました。この6日間は、神様がモーセに語り掛けられるまでの時であり、このマルコ福音書では、この山で重要な出来事が起こり、重要な主の言葉が与えられることを予感させます。

 その出来事はこの高い山で起こりました。主イエスのお姿が3人の弟子たちの前で変容しました。イエス様のお姿の変わる様子を、マタイ・マルコ・ルカは微妙に異なる表現で描きます。マタイは、顔は太陽の様に輝き、服は光の様に白くなったと「太陽と光」に譬えて言いますし、ルカは、イエスの服は「輝く白」に変わったと形容詞をルカなりに変更して豊かな表現にしています。マルコにある表現は、マルコ独特のものです。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9章3節)と記されます。ここに出てくる「輝く」と「さらし職人」は、新約聖書の中でこの箇所にだけ出てくる単語です。「さらし職人」(グナフュース)は、洋服関係の職人を指す言葉です。この言葉は、「綿紡績の工程で行われるカーディングという繊維方向を揃える行為」や「洋服を着せる」という意味の動詞から来ています。全体的に洋服関係の職人に用いられます。「輝く」も大きく特別な言葉というより、星が輝く、とか冴えているという意味があり、日常語であったのではないかと思います。この言葉が旧くはペトロの証言から来ているかわかりませんが、マルコ福音書の証言者は、衣を白く整えるさらし職人の仕事を思い浮かべられる人だったのかと思います。この一文は、主イエスの衣の白さを目にした時、どんな「匠」と呼ばれる職人であってもこの白さは決して出せないと感嘆した思いから出てきたのではないかと思います。この世では、見たこともない白い輝きであったのです。
 
 今まで目にした中で一番「白く輝く」ものというと何でしょうか。今日は神学校日ですが、わたしの神学校での経験をお話します。わたしは、大学院一年の頃、礼拝委員会の委員長をしており、全学祈祷会という神学大学全体で礼拝を守り、自由祈祷をする会の担当でした。その日説教者を担わせていただくわたしは、祈りの中で詩編51編を選びました。左近潔先生の東京神学大学の入学式の説教を読んでいると、詩編51編の説き明かしがあり、「21世紀の真の伝道の言葉」としての悔い改めの祈り、自由な霊を与えられ伝道する詩人の姿が取り上げられていました。宗教改革者マルテン・ルターも『主よ、憐れみたまえ』と題する書で講解し、この詩編を重んじています。釈義の内に、旧約聖書ギリシャ語の詩編の「雪より白くしたまえ」の言葉が、まさに本日のマルコ福音書の主イエスが 白くなられたという言葉が同じ言葉であり、主イエスの白い清い輝き・贖いによってわたしたちもこのキリストの白い衣を着せていただくという内容をお聞きしました。すると、全学祈祷会の前日、大雪が降り、祈祷会は中止となりました。わたしは祈祷会担当者なので、実家の神奈川から大学に向かいました。天気は晴れですが、雪が積もっていてなんとか電車とバスで神学校にたどり着きました。神学校の近くに降りると、見事に雪は積もっていて、白い雪の中を長靴で歩いて進みました。その時、雪はとても白かったのですが、太陽の光を浴びて、キラキラと輝いていたのです。雪の白さは、白く輝いているのだと印象に残りました。皆さんの知る最も白い地上の白はなんでしょうか。その白、よりも主イエスは白く、わたしたちの罪もこのように白くしていただく救いであるのです。
 地上にあり得るどんな白さにも及ばぬ白さを主イエスは身に纏われておりました。それは「天的な白さ」です。イエス様が、神の御子、子なる神キリストであることを示しています。主イエスが成し遂げてくださった贖罪によって、この白い輝きに我々も与るようにさせていただけるのです。ヨハネ黙示録7章では、白い衣を纏った大群衆が主を礼拝しています。
 主の栄光が輝く山において、キリストは輝くお姿を弟子たちにお見せになりました。ここで、エリヤとモーセが主イエスと一緒にいます。ペトロが天的な光景に我を忘れて、3つの小屋を建てましょうと主イエスに言われました。しかし、主の栄光は限られたところにおさまらず、自由に輝かれます。旧約聖書では、密雲の中から主の声がしました。そこで、律法が与えられました。マルコによる福音書では、この雲の中から、主の声がします。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(9章7節)この声は、主イエスの洗礼の時の記事の言葉と重なります。モーセを通して民に律法をお与えになった神様は、この山上の変貌の山にて言われたのです。「我が愛する独り子、これに聞け」と。キリストの言葉に聞きなさいとお命じになりました。そして、弟子たちが辺りを見回すと、モーセもエリヤもおらず、ただ主イエスだけがおられたのです。
 これらの出来事は、主イエス・キリストが旧約聖書を成就なさった方であることを告げています。旧約聖書の神の臨在と律法授与のシナイ山の状景と重ねつつ、主イエス・キリストこそ旧約聖書の成就、贖罪を成し遂げる神の御子であられることを伝えています。
 主イエスが弟子たちの前で変容されたというのは、印象が変わったとか、様子が変わったという受け手の印象の話だけではありません。「メタモルフォオー」、この「変容する」という語は、パウロ書簡で、キリスト者の変容について記されます。「わたしたちは皆、 顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同 じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(コリントの信徒 への手紙II3章18節)ここで、パウロはモーセにかけられていた覆いは、キリストにおいて取り除かれると語ります。人が主に向くならば、覆いは取り去られる。自由の霊は覆いを取り、キリスト者を栄光から栄光へ、主と同じ姿に造り変えていきます。栄光の主キリストに心を向けましょう。主の言葉に聞き、主に望みを置きましょう。主の栄光はわたしたちを造り変え、新しい姿にしてくださいます。
 主イエスは、山上の変貌の後、弟子たちに言われました。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」3人の弟子はこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合いました。今や、語る時が来ているのです。主イエスの復活後の教会に生きるわたしたちは、主からキリストの福音を全地に伝えるようにと言われているのです。
 
祈り
 天の父なる神様、主の栄光を讃美いたします。山上で主がお見せになった白く輝 く姿を改めて心に留めます。その衣を着せていただけるようになったわたしたちが、日々主に向かって、キリストの似姿へと造り変えられていきますように。キリストの福音を全地に宣べ伝える器として教会を、私達をお用い下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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