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銀座の鐘

悪い時代にどう生きるか

説教集

更新日:2021年10月25日

2021年10月24日(日)聖霊降臨後第22主日 主日礼拝 家庭礼拝 協力牧師 近藤勝彦

エフェソの信徒への手紙5章15~20節

 人生を生きることは、時の中を生きることです。それはまた時代の中を生きると言ってよいでしょう。時代は、ある期間にわたって時が塊になって流れているわけで、時代に逆らって生きることは決して容易ではありません。今朝の聖書の御言葉は「今は悪い時代なのです」と記しています。その理由は記されていません。しかし聖書の言うところは、私たちが生きている世界と別の現実を見ているように受け取るべきではないでしょう。私たちの人生にも「今は悪い時代です」と言わなければならない現実があるのではないでしょうか。その中で、信仰者は どう生きるのでしょうか。そのことを今朝の聖書は記しています。
 短い段落ですが、幾度か読み返してみますと、この一段落には前半と後半の二 つの部分があることに気づかされます。前半の部分は、「どう生きるか細心の注意を払いなさい」と言い、「時をよく用いなさい」と言います。悪い時代に生きているからといって、キリスト教信仰は宿命観に捉えられ、絶望や無気力に陥るわけではありません。むしろその悪い時代、暗い時代の中にも、賢い者として細心の生き方をし、時をよく用いなさいと言われます。この「時」という言葉には、 主イエスが「時は満ちた」と言われた時の「カイロス」という言葉が使用されています。それは、重大なことが起きる可能性のある時であり、選び与えられた時です。悪い時代の中にも、そう言うときがあって、よく用いることができるというのです。それには「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と言われます。「主の御心を悟る」のは、「主の御意志を理解する」ことです。 「時をよく用いる」のも、その時に主の御心が何であるかを理解することでしょう。悪い時代にどう生きるか、賢く、細心の注意を払うというのも、「主の御心が何であるか」を理解することに中心があると思われます。
 悪い時代を賢く生きる、その賢さは人間として智的に賢くとか、この世の知恵を持ってと言うことでなく、どんな時にも「主の御心」「主の御意志」を理解することを意味しています。そこに悪い時代をどう生きるか、解答があるわけです。 時代の話は、私たちそれぞれの人生の日々のことでもあります。悪い時代、暗い 時代は、それぞれの人生にとっては試練の時になるでしょう。その時をどう賢く、また細心の注意で生き、その時をよく用いることができるか。重大なのはその時の中で主イエスの御心、主キリストの御意志が何であるかを理解することだと言うのです。
 主の御心が何であるかを理解する。それにはどうしたらよいでしょうか。主イエス・キリストの御意志を理解する手立てと言えば、誰でも聖書を開く、そして聖書に記されている主イエスの言葉に耳を傾け、それを今生きている自分に向けられた主の言葉として聞くことと思われるでしょう。またそうできるように祈りすることも、欠かせることはできないでしょう。そのほかに主の御意志を理解する手立てがあるでしょうか。祈りつつ聖書に聞く、それ以外に道はない。そう思うことは、決して誤りでないと思います。しかし今朝の御言葉は、そのように語ってはいません。そうでなく、「酒に酔いしれてはなりません」と言い、そして酒でなく「霊に満たされるように」と語ります。そしてこの段落の後半の話に入っていきます。
 そして後半の話は礼拝の話になっているのです。悪い時代にどう生きるかを語りながら、主の御心、主の御意志を理解するという中心点を語って、そこからどんな悪い時代にも生きられる礼拝があるというメッセージになっています。ですから、今朝の説教の題には、「暗く悪い時代にも礼拝がある」としてもよかったと思います。主イエス・キリストの御心、御意志を理解することが生きる支え、慰め、そして力になります。そのとき礼拝があると語っています。
 礼拝の特徴がここにいくつかの言葉で語られます。「霊に満たされる礼拝」がまず最初です。悪い時代の中にも、いなそうであればいよいよ霊に満たされて礼拝に生きることができると言わんばかりです。そして「詩編と賛歌と霊的な歌に よって語り合う」と言われます。詩編と賛歌と霊的な歌は、旧約聖書の詩編というより、初代教会の共同の歌を指すと解釈されます。フィリピ 2 章のキリスト讃歌はその一つですし、テモテ一 3章16節にもキリスト讃歌が記されています。 これら教会の歌を共に歌うことで、語り合っている礼拝が言われます。そして「主に向かって心からほめ歌いなさい」と続きます。十字架に架けられ、死して復活した主イエス・キリストに向かって、心からのほめ歌を歌う礼拝です。こういう礼拝がどんな悪い時代にも生きる道を切り開きます。こういう礼拝によって、主の御心、主の御意志が何であるかが分かります。こういう礼拝によって、教会はどんな暗い時代にも耐え得る教会です。
 礼拝が主なるキリストの御意志が何であるかを知る場になり、人生の危機にあって信仰生活の養いの場になり、どう生きたらよいか、それを学び修得する場になるということでしょう。説教の責任を負う者としては、そういう礼拝になるように、それに相応しい説教の奉仕ができているかと反省させられます。しかし今朝の聖書は、特に説教がどうこうとは語っていません。言われていることは、「聖霊に満たされて」ということ、聖霊に満たされれば主キリストとの交わりがあります。同時に主にある兄弟姉妹との交わりがあります。それが詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合うと言われるわけです。
 「語り合う」とあるのは、礼拝のことでなくそれ以外の集会で、讃美歌を歌い、相互に語り合う集会のことを言っているのではないかと思われるかもしれません。礼拝の中で実際互いに語り合うことは一般にないからです。しかし、一緒に 讃美を歌うとき、一人一人がばらばらに孤独な礼拝をしえいるのでなく、共同の讃美歌によって信仰を互いに語り合っていると言ってもよいでしょう。礼拝には礼拝者相互の霊によるコミュニケーションがあると言い得るのではないでしょうか。そして「主に向かって心からほめ歌う」、それが礼拝であり、そういう礼拝があれば、時代がたとえどんなに暗い時代であっても、試練の人生にあっても、礼拝によって生きられるではないでしょうか。キリストの御心が何かをいつも身近に知って、主に向かって心からほめ歌う礼拝、そして聖霊に満たされて主との交わりに生き、主にある兄弟姉妹と共に歌う交わりの礼拝、それがキリスト教会の礼拝です。
 どんな時代と人生の困難の中にも、私たちには礼拝がある。そう言えます。コロナの経験の中でも、オンラインの礼拝でも、「私には礼拝がある」、そう言うことができ、今朝もそう思っているのではないでしょうか。
礼拝を語る今朝の御言葉の最後は、「いつも、あらゆることについて、父である神に感謝しなさい」と結ばれます。そしてそこに主イエスのフルネームが挙げられています。主は他でもない「わたしたちの主」です。主イエスであり、キリストです。「わたしたちの主イエス・キリストの名によって」と父なる神に感謝します。
 主イエス・キリストの名による礼拝はいつでも感謝の礼拝です。「感謝」と言えば、同じ言葉、エウカリスティアで「聖餐」を意味することもありました。私たちの主イエス・キリストを与えられ、主のすべてにあずかることのできる礼拝は、感謝です。その上、「いつも、あらゆることについて感謝しなさい」と聞けば、パウロの同じ言葉を思い起こす人は多いのではないでしょうか。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。フィリピの信徒への手紙にもそうあります。「私たちには礼拝がある」と いうことは、どんなことにも感謝ということであり、それはどんなことも自分一 人で悩まなくていい、いや自分一人で悩むことは止めなさいということです。思 い煩うことは止めなさいと言われています。礼拝があるということは、わたしたちの主イエス・キリストがいてくださり、主を遣わしてくださった父なる神がおられるということ、そしてその神にどんなことでも打ち明けることができ、聖霊に満たされて主を讃美することができる。その礼拝によってどんな暗い時代にも生きることができるということです。そういう礼拝を生きて、世に伝えていきたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神様。暗い時代の中にも、聖霊に満たされて讃美を歌い、主をほめたたえる礼拝に生きることができますことを感謝します。主イエス ・キリストの御心を理解するようにと御言葉に勧められました。主イエスの御意志を知って、主をほめたたえることができますように、また苦難にあっても時をよく用いることができますように、聖霊に満たされ共に讃美を歌う礼拝によって 養われ、信仰の歩みを力強く前進することができますように、導いてください。 わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

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