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銀座の鐘

「神のみ国に共に生きる」

説教集

更新日:2021年10月31日

2021年10月31日(日)聖霊降臨後第23主日 宗教改革記念日 主日礼拝  家庭礼拝 伝道師 藤田健太

マルコによる福音書10章13~16節

 11月第三主日のこども祝福家族礼拝に先立ちまして、子どもについて、また子供を通して大人についても考えさせられる聖書の箇所に耳を傾けたいと思います。
 時代や国によって子どもと大人の関係はさまざまですが、聖書の伝える子供理解は私たちの時代にも共感と訴えかける力を持っています。古代のギリシャやローマでは一般的に子供はあまり重視されなかったことで知られます。子供期間は人生の前段階であり、成人し、社会の構成員となってからが本当の人生の始まりであると理解されました。ローマ帝国が最も退廃した時期、生み棄てられた子供たちの声が路地裏に響いたという逸話は私たちを震撼させます。また旧釈聖書の中で時折言及されるカナンの住民たちが行った子供の犠牲も私たちの理解を絶するものです。もっとも彼らがそのような祭儀を行ったとされる歴史的な証拠が見つかっていない事にも注意は必要です。またこのような極端な事例だけで、一つの時代や一つの社会全体を理解することも避けるべきです。いつの時代にも、子どもは愛されてきましたし、子供の健やかな成長が、人々の営みの前提として理解されたことは言うまでもありません。

 それを踏まえたうえで、子どもについて、聖書は何を語るでしょうか?まず、子供が取り去られることは大きな不幸と考えられました。旧聖書ホセア書では、イスラエルの没落が子どもを失う譬えによって描かれます。「彼らからわたしが離れ去るなら なんと災いなことであろうか。緑に囲まれたティルスのように わたしはエフライムを見なしてきた。しかし、エフライムは自分の子供たちを 餌食として差し出さねばならない。」(ホセア 9:12-13)
 子どもたちは祝福された人生の“しるし”でした。詩篇 127編には次のようにあります。「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかにさいわいなことか。矢筒をこの矢で満たす人は。」(詩編 127 編 3-5 節)
 さらに子どもたちは平和の象徴でした。旧約聖書ゼカリヤ書ではエルサレムの回復の希望が新しい世代の勃興と共に語られます。「都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく。」(ゼカリヤ 8 章 5 節)最もこの箇所の直前に「エルサレムの広場には再び、老爺、老婆が坐すようになる それぞれ、長寿の杖を手にして。」とあるのを見逃してはいけないでしょう。完全なエルサレムの回復には、子どもだけでも、大人だけでも、男性だけでも、女性だけでもダメなのです。全世代が共に神様のご支配の中に安んじる光景が、新しいエルサレムの幻において必要不可欠なのです。

 本日の新約聖書マルコによる福音書もまたこのような聖書における子供理解の伝統に立ちます。イエスに触れていただくため、人々が子供たちを連れてきました。弟子たちはこの人々を「叱った」のです。あたかも、子供たちは神の国に入る資格がないかのように、神の国に入るためには成人して一人の大人として認められるのと同様、何らかの教育と訓練が必要であるかのように、です。そんな弟子たちをイエスはお叱りになりました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
 神の国に入るには何か特別な教育か資格が必要でしょうか?後の教会が歴史の中で整えて行ったように、信仰的な教育や訓練は神の国について理解を深めるうえで有益な手段です。しかし、それらは有益であっても、必要な資格ではありません。それでは、神の国に入るのに必要な要件とは何でしょうか?「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」子供を妨げた弟子たちは、むしろ子供のように「神の国を受け入れ」なければ、神の国に入ることはできないと言われます。子供だけを神聖視しているわけでも、大人が子供返りしなければ、神の国に入れないなどと言われているわけでもありません。神の国は「子供のように無力」なすべての人たち に等しく開かれることがここで言われています。私たちは神の国の門を自分の力でこじ開けることは出来ないのです。それはただ子供のように神を見上げ、子供のように神により頼む私たちの上に、神の一方的な恵みによって与えられるものであることが言われています。
 その意味で聖書は、子供と大人の間に本質的な区別を設けていないのです。私たちみなが神の前にあって、いわば無力な子供です。神に顧みられることによってのみ、守られ、養われ、温かな家の交わりに迎えられることがようやく可能となるのです。自分がそのような存在であることを自覚しなさいと勧められています。それこそ信仰者に相応しい謙遜な姿ではないかと指し示されているのです。

 大人がしばしば罪の虜となるように、子供もまた、罪の縄目から自由な存在ではありません。古代教父のアウグスティヌスという人は、「母親の乳房を慕い求める乳飲み子」でさえ、生まれ持った貪欲の罪を免れることはできないと言いました。子供をそんな目で見るのは、大人として配慮に欠けているでしょうか?私には、古代教父のこの発言は子供と大人が本質的に同じであることを理解する上でとても大切な視点であると思います。私たちは自らを理解する上で他者の「鏡」を必要としています。異なる世代の人々を見つめる時、私たちは私たち自身をより深く知ることができます。罪についても救いについてもより深く知ることができるのです。ですから、預言者が見た幻のように、新しいエルサレムにはあらゆる世代の人々がいなければいけません。子供だけでも、大人だけでも、神の教会は成り立ちません。
 子供にとって大人が将来の鏡であるように、大人にとって子供は過去の鏡です。子供にとって大人が反面教師となるように、大人にとって子供が反面教師となるのではないでしょうか。私たちは神様のみ前にあって共に不完全です。けれどもそれは決して不幸なことではないのです。弱く不完全な私たちの前に神様の愛のみ手が開かれます。神様のみ国の中で、共に主のみ名をほめたたえる幸いが私たちには与えられているのです。
 神様は「子供のように無力な私たち」を抱き上げ、手を置いて祝福してくださ います。大きな兄弟姉妹も、小さな兄弟姉妹も、神様が迎えてくださる家で共に 主を見上げ、主のみ名を讃美して過ごしましょう。

祈りましょう。
天の父なる神様。子供と、大人が共に主を見上げる道を指し示してくださいましたことを感謝いたします。教会に与えられた大切な子供たちを見つめつつ、私たち自身の姿をそこに顧みてゆくことができますように。今週一週間の歩みをお守りください。神様の子供として健やかな歩みを送らせてください。わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

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