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銀座の鐘

「それから、わたしに従いなさい」

説教集

更新日:2021年11月07日

2021 年 11 月 7 日(日)聖霊降臨後第 24 主日 召天者記念礼拝 髙橋 潤

マルコによる福音書10章17~27節

 「17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」
 主イエスは、「ある人」の質問の中心について答えず、主イエスへの呼びかけについて問題にしました。永遠の命を受け継ぐには、何をすれば良いのかという質問に対しては、答えず、主イエスへの「善い先生」という呼びかけの言葉を問題にしているのです。
 主イエスは旅に出る時だったので、門前払いしたのでしょうか。そうではありません。 主イエスは、走り寄り、ひざまずいてまでもして尋ねる、この人に対して、永遠の命を受け継ぐために最も大切なことを気付かせようとしているのです。この最も大切なこととは、21節の「あなたに欠けているものが一つある」と指摘して、伝えようとした言葉から理解する事が出来ます。21節の続きには「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 と書かれています。主イエスの前にせっかくたどり着き、ひざまずいてまでもして尋ねた「ある人」は、この主イエスの言葉によって気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまいました。「22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産 を持っていたからである。」やはり、主イエスは、この人を門前払いにしたのでしょうか。 結果的には、そうなってしまいました。しかし、主イエスは彼を門前払いしようとしたのではないのです。主イエスの御心は「21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」に示さ れています。主イエスは彼を見つめ、慈しんでいるのです。「慈しむ」とは、愛することです。主イエスは旅に出発する出鼻を邪魔されようとも、彼の姿勢に何か問題があろうとも、彼を「慈しんで」見つめてくださっているのです。
 私たちは、この聖句を通して、主イエスの対応が問題だとは言えないのではないでしょうか。愛するゆえに大切なことがここに記されているのです。主イエスは「永遠の命を得る」ために最も大切なことを教えているのです。
 この御言葉は、私たちに神の御前に立つ姿勢を整えることがいかに困難であるかを教えています。もちろん困難さだけを教え示しているのではなく、この困難を乗り越える道を指し示しているのです。私たちは、主イエスとともに、この困難さを乗り越える道しるべとして、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と の御言葉を与えられています。神によって何でも出来ることを信仰によって受け入れたいと思います。しかし、ここで主イエスが私たちにお語りになっている大切なことは、「ある人」も弟子たちもそして、私たちの誰もが乗り越えなければならない主に従うための大切な挫折です。気を落とし、悲しむことです。なくて良い試練ではないのです。この試練を簡単に乗り越えられると考えてはならないのです。私たちは、主イエスの御言葉の前に、この信仰上の挫折を最も大切な経験として受け止め、理解しなければなりません。この挫折をしっかり経験しなければならないのです。この挫折のない信仰は危険だからです。
 もし、主イエスがいとも簡単にこの人の問いに答え、永遠の命を与えたとしたら、どういうことになるでしょうか。この人は、主イエスに従うでしょうか。御言葉によって生きる道を進むでしょうか。主イエスに感謝の日々を送るかもしれませんが、それ以上のことはないと思われます。それより、いよいよ自己実現のために次に手に入れるものを探す日々をすすむことでしょう。すなわち、この人は神を信じる生活ではなく、神にお願いしてご褒美だけもらって生きようとしているのです。神を利用して生きる道です。すなわち、この人自身がどこまでも第一になる人生を送るのです。主イエスはそのような自己中心な神なき信仰、信仰の危機を知っているのです。ゆえに、神以外の財産にしがみつく姿勢から神を真実に信じる姿勢を与えようとされているのです。
 主イエスが弟子たちに教えている第1のことは、聖書に登場する「ある人」が理解している信仰、生き方、神との関係は、一度挫折しなければならないということなのです。この挫折を経なければ、主イエスを信じて従うことは出来ないからです。主イエスが「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と無謀ともいえる注文をしたのも私たちが主イエスに本気で従うことが出来るように、本物の信仰を与えるためなのです。 主イエスは、私たちを門前払いしようとしていません、そのことは27節の「27 イエスは 彼らを見つめて言われた。」との御言葉にあるように、主イエスが弟子たちを彼と同じように「見つめて」おられるからです。
 この人が自分自身の救いのために熱心になることは、大変素晴らしいことでしょう。しかし、気付かないところで自分だけの救いが中心になり、信仰を自分のアクセサリーとして身につけて満足することになってしまうのです。ここに信仰の落とし穴があります。
 私たちが主イエスを救い主と信じる信仰を与えられるということは、自分の富や経験にすがり続けることから自由にされ、神だけにお頼りして生きる道を踏み出すことなのです。 主イエスはそのことを教えるために「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と語り、この人が心から信頼し頼るべきは自身の財産ではなく、神に信頼することであることを示そうとしたのです。私たちは、財産をもっていなくても、本当に神にのみ信頼し神のみを神とすることを主イエスから問われているのです。この信仰の挫折経 験から私たちが学び取らなければならないことは、「ある人」も弟子たちもそして私たち もいかに自分中心な信仰を獲得しようとしてしまう者であるかということを知ることであり、そのような自分自身と決別し、真実に神に従う道を歩み出すことなのです。「それから、わたしに従いなさい」との御言葉は、私たちの「それから」を期待している言葉です。
 自己中心の信仰の姿勢でいる間は、私ならば主イエスから永遠の命の証明書をもらえるのではないかと勘違いする信仰生活です。「ある人」が主イエスに跪いたのは、主イエスに従うためではなく、主イエスから永遠の命の証明書をもらえなかったためでした。主イエスからいただけるものをもらったならば、主イエスは必要なくなってしまうのです。
 このような信仰の姿勢は、裏を返すと自分のような罪人は救われないと考える人とも表裏一体です。私たちがあの人は救われないと決めつけることと同じです。自分の評価を第1としているという意味で、立派な行いをしてきたと自負する者と根本は変わらないので す。神の評価ではなく自己評価を優先しているからです。
 神の御心を求める弟子たちに主イエスは語ります。「23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」とお語りになりました。大変難しいことなのです。神さまより財産にすがりついたまま神さまに助けを求め る姿勢から自由にならなければ、主イエスに従うことは出来ないのです。そうしなければ 自分自身が中心になり、神を中心にした信仰生活を送ることにつながらないのです。
 弟子たちは、この問題に気付き驚きました。「24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。 イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26 弟子たち はますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。」主イエ スの言葉によって弟子たちが真剣に考えた結果、口をついた言葉が「それでは、だれが救 われるだろうか」です。これは、大変大切な言葉です。私たちは、勝手にあの聖職者は救われるとか、あの人は教会のために貢献しているから救われるに決まっているとか考えるように、弟子たちも同じように考えていたのです。しかし、主イエスの御言葉を聞いて、 救いについての自分たちの判断が出来なくなったのです。これも、大切なことです。私たちの物差しや常識から考えたら、刑務所伝道とか少年院の教誨師活動など無駄なことにな ってしまいます。しかし、弟子たちの言葉を通して、「それでは、だれが救われるのだろ うか」という言葉が与えられ、神の御心を聞く姿勢が与えられるのです。これまでは、誰が救われるか自分自身の物差しで測って決めていました。しかし、主イエスの言葉によって、私たちが神さま抜きで勝手に救いについて決定権があるかのような無責任な発言をしていたことに気付き、悔い改め、途方に暮れるのです。「それでは、だれが救われるのだろうか」
 ここから真実の信仰生活が始まります。ここから主イエスに従う信仰生活が始まるのです。信仰生活の始まりで私たちが聞く御言葉は「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」という主イエスの御言葉です。人間の可能性ではなく神の可能性に生きる招きの詞をしっかり聞きましょう。主イエスは、永遠の命を得るということは、神の国に入ることだと私たちを招いてくださっているのです。
 本日は召天者記念礼拝です。召天者を記念することは、召天者を思い起こす事であると同時に、私たち一人一人の信仰生活をいかに生きるか神の示しに従いたいと願います。神の恵みを感謝し神の導きに信頼し、神の御前に立ちたいと願います。礼拝をささげる姿勢を整えて、天国の神の家族を思い起こしたいと思います。

祈 祷  天の父なる神さま。自己中心な信仰からあなたの命を生きる信仰へ導く主イエス の御言葉を感謝いたします。私たちが私利私欲に溺れるとき、真実な信仰に立ち帰ること が出来ますようにお導きください。「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」 と伝道を開始した主イエスの御跡に聞き従うことが出来るようにお導きください。
主イエスの御名によって祈ります。 アーメン