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銀座の鐘

「主イエスの道を歩こう」

説教集

更新日:2021年11月21日

2021年11月21日(日)聖霊降臨後第26主日 ・子ども祝福家族礼拝 家庭礼拝 伝道師 藤田 由香里

マルコによる福音書 10章46~52節

 <子どもと一緒に聞く家族礼拝の説教です>
 今日はマルコによる福音書10章48~52節からみことばをお聞きします。聖書は、世界中でいちばん翻訳されている書物です。その数2000語以上と言われます。新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。わたしが牧師になる勉強をした学校で、ギリシャ語の先生は、このバルティマイの記事は、マルコによる福音書の中でとっても大切なカギになる箇所だって力説されました。なぜ? それは、イエス様を信じて救われた人が、イエス様のみ跡にお従いするという福音を描いているからです。イエス様の救いの中心って何でしょう?そう、十字架と復活です。イエス様のご生涯というのは、実に、救いの十字架へと歩む道のりであったといえるでしょう。この十字架と復活の出来事って、どこで起こったでしょう?そう、エルサレムです。実は、このエリコの街のすぐあとのマルコ11章に目を向けてみると、イエス様がエルサレムに到着する「エルサレム入場」が書かれてます。つまり、今日の聖書のお話は、イエス様がいよいよエルサレムに入るその直前の時なんです。十字架刑のエルサレムに入る直前に起こったことが今日のみことばなんです。
 このお話のたいせつな特徴の一つがあります。それは、マルコ福音書は「バルティマイ」っていう名前を書き記していることです。並行する記事がマタイやルカにありますが「盲人」とだけ書いています、マルコだけ「バルティマイ」って名前を書いてます。この名前の意味は、「ティマイの子」です。これは、旧約聖書が書かれたヘブライ語・またイエス様の話していたとされるアラム語で「けがれの子」「罪の子」っていう意味です。こんな名前は普通はだれもつけないとおもいます。聖書は時々、物語に意味をもたせるためにつけなさそうな名前がついてることがあります。でも、今日のみことばで「罪にけがれているものの子」っていうバルティマイの名前は大切です。なぜならば、わたしたち人間には深いところにだれでも罪の汚れがあるからです。自己中心的になってしまったり、悪い思いをもったり、勘違いしたり、神様から離れたり、さまざまなことを聖書は汚れと呼びます。だから、まったくお心の汚れたことのない神のみ子イエス様しかわたしたちを救えないのです。救われる必要のある人の本質をバルティマイって名前は言い表しています。
 バルティマイは、エリコという町の道端でものごいをしていました。エリコは、月の街という意味で、オアシスであり、旅人たちが旅の途中で安らぐ町でした。イエス様一行がエリコに入って、出ていくとき、バルティマイはイエス様が来たということを耳にしました。バルティマイは、イエス様たちが歩く道の「傍らに」いました。「はじっこ」です。遠くからイエス様の話を耳にはしていました。そういう場所にいたのです。イエス様のことが気になっていました。助けていただけるかもしれない、そう思いました。そして、イエス様とお弟子さん、そして大勢の群衆がついてくる、エルサレムに向かうというとき、バルティマイは叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」イエス様の救いを求めていました。すると多くの弟子たちがこの人を叱って、だまらせようとしました。けれど、彼はなお叫び続けるのです。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」神様に向かって叫ぶというのは、礼拝したい、教会に行きたい人の叫びです。イエス様に出会いたいのです。
 お弟子さんたちは、少し前にも、イエス様のところに来る子供たちを叱って、イエス様に「わたしのところに来るこどもたちを妨げてはならない」といわれていました。今度はこのバルティマイを妨げようとしますけど、神の国はひとりひとりの小さな者を招いているのです。そこで、イエス様は立ち止まりました。「あの男を呼んで来なさい」と言いました。イエス様は、ご自分で直接バルティマイを呼ぶのではなく、間接的に弟子たちにお命じになって、彼を呼び寄せさせました。子供たちのときは、妨げてはならないといいましたが、今回は、弟子たちに、「わたしの名を呼ぶその人をわたしのもとに呼んで来なさい」と言いました。
 これは、言い換えるなら、わたしを呼び求めるその人を教会に、礼拝に招きなさいという伝道の言葉と言えます。詩編122編は、都に上る歌のシリーズのひとつです。そこでは、一緒に礼拝に行く人々、声を掛け合う人々の姿があります。こうあるのです。

「 122:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主の家に行こう、と人々が言ったときわたしはうれしかった。」

 イエス様を礼拝する弟子たちが、他の一人を招きます。「主の家に行こう」するとその人はうれしくなって足を礼拝へと向けるのです。一人、またひとりと続きます。
 バルティマイもそうです。とっても嬉しかったのです。だから、上着を脱いで、躍り上がってイエス様の元に駆けだしました。主の前に躍り上がるっていうのは、聖書では、礼拝の喜びを表現しています。とっておきの宝を与えられたのですから。

 礼拝に誘う時、弟子たちは、何と言って呼んだでしょう。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」って言いました。安心しなさい。とまず声をかけました。「主の家に行こう」という言葉にはいろいろな表現があります。皆さんなら、なんて声をかけますか。弟子たちはここで、「安心していいよ」と言ったのです。なぜなら、救いを与えてくださる方のところに呼ばれたのだから。すると、イエス様は、「何をしてほしいのか」と聞いてくれました。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と素直に言いました。そこで、イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになりました。
 ここで、イエスさまとバルティマイの会話がかかれます。わたしたちも、礼拝で神様と会話をします。キャッチボールをするようなものです。神様の招きや恵み・みことばを受けて、わたしたちも祈り、賛美し、自分をささげ答えます。そこにはこのようなキャッチボールがあるのです。
 そこで何が起こったの?イエス様のお言葉通り、イエス様を信じたバルティマイさんは救われました。信仰を与えられ、救われました。いつも自分と一緒に歩み、導いてくださるイエス様を知りました。心の目が開かれる、信仰の目が開かれました。ハッピーエンドの様に見えますが、最後に大切なひとことが書かれています。バルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従いました。」救われた彼の歩む道は、まだまだ続いていきます。信仰の目が開かれ、イエス様の御跡にしたがう道を進んで行きます。マルコによる福音書を書いた人は、この「道」という言葉を大切に書き留めました。今日の箇所には2回でてきました。はじまりにイエス様の道の「かたわらに」いたバルティマイが、イエス様の道の「中に」いるバルティマイになったと書かれます。イエス様を呼び求め、礼拝して、救いの中に入ったバルティマイは、もはや「けがれの子」ではなく「光の子」「神の子」です。それは、イエス様の道の中にいることです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)とある通りです。さぁ、わたしたちもイエス様の道を歩みましょう。「主に従い行くはいかによろこばしきみあとをふみつつ、共に進まん」というこどもさんびかがありますね。このよろこびは、神の国の喜びとして広がっていきます。主イエスを礼拝する道を共々に進みましょう。

 祈り 天の父なる神様、主のみ救いに招かれる喜びをお聞きしました。主の道の 傍らにいたわたしたちを主イエスに従う救いの道に招いてくださったことを感 謝します。これからも、主イエスにお従いする道を歩ませてください。離れてい ても、同じ一つの礼拝をお捧げしている恵みを思います。主を喜び祝う礼拝をま すます豊かに祝してください。わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、 お祈りいたします。アーメン。

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