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銀座の鐘

「ユダヤ人の王」

説教集

更新日:2021年12月26日

2021年12月26日(日)降誕後第1主日 家庭礼拝 協力牧師 近藤勝彦

マタイによる福音書2章1~12節

 今朝は、降誕後第一主日の礼拝です。マタイによる福音書 2 章、東方から来た 3 人の博士の箇所をお読みいただきました。この個所はクリスマス礼拝の箇所としても、また特に公現日(1月6日)のテキストとしても、繰り返説き明かされ、聞かれてきた箇所です。私も何度かこの個所で説教してきました。それでも一度も語ったことのない角度というものはあるものです。東方の博士たちが幼子である主イエスを「ユダヤ人の王」と呼んで探したことに、十分注意が払われてきたでしょうか。博士たちは主イエスを「ユダヤ人の王」と呼び、その方はどこにおられるかと尋ねました。ここにはマタイによる福音書があ伝えるメッセージの根 本的な特徴が見られると言われます。主イエスはユダヤ人の王であり、しかもユダヤ人に受け入れられず、かえって異邦人たちが御許に集められるとマタイ福音 書は伝えます。
 「ユダヤ人の王」とは、神の民イエスラエルの王ということです。なぜ「王」なのでしょうか。それは主イエスがキリスト、つまり油注がれた方、メシアであるからです。主イエスがメシアであることは、神による真の王であることを意味しています。ユダヤ人の王メシアの誕生を聞いて不安になったヘロデが、ユダヤ人の王はどこに生まれるかと問うたのに対し、律法学者たちは預言者の書に従って答えました。預言者ミカの書ですが、ベツレヘムから「指導者」が現われる。その指導者はイスラエルの牧者、つまり群れを養う羊飼いになると言うのです。主イエスが「ユダヤ人の王」であることは、メシアであり、神の民イスラエルを導く指導者、民を治める統治者、そして同時に民の羊飼い、真の牧者であるということです。
 これには主イエス・キリストはあなたにとってどういうお方かという問いがあるわけです。主イエスは私たちにとってどういうお方でしょうか。御言葉は主イエスは私たちのキリスト、つまりメシア、従って私たちの真の王、私たちを導く指導者、私たちを守る統治者、私たちを養う羊飼と、答えているわけです。
 しかし主イエスはユダヤ人たちによっては拒否されました。3節にある「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」という表現は、やがてユダヤ人たちが主イエスのメシアたること、王、指導者、羊飼いであることを受けれようとはしなかったことを意味します。やがて「ユダヤ人の王」は、主イエスの自称の言葉とされ、イエスに対する嘲りや罵りの評言になりました。それが主イエスの「罪状書き」にされました。主イエスの十字架の場面では、「ユダヤ人の王、万歳」「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」「イスラエルの王。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」など、さんざんな罵りの言葉になっています。主イエスの十字架の様は、ユダヤ人たちには決定的な「つまずき」になって、決して王であるはずはないものと思われました。ヨハによる福音書によると、十字架の上には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたと言われます。つまり、そう自称した犯罪者という書き方であり、「ユダヤ人の王」は恥辱の評言になりました。
 しかしマタイによる福音書は、東方の博士たちが示すように、異邦人の中からは、主イエスのもとに導かれ、主イエスを「真の王」として、「ひれ伏し拝む」人々が集められたと記し、そのような人々がさらに起こされると伝えます。例えば、博士たちに続いて、異邦人であるカナンの女は、イエスの前に表われ、そして近づいてひれ伏して、「主よ、どうか助けてください」と訴えます。彼女の娘が悪霊にひどく苦しめられていたからです。主イエスは、神の民の王、指導者にして牧者である王、私たちの救いのために御自分を救わず、恥辱とされた十字架も私たちの罪の代償として引き受け、そこから決して降りようとしない王です。
 ユダヤ人の王、つまりメシアである主イエスは、また、世界の王です。ですから旧約の預言者は、王なるメシアの前に「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」(イザヤ 60・6)と預言しました。博士たちの黄金と乳香はその実現で、真に王なる方にささげられます。そこからこの博士たちも東方諸国の王であって、三王礼拝が描かれている、その乗り物は馬とラクダと像だという話にもなり、ドイツのケルンの大聖堂は三王礼拝を記念する礼拝堂とされています。メシアであるイエスの誕生が大きな星の徴を伴ったことも、ユダヤ人の王キリストが世界の王であることを示していると言われます。ユダヤの星は土星ですが、それに対し木星はギリシャ神話の神ジュピターの名で呼ばれ、世界の王を意味します。ベツレヘムの星がひときわ大きく輝いたのは、土星と木星とが合わさった現象だと解釈され、そういう土星と木星とが合わさって大きな星に見える年が2,300年に一度起こり、主イエスの誕生の時もそれが起きたと言われます。そうした解釈はともかくとして、マタイが伝え、教会が信じる主イエスは、神の民イスラエルのメシア、ユダヤ人の王であり、同時に異邦人が礼拝する世界の王と言うのです。その王なるキリストが、私たちキリスト者一人一人の指導者・統治者、そして真の羊飼いです。この方は、ユダヤ人の王として、私たち一人一人の救済のために十字架を恥とせず、そこから降りようとなさらず、贖いの業を成し切った王です。ですからこの方、王なるメシア、羊飼いであるキリストのもとに身を寄せ、そば近くにいることは大きな喜びです。
 10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記されています。「その星を見て」とあるのは、自分では真の王である羊飼いのもとに行くことはできないからです。御子の下に行くには、神の導きを必要とします。導かれなくては、いまキリストが共にいて下さる信仰に身を置くことはできません。しかし神の導きがあるとき、この憐みの主、真の羊飼いなる王のもと、そのそば近くに身を寄せることができます。それは「喜びに満ちあふれる」ことです。ただ喜んだのではありません。喜んだという言葉に、原文は「喜びを」と付け加え、喜びを喜んだと記しています。しかしそれだけでない。「大きな喜びを喜んだ」、いなそれだけではない「非常に大きな喜びを喜んだ」と記されています。主の御許近くに導かれることは筆舌に表せない喜びの出来事、主イエスのそば近くに身を置く喜びに打ち震えたのです。
 主イエスが「ユダヤ人の王」であることは、神からのメシアとして民を養う真の羊飼いであり、世界の統治者なる王であって、私たち一人一人の守り手、導き手でありながら、私たちの救いのためには命を捨てるお方、肢体を処理する没薬を受け取るお方です。この方のそば近くにいることは類のない喜びにほかなりません。
 主イエスが「ユダヤ人の王」なので、博士たちは喜びに打ち震えながら、主の前に「ひれ伏して拝み」ました。主イエスが真の王なので、キリスト者は主の前にあって喜びに打ち震え、ひれ伏して拝みます。
 カナンの女も「イエスの前にひれ伏した」(15・25)と記されています。「ひれ伏した」のは「助け」を求めたのです。マタイによる福音書は、らい病人が「イエスに近寄り、ひれ伏した」(8・2)とも伝えます。そして「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言い、ある指導者は「イエスのそばに来て、ひれ伏して言った」。「わたしの娘がたったいま死にました。でもおいでになって手を置いてやってください」(9・18)と願ったのです。私たちにもあるのではないでしょうか。自分のこともですが、死に直面した娘のこと、子供たちのこと、神の民のこと、この時代のこと、世界のあちこちでの苦しみのこと。真の王なるイエス・キリストの憐みと、万物をも支配するその御力を信じて、私たちも助けを求めます。ひれ伏して拝みます。主イエスが真に羊飼いなる王だからです。
 その「ひれ伏す」中で、私たちは「喜びに」あふれています。主イエスが真のメシア、羊飼いなる王であることは、私たちを大きく変えて、どんな試練の中でも主イエスのそば近くで、喜びに満ちあふれながら助けを求める者にしてくれます。それがユダヤ人の王にして世界の王であるメシアを信じているということではないでしょうか。祈りましょう。

 憐れみに富みたもう天の父なる神様、ユダヤ人の王イエス・キリストを私たち の主、世界の王として遣わしてくださいましたことを感謝いたします。東方から の博士たちが喜びに満ちあふれながら、主の前にひれ伏しましたように、私たち も主の前にひれ伏して願いする者とならせてください。また、そこに希望を持っ て、どんなときにも主のみそばにある喜びに生きることができますように。新し い年も教会の歩みが支えられ、主イエス・キリストを証し、宣べ伝えていく群れ であることができますように、王なる主イエスの御支配と豊かに注がれる御霊に よる導きとが与えられますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りい たします。
アーメン。

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