銀座教会
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銀座の鐘

「平和の主と共に」

説教集

更新日:2022年01月09日

2022年1月9日(日)公現後第1主日礼拝 家庭礼拝 副牧師 藤田 健太

マルコによる福音書11章1~11節

 主イエスの地上の生涯における最後の七日間の始まりを告げるのが本日の箇所で
す。「一行はエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニ アにさしかかったとき」とあります。最後の七日間、主が毎朝欠かさず祈りをささげ た「オリーブ山」は目に見える距離にあります。そこは主が地上の生涯の最後の日々 にお定めになった祈りの場所でした。そこにさしかかったとき、主は二人の弟子たち を使いに出そうとして言われたのです。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります』と言いなさい。」
 一般に、この場面は預言者ゼカリヤに与えられた神の言葉の成就として知られてい ます。ゼカリヤ書 9 章 9 節にある預言は、来るべきイスラエルの統治者が「平和の王」としてやって来ることを告げています。ゼカリヤ書 9 章の預言は、当時の世界を席巻したアレクサンドロス大王の軍事遠征のルートをなぞっているとも言われます。神の言葉が小アジアから、シリア・フェニキア、ペリシテのペンタポリス(五つの町)まで南下し、遂にはエルサレムにまで辿り着くさまを伝えています。ゼカリヤの預言がアレクサンドロス大王の東征のルートを忠実になぞるだけであったなら、目指す目的地はエジプトであったはずです。しかし、ゼカリヤの預言の中でエジプトはまったく言及されていません。代わりに、エルサレムに入場なさる主なる神様が次のような言葉で伝えられます。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和を告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てまで及ぶ。」(ゼカリヤ 9:9-10)―彼のアレクサンドロス大王は、ブケファラスと呼ばれる愛用の軍馬に跨って先陣を切ったことで知られます。ゼカリヤ書に語られる「王」の姿は世界の覇者たらんとする大王の姿とはまるで真逆の姿を伝えます。軍馬ならぬ、子ろばに乗った「平和の王」の姿です。自らの武力ではなく、「神に従い、勝利を与えられた者」です。そんな彼によって「戦いは絶たれ 諸国の民に平和を告げる」とあります。エルサレムに入場された主イエスはゼカリヤに与えられた「平和の王」の姿を忠実になぞるお方でありました。
 本日のエルサレム入場の場面と関連付けられるもう一つの聖書箇所があります。それは創世記49章10節以下です。これは、イスラエルの名をもつ族長ヤコブが生涯の最期に息子たちを呼び寄せてうたったとされる詩文の歌です。一方、この歌は彼の息子たちに由来するイスラエルのそれぞれの部族の運命とその役割を伝える預言にもなっています。49章10節以下は、その中でも「ユダ」に関する預言の言葉です。「王笏はユダから離れず 統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。彼はろばをぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどうの汁で洗う。彼の目はぶどう酒によって輝き、歯は乳によって白くなる。」(創世記 49章10節以下) -「ユダ」における「王」の統治と「ろば」の言及が本日の箇所と共通します。一方 ヤコブの預言では、「彼はろばをぶどうの木につなぐ」となっていますが、主イエス はむしろ、ろばの軛を「ほどいて」、御自身その背にお乗りになった点が異なります。「ろばをぶどうの木につなぐ」のは豊かな祝福の表現であって、否定的なニュアンスが語られているわけではありません。それにも関わらず、エルサレムに入場なさる主イエスが「ろばをほどいて」、その背にお乗りになるお姿は私たちの心を打つものがあります。ヤコブの預言の中では、王笏をたずさえ、ろばを木につなぐのはユダであって、主ではありません。エルサレムにおける主のご入場は、人間であるユダの軛に繋がれた王権を、主なる神ご自身が解き放ち、あるべき場所に返す姿を伝えるものではないかと思わされます。世界のまことのあるじは「平和の王」である主なる神ご自身であるということです。「彼の支配は海から海へ 大河から地の果てまで及ぶ」とゼカリヤ書にある通りです。主イエス・キリストによるエルサレム入場のご様子はゼカリヤによる「平和の王」の預言と、ヤコブによる祝福の言葉の両者の実現にほかなりません。

 エルサレムに御入場される主を迎えるため、「多くの人が自分の服を道に敷き、ま た、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」とあります。王が 王座に向かう道の途上に民衆が服を敷く慣習は列王記下 9 章 13 節に伝えられます。列 王記の箇所で迎え入れられるのは、謀反を起こした王「イエフ」でした。人間の王権 のはかなさと共に、自らの王をいとも容易く取り違える人間の危うさを伝えるエピソ ードとしても印象的です。偽の王と自分たちの真の王を誤認する人間の弱さは主のエ ルサレム入場のエピソードにも引き継がれます。「ホサナ。主の名によって来られる 方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと 高きところにホサナ。」―声を挙げて祝った民衆の期待は「我らの父ダビデの来るべ き国」に向けられていました。民衆が抱いていたのは純粋に政治的な期待であり、主 が宣べ伝えた「来るべき神の国」に向けられた期待ではありませんでした。主イエス をお迎えする歓呼の声が怒号となって、十字架の上に向けられるようになるのは本日 の場面から七日目のことです。真の神の子を十字架にかける民衆の罪が本日の箇所ですでに顕わにされていると見てよいでしょう。 人間による誤解や間違った期待があるにも関わらず、本日の箇所で描かれているのは、間違いなく、神の御業としての「平和の王」の到来です。人間の誤れる理解や罪 にも関わらず、まことの神の支配の始まりが本日の箇所には確かに描かれています。 主イエス・キリストのエルサレム入場は七日後に待つ十字架上の「死」に向けて進ん でゆきますが、その日は私たちが犯したあらゆる罪からの赦しの時、救いの時です。 主イエス・キリストが打ち立ててくださった絶対的な「平和」の序曲が本日の箇所か ら始まっています。新年を迎えた私たちの歩みが、主の打ち立ててくださった「平和」 の内に守られますよう願います。
祈り
天の父なる神様、新しい年の歩みが始まり、降誕後第3主日の礼拝の時が与えられ たことを感謝いたします。主が打ち立ててくださった平和を胸に、この年も教会で神 様を愛し、隣人を愛して過ごすことができますように。神様がお与えくださった主に ある平安を支えとして、主と共に神の国の門を目指して歩みを進めることができます ように。今年一年の教会の歩みをお守りください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン