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銀座の鐘

「神のものは神に返しなさい」 

説教集

更新日:2022年01月23日

2022年1月23日(日)公現後第3主日礼拝 家庭礼拝  牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書12章13~17節

 ある人々が主イエス・キリストを陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人々 を遣わしました。このファリサイ派とヘロデ派という宗教と政治の力をとりまとめて、主イエスのところに派遣した「人々」が誰であるのか、マルコによる福音書には記されていません。主イエスを陥れる策略を練った黒幕はその姿を隠しています。しかし、この「人々」がファリサイ派とヘロデ派を説得して協力関係を作ったことは間違いないでしょう。この両者をまとめ上げたということは、単なる思いつきや成り行きではなく、当時の宗教的な権威と政治的な権力を束ねる実力をもっていたことになります。主イエスに立ち向かうための盤石の体制を整えて、彼らが主イエスに襲いかかったのです。大変不気味で恐ろしい人間の罪の深さと闇が支配していたのです。
 本来、ファリサイ派は、当時のローマ帝国の支配に対して服従していたのではありません。彼らがローマ帝国という異邦人の権威を認めて、喜んで自発的に服従するような姿勢を見せることは考えられません。ゆえにヘロデ派と簡単に手を結ぶとは考えられないのです。ファリサイ派の人々は、神殿の権威を重んじ、神殿の境内ではローマ貨幣を用いることを許可しませんでした。彼らは両替商を雇い、神殿に入る人々に対しては、ローマ貨幣をユダヤの貨幣に両替させていました。そのようにしてユダヤの自己主張を強烈にしていた人々なのです。しかし、彼らは、今、対主イエスの戦いに際して、自らの信仰と主義主張を曲げてローマ帝国の権威に服従するヘロデ派と手を結び、協力関係を築き、主イエスの前に立ちはだかっているのです。
 ヘロデ派も同様です。彼らは、これまでエルサレム神殿を中心としたユダヤの宗教的な権威に対しては介入しないという姿勢を崩すことはありませんでした。ユダヤ教の神殿活動を認め、信仰生活を容認していました。あえて、神殿に介入することになった理由は何だったのでしょうか。「人々」がヘロデ派に対して、主イエスはローマ帝国の政治に対して反乱を起こしかねない注意すべき人物という説明をしたのではないかと思わされます。どのような説得がなされたのかつぶさに知ることは出来ませが、ヘロデ派はファリサイ派と手を組み、主イエスとの戦いに参戦する決定をしたのです。この両者を対主イエスの戦いに参戦させた力は、前代未聞の当時の人々の誰もが驚く想像を超えた事態でした。まさに驚くべき出来事が起こったのです。エルサレムの宗教的な力と政治的な力が結集されて、主イエスに襲いかかっているのです。主イエスに従っている人々にとっては、絶体絶命のピンチと思われました。当時のこの世的な力が結集して主イエスを失脚させる計画を綿密に練り実行しているのです。

「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを 知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからで す。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていな いでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
 第1に、彼らは主イエスへ「先生」と呼びかけました。主イエスを失脚させようとしていることを隠して、うわべは丁寧なようで、実は尊大である姿勢だったのです。 「あなたは真実な方」「人々を分け隔てない方」「真理に基づいて神の道を教えてお られる方」と心にもない言葉を告げています。ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々 は、目的のためには手段を選ばない姿勢だったことが読み取れます。宗教的な権威と 政治的な権力が目的のためには手段を選ばなくなってしまうほど、主イエスを恐れて いたことが分かります。神の前で人間の知恵と罪が表裏一体になっているのです。そ の上で、主イエスを失脚させる決定打として練りに練った質問をしました。
「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
 税金を納めることはヘロデ派の責任範囲です。律法判断はファリサイ派の責任です。 この質問の中心は律法に適っているか、税金を納める基本姿勢についての問いです。 この質問の内容に、ファリサイ派とヘロデ派が結託していることが表れています。
 主イエスはこの質問に対して正面から受けて立っています。主イエスのお姿は、この世の知恵と罪に対して冷静かつ誠実に応対しています。この地上の人間の悪の力が結集して襲いかる時にも、私たちに対して、まっすぐに受けて立つ主イエスのお姿を私たちはしっかりと心に刻み込みたいと思います。彼らの前に立つ主イエスは、「彼らの下心を見抜いて」おられました。主イエスは、この地上において最も力があると思えるような権威や権力の前にあって人々の下心を見抜くお方であることを忘れてはならないのです。
 主イエスを陥れようとした人々に対する主イエスの第一声は「なぜ、わたしを試そうとするのか」です。主イエスは美辞麗句を重ね、慇懃無礼な質問者に対して、恐れおののくことなく、冷静に、ファリサイ派とヘロデ派のそれぞれに対する的確な答えを語られるまえに、「なぜ、わたしを試そうとするのか」と聞きました。主イエスはマタイによる福音書4章で荒れ野でサタンの誘惑に対して、旧約聖書申命記6章の御言葉をもちいて「あなたの神である主を試してはならない」とサタンを退けました。
「なぜ、試そうとするのか」と聞いたファリサイ派の人々は、神を試していることを 突きつけられています。言い換えるならばサタンに対する言葉で返事をしたのです。「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」とは、ローマ皇帝の肖像が刻まれたローマの貨幣を持ってくるように命じたのです。ヘロデ派に対しては「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と語り、ファリサイ派に対しては「神のものは神に返しなさい」と返答しました。この主イエスのご命令の前では、宗教的権威も政治的権力も主イエスを陥れる力はほど遠いことが証明されました。地上の権威と権力では主イエスを彼らの落とし穴に落とすことは出来ませんでした。主イエスは「言葉じり」をとらえられることなく、冷静に返答しました。もし、皇帝に税金を納めることは律法に適っていると応えたら、ファリサイ派は律法の専門家として黙っていなかったことでしょう。まさに言葉じりを捕らえて、締め上げようと準備していた罠にはまったことでしょう。反対に皇帝に税金を納めることは律法に適っていないと応えたなら、ヘロデ派の人々によってヘロデ王の前に連行され、締め上げられたことでしょう。
 しかし、主イエスはそのような罠にはまることなく、見事にこの悪意に満ちた質問に応えたのです。当時のユダヤの社会では、「ユダヤの貨幣」と「ローマの貨幣」が使い分けられていました。神殿において献げる神殿税は、ローマ貨幣をユダヤ貨幣に両替して献げていました。人頭税というローマへの税金は、ローマ貨幣で支払っていました。そのように二つの貨幣を使い分けることが当たり前になっていました。そのような社会で日常生活を過ごしている人々に対して、主イエスの答えは、見事な応えと驚いて終わらせることが出来ないのです。主イエスの言葉を聞いた後、御言葉を聞く前と何も変わらないで貨幣を使い分ければ良いということになるのでしょうか。
 私たちはこの御言葉を読んで、イエスさまお見事と手をたたいて喜んで済ませてはならないのです。この主イエスの御言葉の前に私たちはしっかり立ち続けなければならないのです。「神のものは神に返しなさい」という主イエスがお語りになった御言葉に私たちが誠実に冷静に応えなければならないのです。
 神に返さなければならない「神のもの」とは、何でしょうか。神のものを神に返す生活とはどのような生き方なのでしょうか。ローマ貨幣とユダヤ貨幣を使い分けるだけでは解決できない神からの問いを私たちの人生の問いとして受け止めなければならないのではないでしょうか。
 マルコによる福音書は、本日の御言葉の後、18節以下でサドカイ派の人々が主イエ スの難問をぶつける問答を記しています。その次に、一人の律法学者が主イエス「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねる記事が続きます。そして、神殿において献げられるどんな献げ物やいけにえよりも神を愛することと隣人を愛することが優れているという主イエスの律法解釈が紹介されています。
 「神のものを神に返す」とは、神を愛することであり、隣人を愛することなのです。 主イエスは、ファリサイ派とヘロデ派が手を組んだ彼らに対して、「神のものを神に返す」すなわち、神を愛することと隣人を愛することを律法の掟として命じたのです。
私たちは、この主イエスと悪意に満ちた人々の問答を傍観者として読んで聖書を閉じてはなりません。「神のものを神に返す」ことを心に刻み込んで、巨大な悪に対峙して勝利した主イエスに従いたいと願います。すなわち、「神のものを神に返す」という神を愛し、隣人を愛する、神の愛の交わりへ招きとして受け止めたいと思うのです。悪意に対して神の愛の掟をお命じになる主の御前に立ち続けたいと願います。