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銀座の鐘

「最も重要な掟」

説教集

更新日:2022年01月30日

2022年1月30日(日)公現後第4主日 主日礼拝 家庭礼拝 副牧師 藤田 由香里 

マルコによる福音書12章28~34節

 本日示されました聖書箇所は、エルサレム神殿で主イエスが人々に教えられている
時の一場面です。この前の場面では、祭司長、律法学者、長老たち、次にファリサイ 派、ヘロデ派、そしてサドカイ派の人々が来て、次々に主イエスに質問を投げかけて います。その一つ一つに、主イエスは立派にお答えになり、人々は「驚き入」(マル コによる福音書12章17節)りました。
 そこで、彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出て、主イエスに尋ねまし た。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」律法には、「~してはいけな い」という356の禁止事項と、「~しなさい」という248の積極的に守るべき掟とがありました。合計約604もの戒めがあり、律法学者はこれらを熱心に探求していたのです。律法と律法の間にも重要度に差がありました。律法の中には、他の律法を規定するようなより根本的・本質的な律法がありました。十戒が存在しているように、ある律法は主たる律法であって、他の律法が従属するような関係もありました。一つ一つの掟の関係は、律法学者たちも研究し、どの掟がより重要であるか、根本的であるかは彼らにとって大きな関心事でありました。
 どの掟が最も重要であるのかという律法学者の問いに対して、主イエスはお答えに なりました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
 イエス様は、はっきりお答えになりました。その約600ある神の聖なる律法の内に、最も重要な第一の掟と第二の掟がある。ここで、主イエスは申命記6章とレビ記 の19章を引用されるのです。

 まず申命記6章4節は、「シェマー イスラエル(聞け、イスラエルよ)」という有名な言葉から始まります。会衆を言葉に集中させる呼びかけで始まります。6章の冒頭は、説教のようであると読まれることがあります。この申命記6章の説教的展開で主題とされるのは、十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。この第一の禁止事項の戒めが、申命記では、「6:5あなたは心 を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と積極的戒めとして表現されています。父なる神のふところから来られ、父の御心をご存知の主イエスが最も重要な掟であると選んだのは、あなたの神を愛するという掟でした。それも、あなたの全てを尽くしてあなたの神である主を愛せよ、感情だけでなく、頭でだけでもなく、あなたの全体をもって、主を愛しなさい、これが第一の掟です。まずは、他のものを神としないことです。エレミヤの預言には、この第一の戒めから離れ無数の偶像を造り出したユダの民への主の呼びかけがありました。「ユダよ、お前の神々は、町の数ほどあるではないか」(エレミヤ書 2章28節)けれども、主は次のように賛美されます。「神々の神、すべての王の主」(ダニエル書2章47節)
 神さまは、わたしたちが離れてしまっても、懐を広く待っていてくださる、それだ けでなく、進みでて迎えてくださる、もっといえば、探してくださるのです。主はそのような羊飼いです。主がまず私たちを愛してくださっています。それは、神のなさ る底知れぬ愛です。主がお与えくださった恵み、どのような恵みをわたしたちは受け て来たでしょうか。申命記6章は、続く箇所で、神のみ業を思い起こすように、神様 がわたしたちを満たしてくださって来たことを忘れないようにと呼びかけます。神さ まがわたしたちに下さった最も大きな恵みは、主イエス・キリストご自身です。十字架の赦しと満ちる恵みです。
 感謝の応答として、神様が私たちに求めておられるのは、信仰です。申命記 6 章は、「信仰の宣言」という風に読むことができると言われます。主イエスが教えてくださること、最も幸いなことは、信仰に生きる喜びです。このお方に信頼し、素直により頼み、喜びと讃美に生きることです。そして、私たちもまた信仰の宣言をします。
 申命記6章の説教に続く言葉は、「神の言葉を子どもたちに教えなさい」ということと、「神の言葉を覚えなさい」ということです。あなたが神様から受けたものを人々に手渡しなさいと言われています。聖なるものは、この世にあって一人の救いだ けで完結しません。第一に神を仰ぐことにむかうことで、自然に隣人へと向かいます。

 その最たることとして記されるのは、まさにイエス様が挙げておられる第二に重要 な戒めです。レビ記 19 章の言葉、自分自身を愛するように隣人を愛せよ。
 主イエスが引用された律法『隣人を自分のように愛しなさい。』は、レビ記19章 の引用です。レビ記19章は、神聖法集に含まれます。レビ記19章2節にこう言わ れています。「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたち は聖なる者となりなさい。」(レビ記19章2節)つまり、「隣人愛」を含むレビ記 19章の全体は、聖なる者としての務めが記される律法です。
レビ記19章に記される律法の中には、それぞれ相互に関係性があるものがあります。例えば、「19:3a 父と母とを敬いなさい。」「19:32 白髪の人の前では起立し、 長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。」は、父母を敬うことから年長者を敬うことへと対象が拡大されています。そのように、「19:18b 自分自身を愛するように隣人を 愛しなさい。わたしは主である。」この掟も関係する掟があります。それは、19章 34節です。「19:34 あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」 隣人を自分のように愛しなさいという掟は、34節で具体化された掟が書かれます。 あなたたちもかつて寄留者であったのだから、あなたたちのもとの寄留者を自分自身のように愛しなさい。このようにして、隣人を愛するそのことの具体例が載っています。このようにして、律法と律法の間にも、関連し合いながら、範囲が拡大しているもの、抽象性の高いものから、具体的なものまであります。ですから、使徒パウロが語ったように、神を愛する聖なる者の生き方は次のようになります。
「13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマの信徒への手紙)

 モーセとイスラエルの民がシナイ山に着いた時、主は次のように語られました。「あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19:6)
 イスラエルの民は、聖なる者とならなければなりませんでした。それは、神様が聖 なるお方であられるからです。この神の民へのご命令は、「イミタチオ・デイー」< 神の模倣>として表現できます。そこで、キリスト者は「イミタチオ・クリスティー」 <キリストに倣いて>となります。つまり、隣人を自分のように愛しなさい、この掟 もまた、聖なる者として、また神に倣うという意味があります。

 本日の箇所で、律法学者は、主イエスのお答えに同意し、この二つの重要な掟がど んな献げものよりすぐれていると言いました。すると、主イエスは、「あなたは神の 国から遠くない」という少々遠回しな表現で答えられました。律法学者は、主イエス を「先生」と呼びかけ、理解と敬意はありました。けれども、あと一歩、神の国に入 るには、「主よ」と呼び掛け、彼の「全体をもって」神を愛し、自らを献げる必要が ありました。信じて自分自身を主にお任せするのです。けれども、キリストと出会っ た律法学者は大切な一歩を踏み出しているのです。
 聖なる者としての生活の中心は、礼拝です。礼拝生活の中で、聖なるものとされ、 神に招かれ、出会い、み言葉をいただき、悔い改め、赦され、祈り・祈られ、1週間 の力を頂きます。礼拝を中心として生活に行き渡る信仰者の献げる生活です。そこで、 パウロの次の言葉を聞いて終えたいと思います。

「 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の 体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの なすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)

 祈り 天の父なる神様、主の御前に進み出るわたしたちに、信仰に生きる喜びを与 え、礼拝の恵みをお与えくださっており感謝いたします。まず、ご自身をお献げくだ さった主イエスを覚え、私達もまた御前に立ち、わたしたち自身をお献げしたいと願 います。主を愛し、また、主イエスがなさったように、自分自身のように隣人を愛す る歩みがわたしたちの生活に満ちますように。主イエスの御名によって。
アーメン。