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銀座の鐘

「主イエスは見ておられる」

説教集

更新日:2022年02月06日

2022年2月6日(日)公現後第 5 主日 主日礼拝 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書12章41~44節

 主イエスはどこにおられるでしょうか。そして、何を見ておられるのでしょうか。 Christ is the head of this house the unseen guest at every meal the silent listener to every conversation (キリストはこの家のかしら、すべての食事の見えざる客にしてすべての会話の無言の聞き手)と書かれた壁掛けをご存じでしょうか。キリストは私たちの食卓の会話を静かに無言のまま聞いておられるというのです。困ることはないでしょうか。
主イエスは神殿の境内地で「賽銭箱の向かいに座って」おられます。弟子達と共に エルサレム神殿の中にある賽銭箱の前に座っているのは主イエスと弟子達だけでな く、群衆が神殿で治められる献金を見学しているのです。次の人はすごそうだとか、 群衆のなにげない会話を聞きながら、主イエスは弟子達に語りはじめました。
 私たちの日常生活も、多くの人々の間で生活しています。群衆の一人として生きています。皆が驚けば一緒に驚き、皆が悲しむことを共に悲しんで生きています。群衆の一人として現代社会の一員として生きています。そして、毎日、報道されるニュースに反応して様々なことを思うままに話しています。その会話をキリストはお聞きになっています。賽銭箱は聖書協会共同訳では賽銭箱ではなく「献金箱」になりました。
群衆が賽銭箱に注目していました。金持ちが賽銭箱にお金をたくさん入れるのを楽しみに見学しているのです。神殿の中の婦人の庭の壁を背にしてラッパの形をした、13個の容器が賽銭箱でした。賽銭箱の近くに祭司が献金指導をしています。献金の目的と金額を聞きます。律法で定められた事による献金については適正な金額であるかどうか確認します。また、ローマ貨幣ではなく両替された神殿用の貨幣であるかどうかの確認も祭司の仕事でした。
 お金持ちと祭司のやりとりなどもすべて群衆が注目して聞いていたのでしょう。祭司をはじめ群衆の多くはラッパの形の賽銭箱にたくさんの神殿貨幣が投げ入れられる音を聞いて、それぞれ感想をもらしていたのでしょう。神殿におけるいつもの光景ということだったと思われます。
しかし、多くの人々が献金の額に応じた貨幣がラッパを通る音に関心を寄せて見ているのに対して、主イエスは金額ではなく、献金者に注目していました。主イエスの反応は金額ではなく、献金者の祈る姿勢を見つめているのです。
43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

「はっきり言っておく」とは、これから言うことは確かであるという意味でしょう。ギリシャ語の「はっきり」という言葉は、「真理」という言葉と深い関係にあります。神殿の境内で賽銭箱を見学している中に真理が見えると語り始めたのです。
群衆や弟子達が見て感じていることと主イエスが見抜いている現実とは、どこが違うのでしょうか。同じ光景を見つめながら、群衆が見ているやもめと主イエスが見つめているやもめはどこに違いがあるのでしょうか。皆でやもめに同情しましょうというのではありません。問題はやもめに対する愛のまなざしがあるかないかではないのです。なぜならば、マルコによる福音書は本日の御言葉に続いて記されている言葉からその理由が知らされていると思うのです。マルコによる福音書13章1節以下、1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
 主イエスは何を見ているのでしょうか。神殿の境内を歩きながら、弟子達の一人が「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と語ります。私たちも同じような立派な建物を見たら同じように反応するでしょう。金持ちとやもめの献金を見ても評価の仕方はそう変わらないでしょう。しかし、主イエスは立派に見えても崩れ落ちるものを見抜き、貧しく見えるやもめに崩れ落ちない真理を見ているのです。
弟子たちをはじめとして群衆のほとんどが金額の多さで評価していました。しかし、主イエスはレプトン銅貨(1枚は一日の賃金の128分の1)2枚、現在の価値では 50円玉2枚とか100円玉2枚位をささげた、献金者の一人であるこのやもめこそがだれよりもたくさん入れたと語りました。ひねくれて語ったのではないのです。
献金額が全財産の何%かという問題でもないのです。主イエスはこのやもめの姿の中に献身の真理を見ているのです。立派そうに見えるお金持ちの献金や立派に見える建築物などよりも遙かに堅固な内実をやもめの姿に見ているのです。どんな地震が来ようとも崩れ落ちることのない神の恵みが見えているかどうか、弟子たちの反応を確かめようとしているのです。このやもめが献げて祈る姿に、立派な石が積まれた神殿より堅固なものを見抜いておられるのです。私たちは見えているでしょうか。
主イエスは私たちを見ておられます。私たちの献身の祈りを聞いておられます。私たちがどんなに立派に見せようとも私たちの中にある崩れてしまうものを主イエスはご存じです。しかし、私たちの内側に、崩れることのない祈りがあるならば、あのやもめを見抜いたように、主は私たちの内なる信仰を見抜いてくださるのです。
 「貧しい」(プトーケー)という言葉は経済的な貧しさを現します。しかし、経済的な貧しさが人にもたらすのは、卑屈になったり、人生を諦めたり、人を恨んだりすることだけではないのです。このやもめのように主に望みをおき、生活費のすべてを賽銭箱に入れて神におすがりする貧しさもあるのです。主にのみ望みをかける姿勢です。貧しい者の幸いが指し示されているのです。私たちが格差社会で知る貧しさは、 見捨てられた貧しさ、神にも見捨てられた貧しさです。しかし、主イエスは貧しさの 中に福音の真理が伝えられていることを伝えます。神はやもめを見捨てていないこと を伝えます。このやもめこそ神の愛に包まれていることを知らせているのです。
 ルカによる福音書6章20節「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。 21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」
 主イエスが「生活費を全部入れたから」とお話しになりました。「生活費」とは、「人生」と訳すことができる「ビオス」という言葉です。自分の力が尽きたところで、神に生かされる人生にかけている姿を主イエスは見抜いて下さるのです。
主イエス・キリストは弟子たちに言われた。マルコによる福音書8章34〜35節。
「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」とお語りになりました。
主イエスは、特別な愛情でこの人が「やもめ」だから、社会的に弱い人だから同情したのでしょうか。そうではないと思うのです。主イエスは、このレプトン銅貨をささげたやもめが神に向かって祈り、献身のしるしとして献金をささげる姿勢に真理を見たのです。この献身の姿にやもめの正体を見たのです。この姿にこそ立派な神殿にまさる、堅固で真実な立派な信仰を見てくださるのです。
主イエスは「わたしに従いなさい」と語られます。自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと、愛のまなざしをもって招いて下さいます。私たちは自分の十字架が重く、転びそうになります。しかし、私たちに先立って主イエスが十字架を負われているお姿を思い起こすことができるのです。殉教者達は自分の十字架を背負いながら、主イエスを見続けることができました。私に従ってきなさいとの主の声を聞いて、主イエスに見つめられていることを信頼して、主イエスの十字架に従ってまいりたいと願います。
主イエスは私たちのために十字架にお架かりになりました。自分の十字架を負って主に従う者こそ、キリスト者でありキリスト愛に生かされている者です。信仰生活とは、主イエスに見つめられて生きる道です。復活の主イエスに見つめられていることを覚え、悔い改めつつ、主イエスの眼差しを感謝して喜ぶ生活を進めていたいと願います。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。主イエスがあのやもめに注目し、やもめの信仰を真実な信仰として受け止めて下さった御言葉を感謝いたします。あなたに見つめられていることから逃れたくなることもあります。預言者ヨナのように逃れられないことも知っています。主の眼差しによって見抜かれていることを覚え、献身の祈りを献げ、主と共に生きる信仰の道をお導きください。主の御名によって祈ります。アーメン