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銀座の鐘

「キリストが戸口に立たれる時」

説教集

更新日:2022年02月13日

2022年2月13日(日)公現後第6主日礼拝 家庭礼拝 副牧師 藤田 由香里

マルコによる福音書12章28~37節

 今週は、マルコによる福音書13章に入りました。エルサレム入城、神殿での教えを一通り終えた後、今日は、「終末」について語られているマルコによる福音書の小黙示録と言える箇所です。13章の冒頭にあるように、主イエスが神殿の境内を出て 行かれる時、弟子たちはエルサレム神殿の壮麗さを褒めました。しかし主イエスは言われました。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13章 2節1b)これは、紀元後70年にこのエルサレムの第二神殿が破壊されることを言っていると読まれますが、弟子たちはこの時点では何もわかりません。そこで、尋ねました。「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(13章4節)このようなやり取りの上に、主イエスは、弟子たちに「終末」についての教えを語ります。
 そこで、主イエスは終末には様々な「徴」があると言われます。それは、「偽預言 者の出現」(13:6、22)「戦争(13:7)・争い・地震・飢饉(13: 9)」「弟子への迫害(13:9〜13)」「大きな苦難(13:14〜23)」と言われます。その後に、人の子つまり、主イエス・キリストが来られるのです。

「24 それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、25 星は空から落ち、天体は揺り動かされる。 26そのとき、人の子が大いなる力と栄光 を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 27そのとき、人の子は天使たちを遣わ し、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集め る。」(マルコによる福音書13章24〜27節)

 終末の時を、わたしたちはまだ誰も知りません。新約聖書の時代の弟子たちも、も ちろん旧約聖書の時代の人々も知りませんでした。けれども神様は、旧約聖書の時代 から、終末を示す預言を預言者たちに語られました。ここで、わたしたちは旧約聖書 アモス書の預言を思い起こしたいと思います。アモス書8章には、主なる神の終末に ついての幻には「語呂合わせ」を用いる表現がありました。主がアモスに示された幻 には、「一籠の夏の果物(ק ִיץָֽ カイツ)」(8章1節)がありました。「アモスよ、何が見えるか。」という問いに、アモスが「一籠の夏の果物です。」と答えると、主は言われました。「わが民イスラエルに最後(קץֵּ ケーツ)が来た。」(アモス書8 章2節)ここでは「カイツ(夏の果物あるいは夏)」と「ケーツ(最後)」の頭韻を 響かせて、預言を語られています。幻や譬えには「意味が隠されている」という特徴がありますが、これらの言葉には「神様による秘められた意味が隠されてい」ました。譬えの意味が明らかにされる時、神様によって込められた意味が明らかにされるのです。
 
 この預言を受けているように、本日の主イエスの御言葉は、終末の預言をいちじく の木の譬えで示されました。そこでは、ギリシャ語で語呂合わせがされています。 「夏」を意味する「θέρος セロス」と「戸口」を意味する「θύραις スライス」で す。

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏(セロ ス)の近づいたことが分かる。29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口(スライス)に近づいていると悟りなさい。」 (マルコによる福音書28〜29節)
※スライスは、スラ(戸・門)の女性・複数・ 与格の活用変化形

 枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏が近づいたことがわかる。いちじくの木の状態から夏(セロス)が近づくことがわかるように、これらの終末の徴が起こるのを見たら、人の子が戸口(スライス)に近づいていると悟りなさいと主は言われました。ここに、わたしたちは一つの福音を聴きます。アモスの預言では、夏の果物(カイツ)はイスラエルの民の終わり(ケーツ)を意味しましたが、主イエスのお言葉においては、夏(セロス)が近づくと、民の終わりではなく、救い主がわたしたちの前の戸口(スライス)に立っておられるのです。原初史以来、「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」(創世記3章8節)、顔を上げることができず「罪は戸口で待ち伏せている」(創世記4章7節)ような人間の歴史に、救い主が到来してくださったのです。このことは、わたしたちに次のことを語ります。「終わり」の恐れではなく「再臨」の希望を見つめなさい、と。わたしたちが門の扉を開けるとき、そこには人の子主イエス・キリストが来てくださっている、それが聖書の語る最後です。
 そして、なぜ歴史の終わりの時、終末が訪れる時に、わたしたちは救われるかというと、ここで主イエスが語られているように「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコによる福音書13章30〜31節)のです。天地が 滅びるときも、主イエスの言葉、聖書の言葉は決して滅びないのです。天地創造の始まる前から、言は神と共におられました。言葉によらずに成ったものは何一つありませんでした。言は、御子イエス・キリストです。主イエスは、全ての歴史の始まる前からおられ、歴史の只中におられ、わたしたち一人ひとりの道にもおられ、歴史の終わる後も父の右に座しておられます。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13章8節)とある通りです。再臨とは、十字架で罪を滅ぼし、復活され、昇天された主イエスが、顔と顔を会わせるような仕方で、わたしたちのところに来てくださるとき、わたしたちの復活の時です。
  主イエスが、本日の箇所で弟子たちに求めておられるのは、終末が「いつ」で「徴は何か」という詮索ではなく、惑わされるのではなく、「目を覚まして祈っていなさい」ということでした。あなたの神を信じて待ちなさい、ということでした「目を覚ましていなさい」このことを主イエスは繰り返し弟子たちに語られました。それには二つの理由が書かれています。
 第一には、「その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(同13章33節)と言われます。再臨がいつくるのか、私たちは知りません。今日かもしれないし、何百年も先のことかもしれません。使徒パウロも、再臨の時を知りませんでした。パウロの初期の手紙では、パウロは再臨はすぐ来ると思っているようですが、後期の手紙では、再臨はもっと遅いと思っていることがうかがえます。天使も子も知らず、父だけが知るとあります。わたしたちにはその時がいつかわかりません。だからこそ、信仰の目を覚ましていなさいと言われます。第二の理由は、門番の譬えに表れされます。再臨までの弟子たちとは、「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなもの」(同13章34節)です。「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。」(13章36節)のです。わたしたちは、主人である神様から仕事を割り当てられた門番にたとえられています。門番は、戸口に立って常に守ります。その戸口は、主イエスをお迎えるす戸口です。わたしたち自身の扉を主イエスに対して開き続けます。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開け る者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に 食事をするであろう。」(ヨハネの黙示録3章20節)

 信仰の目を覚まし、再臨の時に備えましょう。永遠に朽ちることのない言葉、神の 御子イエス・キリストは、過去にいまし、未来に来まし、また私たちの「今」に共に おられます。復活の十字架の主イエスに結ばれるわたしたちは、今と終わりの未来に、希望を見ることができます。主の再び来られる時を思って、顔を上げ、主を見上 げて待ちましょう。

 祈り 私たちの救い主、主イエス・キリストの父なる神様、再臨のみ言葉が示されました。その時をわたしたちは知りませんが、主イエスにあって、揺るぐことのない希望を与えられていることを感謝します。どうか、わたしたちが良き門番のように仕え、目を覚ましていることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。