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銀座の鐘

「妻と夫のあり方」

説教集

更新日:2022年02月20日

2022年2月20日(日)公現後第7主日 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 近藤 勝彦

エフェソの信徒への手紙5章21~30節

 教会で行われる結婚式に出席したことのある方は、結婚の誓約が交わされる直前に夫と妻への勧めとして今朝の聖書箇所が読まれるのを聞いたことがあるのではないかと思います。夫たるもの、妻たるもののあり方が語られる今朝の箇所は、礼拝に出たことのない人々の耳にも残る聖書箇所ではないかと思います。しかしここには何が記されているのでしょうか。
 この段落の最初の言葉は、21節の「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」です。それがキリスト教信仰から見て家族生活の根本をなすことでした。相手の下に身を置いて相手に従い、「互いに仕え合う」、それが夫に対する妻の生き方、また妻に 対する夫のあり方と言うのです。これがさらに子供たちと親の関係、さらには奴隷と主人の関係にも求められます。話は具体的な家族生活のことであり、その時代の現実を生きる 信仰生活のあり方です。家族生活といっても、聖書が記された1世紀末、つまり古代世界の家族のことではないかと思われるかもしれません。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」とあり、「夫は妻の頭である」とあります。これはまさに古代世界の夫婦のあり方であり、教会はそれを現代に押し付けようとしていると見えるかもしれません。もしそうなら、聖書に聞きながら礼拝するということはどういうことにあるでしょうか。古代に合わせるのでは、とても現代には合わないのではないでしょうか。
 「互いに仕え合いなさい」と語って、聖書は22節で妻たちに対し「主に対するように自分の夫に対する」ことを勧めます。ここには「仕えなさい」という言葉は実施にありません。ですが 21 節に「互いに仕え合いなさい」とあるので、主に対するように夫に対するということは「仕える」ことを意味すると解釈したわけです。夫たちには、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」とあります。「妻は仕え、夫は愛する」と言うことで、何か差別的な違いが語られているわけではありません。「互いに仕え合う」姿として語られています。
 さらに言いますと、ここで「仕える」と言い、「愛する」と言われているのは、古代社会の仕え方、愛し方を語っているわけではありません。重大なことは、ある時代の生き方に合わせ、例えば古代社会の風習に従うことでも、逆に現代社会の混乱した状況に合わせることでもありません。そうでなく、「互いに仕え合う」とはどういうことか。それは「キリストと教会」のあり方に従い、それに合わせるとき本当の意味で「互いに仕え合う」ことになるということです。古代的な忍従を生きることでもなければ、現代的な自由奔放に過ごすことでもなくて、キリストが教会に対する在り方、そして教会がキリストに対する関係、そこにあずかり、それによって規定され、支えられ、生かされることです。「キリストと教会の関係」に倣うと言ってもよいでしょう。
 「仕える」あるいは「愛する」と言っても、どうすることが真実に仕え、本当に愛することなのか、人間はいつの時代にも分からないのではないでしょうか。古代社会の仕え方がよかったとは誰も言わないでしょう。しかしまた現代における愛の形が、頼りにできるとも思わないのではないでしょうか。現代の家族生活が頼りになるなら、誰も苦労はなく、人生に悩みはないとことにもなるでしょう。しかし現実はどの時代、どの社会も、人と人が共に生きるとき苦悩と混乱を抱え、救いを求めてきたのです。
 ですから聖書から何をどう聞くかが重大です。古代的な服従を聖書から読み取っても救いにはなりません。現代的な愛を引き出しても解決になりません。そうでなくあらゆる時代を越えて、しかもあらゆる時代に救いを伝える神の言葉を聞いて、人が生きあう根拠に繋げられなければ、本当に聖書に聞いたことにはならないでしょう。
 「互いに仕え合う」生活とは何か。聖書は、それは教会がキリストに対するように夫に対し、キリストが教会に対するように妻に対すること言い、根本的にキリストと教会の関係によって生かされることを告げています。キリストと教会の関係によって生かされながら、キリストと教会の関係に倣うことです。夫婦のあり様の根本に「キリストと教会の関係」があって、そこにあずかることで夫婦のあり方が成立します。そう語る聖書は古代も現代も越えて、それゆえにこそまさに誰に対しても今、現在的に語っています。
 キリストと教会の関係が、私たちの生活の根本をなしているという話です。それで「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」と言われます。「キリストの愛」が語られていますが、「キリストの愛」が語られれば、それは「福音」が語られているのであり、キリスト教信仰の核心が語られています。「キリストの愛」が私たちの救いになります。それを聖書は、「キリストが教会を愛し、教会のために御自身をお与えになった」と語ります。主イエス・キリストは私たち一 人一人を愛してくださっているのではないでしょうか。そして誰もが「キリストに愛されている私」と言うことができるのではないでしょうか。それはそうです。実際、同じこの手紙の5章2節に「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとしてわたしたちのためにささげてくださった」とあります。それと同様、キリストは教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったと言います。キリストの愛は、御自身を与える愛です。キリストの愛には、「教会を愛する愛」「教会愛」があると言うのです。そのキリストの教会愛の中に私たちは入れられています。主キリストが「教会のために御自分をお与えになった」というのは、十字架に御自分をかけ、犠牲としてお与えになったことです。十字架の死の出来事は、キリストの教会愛であり、キリストは十字架に御自分を引き渡し、そこで教会を成立さたと言うのです。十字架において教会を造り、妻と夫をそこにあずからせているわけです。
 今朝の箇所は、妻と夫のあり様を語っている箇所です。しかしそうではなく、キリストと教会の関係を語っている箇所ではないでしょうか。実は、その両方でしょう。本当の主題はむしろキリストと教会の関係の方ではないかとさえ思われます。妻と夫の生き方は、キリストと教会の関係から成立する、そうでなければ成立しない。また、そうでなければ解決しないと言っています。
 妻と夫の関係と言えば、社会の基本構造と言ってもよいでしょう。この後さらに語られる子と親との関係にしても、奴隷と主人の関係にしても、人と人とが共に生き、相互の助け合いに生きなければならない関係は、キリストと教会の関係を土台にしなければならないでしょう。このことは、世の救いはどこにその根拠を持つかという話でもあります。キリストと教会の関係の中に世の救いの根拠があると聖書は語っています。世の救いは、キリストと教会の関係に根拠を置きます。御自身を与えるキリストの教会愛があって、そこに私たち一人一人を招き入れてくださり、それだけでなく、人と人とが共に生きる仕組みのすべては、そこにあずかることによって、真実に成立し、問題解決の道、救いの道を示されます。「キリストと教会の関係」の中に家族の原理がある、ということはそこに世の 救いの根拠があるわけです。
  キリストの教会愛は、十字架に御自分をお与えになり、十字架において教会を成立させました。そしてその教会を主キリストは「言葉を伴なう水の洗い」によって浄め、つまり御言葉とバプテスマによって浄め、聖化し、栄光に輝く花嫁とし、御自分に迎えたと言われます。キリストと教会の関係が、主の十字架における教会の成立、そして「花婿と花嫁」の関係として語られ、「頭と体」の関係によって、教会を御自分の体として、「愛し」、「養い」、「いたわる」ことが描かれます。キリストと教会の関係は、豊かで、究め尽くすことができません。「キリストの教会愛」の深さと広さが、私たち一人一人共に、家族の、そしてこの世の救いを支えています。このことを思うとき、ますます礼拝を誠実にささげていきたいと思わないわけにはいきません。

 祈りましょう。天の父なる神様。キリストが教会を愛し、御自身をお与えくださったことを感謝いたします。主イエス・キリストの教会愛を知り、主に仕える教会の中に加えられておりますことを感謝いたします。主キリストと教会の関係によって生かされ、私たちも主を愛して、主に仕え、互いに仕え合うことができますように導いてください。主キリストと教会の関係の中に、私たちが互いに仕え合って生きることのできる支えと世の救いの根拠があることを信じて、宣べ伝えていくことができますように。コロナ感染のなお激しい中で、病床にある方々、不安の中にある方々のうえに、あなたの憐みに満ちた癒しが与えられますように。私たちのために御自身を十字架に引き渡し、罪と死に勝利し、復活者として今日も共にいてくださる主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。