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銀座の鐘

「新たに飲むその日まで」

説教集

更新日:2022年02月27日

2022年2月27日(日)公現後第8主日 銀座教会 家庭礼拝 副牧師 藤田 健太

マルコによる福音書14章22~26節

「除酵祭の第一日」、「過越の小羊を屠る日」のこと、主イエスはエルサレムに場所 を用意させ、二階の広間で弟子たちと過越の食卓を囲みました。キリストの教会が神様の恵みを知るための最大の手段とも言える聖餐式の起源がそこに備えられました。聖餐式のあるじは主なる神ご自身です。主なる神ご自身が食卓のパンを分かち、杯を配り、与えてくださいます。マルコによる福音書6章にある「五千人の給食」、8章にある「四千人の給食」でも、食卓のあるじであるイエスのお姿が描かれました。食卓のあるじである主イエス・キリストのお姿は旧約聖書に伝えられる神自身のお姿を映す鏡です。詩編145編15節:「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたは時に応じて食べ物をくださいます。」―御国に生きる全ての者たちを養う神ご自身のみ姿が聖餐の主イエス・キリストのお姿を通して伝えられます。聖餐式において私たちは、主なる神御自身による養いを受けます。教会の聖餐式は私たちが神の国に招かれ、神に養われていることを知るための最良の場所なのです。

 マルコによる福音書14章は6章、8章から連なる福音書中の物語のクライマックス です。古典的な新約学者の中には、マルコによる福音書物語の1~13章までは14章か ら始まる受難物語のための壮大な導入である、とまで言う人もいます。福音書記者マルコは二度に渡る「給食物語」をそれまでの物語の中に注意深く配置することで、過越の食卓を決定的な出来事として描き出します。過越の食卓は主イエス・キリストの地上の生涯の終着点であると同時に、マルコによる福音書の物語の目的地の一つです。すなわち、主イエス・キリストのご生涯の目的は、聖餐を通じてキリストの体に与る教会の設立でありました。ご自分の体なる教会の交わりを通した神の国の実現でありました。「取りなさい。これ(=このパン)はわたしの体である。」(22 節)「これは多くの人 のために流されるわたしの血、契約の血である。」(24 節)―これらの言葉が伝える通り、主はご自分の命を賭して私たちの養いの場である聖餐式を用意してくださったのでした。しかもそこはただの養いの場ではなく、私たちの罪を取り除く贖いの場である洗礼式と関わる場所です。教会の聖餐式は主が命を賭して私たちのために用意してくださった贖いの場であり、養いの場なのです。
 マルコによる福音書で 6章、8章、14章が繋がっていることは、三つの箇所に使われている言葉の一致によって知ることができます。「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。」―賛美の祈りは 6 章 41 節でも唱えられました。「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。」―感謝の祈りは8章6節でも唱えられました。賛美の祈りとあ りますが、この言葉は正確には「祝福」と訳すべきであるかもしれません。賛美の祈りと訳すと、後続する26 節にある「賛美の歌」との区別が分からなくなってしまうから です。主イエスは 6章 41 節でそうなさったのとまったく同様に「祝福して」パンを裂かれたのです。「祝福して」というのは、弟子たちを「祝福して」というより、神を「祝福して」パンを裂いたのだと言われます。神を「祝福して」という表現は決して珍しい 表現ではなく、聖書ではむしろ、人を祝福する場合より、神を祝福する場合の方が多いのです。神を崇めるという事です。そういう意味では、主イエスの「祝福」は「賛美の 祈り」でもあったわけです。「賛美の祈り」という翻訳の背景にはそういった意味合いも込められていると思います。主イエスは神様を讃えながらパンを裂かれたのです。そして最後に「賛美の歌をうたいながら」―おそらく詩編 115~118 編、今もユダヤ人が過越の祭りで歌うハレルヤ詩編を歌いながら―オリーブ山に出て行かれたのです。

 「感謝の祈り」と「祝福」のあと「賛美の歌」の前にあるのが「契約の宣言」です。
24 節:「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり 言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」―主がお語りになる「契約の血」は出エジプト記 24 章 8 節でモーセが言及する「契約の血」です。「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの 半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたし たちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に 振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた “契約の血”である。』」―出エジプト記における「契約」がイスラエルの民と祭司であるモーセの双方向的な誓いの言葉から成るのに対して、本日の過越の席の「契約」は 主イエスの一方的な宣言で成り立ちます。イスラエルと神の間の契約も神による一方 的な恵みに依りますが、福音書の過越の契約はこの一方的な性格をさらに推し進めて いると言えるかもしれません。そこで捧げられるのはもはや動物の血ではなく、主ご自身の体と血です。そこではもはやモーセのような祭司の介在はありません。主ご自身が聖餐の式を自ら執り行ってくださいます。主ご自身が十字架における「契約の血」を備えてくださることで、教会は神様との恵みに満ちた契約関係に入ることを得るのです。
 契約を締めくくる主の言葉は 25 節:「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」という言葉です。主がご自分の生涯を締めくくられた言葉です。しかし、それだけでなく、その先に開かれる新たな展望を垣間見せる言葉です。「神の国で新たに飲む」とは、一体何を指すのでしょうか。神の国でぶどう酒を飲むわけはないと思います。「新たに飲む」とあるくらいですから、私たちが地上で口するような何かを飲むわけではないのでしょう。
 「新たに」という言葉は“カイノス”という言葉です。この言葉はマルコによる福音 書2章22節にある「新しいぶどう酒」という言葉にも使われます。この箇所にあるの も、主と弟子たちとの共同の食事をめぐるエピソードです。「断食についての問答」と 呼ばれる箇所ですが、断食をしないイエスの弟子たちを非難する人々がイエスに質問します。「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」―イエスのお答えはこうです。「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」「新しいぶどう酒」が「新しい革袋」に注がれる時、神の国の交わりが成立します。神の国の福音をもたらすイエスとその福音を受け入れる教会が結びつく時、 神の国の交わりが実現します。「神の国で新たに飲む」という言葉も、神の国におけるキリストとの交わりを伝える言葉であると言えます。喜びが満ち、慰めが満ち、感謝が 満ち、賛美が満ちる交わりこそ「神の国で新たに飲む」という言葉が伝える内容であると思います。主の御受難は主と弟子たちの喜びと慰めの交わりを一時遮断してしまいます。しかし墓からよみがえられた主が神の右の座に上げられた時、すなわち、「神の 国で新たに飲む」ようになる時、喜びと慰めが再び溢れ出す様になるのです。そこには 感謝と賛美が満ちました。その声が復活の主の御名を伝える伝道の力となり、地上にキリストの教会が建てられました。主の死を記念する聖餐式を執り行う群れが生まれました。地上の教会は最終的な目的地を復活の主が挙げられた「天」に持ちます。キリストの教会の働きは私たちが「神の国で新たに飲むその日まで」続きます。しかし、私たちはその日まで、繰り返し、教会の聖餐式を通じて、救われた私たちを確かめ、神の国の喜びを確かめ、慰めを確かめ、感謝と賛美を確かめることができるのです。

 本日与えられました聖書箇所の最後、マルコによる福音書14章26 節では「一同は 賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」とあります。文字通りに訳すならば「オリーブ山の道に入って行った」のです。「オリーブ山の道」は「祈りの道」です。 主イエスがエルサレム入場以来、絶えず神に祈りをささげ、地上の生涯の最期の時を父なる神と過ごされた「祈りの道」に私たちも共に向かうのです。それは主と苦しみを共にする道でありますが、主と共に賛美の歌を歌いながら歩む道でもあります。
 銀座教会におきましても2月の第一主日の聖餐式は中止となりました。聖餐の中止 は大きな決断です。1カ月間、私たちは主の恵みを確認するための最良の場所を手放すことになるからです。衛生上の観点から見て妥当な判断であるとは言え、苦しい決断であり、この決断は私たちの苦しみの道であると言えます。しかし、その苦しみの道を主が共に歩んでくださっています。「新たに飲むその日まで」、私たちは苦しむ私たちと共に歩んでくださっている神様を仰ぎながら、神の国の交わりを確かめたいと思います。

祈り 私たちの救い主、主イエス・キリストの父なる神様、コロナ禍にありまして、聖餐の尊さ、大切さを教えていただき感謝いたします。主がご自分の命を代償に与えてくださった聖餐の場を今後も大切に守ってゆく事ができますように。教会に御国の交 わりが与えられていることを喜びつつ、この苦しみを主が共にしてくださっていることを心に覚えつつ、主と共に賛美の歌を歌って過ごすことができますように。
   主イエス・キリストの御名によって祈ります。