銀座教会
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銀座の鐘

「御心に適うことが行われますように」

説教集

更新日:2022年03月05日

2022年3月6日(日)受難節第1主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書14章32~42節

 3月2日(水)は、灰の水曜日、この日より受難節(四旬節、レント)に入りました。本日より、教会の典礼色が緑から紫へ変わりました。紫色は、悔い改めの色です。 全てのキリスト者が神の御前に立ち、悔い改め、主を仰ぎ、罪の赦しを願う姿勢を整 えて歩みます。
 本日与えられた聖書の箇所は、主イエスが弟子達とともに過越の食事として、最後 の晩餐を行ったあと席を立ち、賛美の歌をうたってオリーブ山に出かけ、主イエスが ゲツセマネの祈りをささげたことが記されています。十字架に架かる直前、主イエス が神に祈った言葉が伝えられています。受難節は、第一に私たちの悲しみを思うので はなく、主イエスの苦しみ、悲しみに心を向けなければなりません。私たちのことで はなく、主イエス・キリストがどれだけ悲しまれたか、主イエスの悲しみと苦しみを しっかりと受け止めなければ、受難節を過ごす意味を失うことになります。私たちは、主イエスの悲しみについて、聖書から聞き取りたいと思います。
 オリーブ山の麓、ゲツセマネという場所があります。オリーブ油を絞る場所でした。主イエスは、このゲツセマネをご自身の祈りの場としていました。このゲツセマネという場所は、旧約聖書サムエル記下15章に記されているように、ダビデ王が家臣に裏切られ、危険にさらされ、泣きながら裸足で坂道を登り、祈りをささげた場所でした。すなわち、ゲツセマネはダビデ王の涙と祈りの場であり、そこを主イエスがご自身の祈りの場に選ばれたということです。ルカによる福音書ではこの涙と苦しみの場所が復活の主イエスが再臨の約束をして昇天する、希望の場所になりました。
 主イエスが弟子たちに裏切られ、死の杯を受け入れる使命を与えられ「わたしは死 ぬばかりに悲しい」と父なる神に祈った場所には歴史的に弟子や家臣の裏切りを思い 出す場所なのです。
 主イエスはゲツセマネの祈りに際して、12弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて行きました。主イエスはこの3人の弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われます。祈りを中断した主イエスが弟子たちのところに戻ります。「弟子たちは眠って」いました。
 37節以下「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」
  ゲツセマネで祈る主イエスは、弟子たちが目覚めて共に祈り、祈祷会のように祈りによってつながることを求めていました。主イエスがどんな祈りをしたのかという前に、私たちは主イエスが祈りによって結ばれたいとお考えであったことをしっかりと受けとめなければならないのです。主イエスは3人の弟子たちを連れて行き、祈りを中断してまで三度も弟子たちの所に戻られました。主イエスは弟子たちと場所は少し離れていても共に祈ることを大切にして、こだわられているのです。主イエスはひとりで祈れば良いと考えなかったのです。弟子たちは何をしていても良いと考えていないのです。主イエスが祈る時、弟子たちにも共に祈ることを求めているのです。このことは、とても大切な事ではないでしょうか。主イエスが祈る時、裏切る弟子たちであっても必要としてくださった。主イエスが祈る間、目を覚ましていられなかった弟子たちの姿に私たちは彼らを批判するのではなく、私たち自身の弱さを重ねて読むことが求められているのです。私たちの弱さにもかかわらず、主イエスが最も大切な祈りの場へ、私たちを同伴し、一緒に祈ることを求めているのです。
 主イエスは祈りにおいてもすでに弟子たちに裏切られていました。にもかかわらず、主イエスは裏切る弟子たちを断罪したり、見捨てたりすることはありません。主イエスは「もうこれでいい。時が来た。」といって十字架への道を前進しました。
 主イエスは、弟子たちの弱さをよく知っていたということです。主イエスに選ばれ た3人の弟子たちは、自分自身の弱さ惨めさを経験し学びました。主イエスの前に二 度と顔向けできないほど恥ずかしい経験を聖書に記すことによって、繰り返し思い出 すこととなりました。しかし、この最も惨めな経験が教会を建て上げる大切な力に変 えられていきます。この御言葉によって、私たちがキリストの弟子とされていること を確認することが出来るからです。
 主イエスの祈りの場に身を置くことの意味は、私たちの弱さを知ることと共に、主 イエスの悲しみを最も近くで経験することとなりました。弟子たちの弱さ惨めさが、 教会を建て上げる力なるとともに、もう一つ大切なことがあります。それは、祈りに おいて悲しみ、もだえ苦しむ主イエスを信仰によって見ること、知ることです。聖書 が私たちに伝えていることは、神に祈る主イエスが悲しみ、苦しんでいる姿です。こ のお姿を私たちがしっかりと受け止める時、教会を建て上げる力に変えられるのです。
 銀座教会がキリストの教会として立っているのは、主イエスのゲツセマネの祈りに 支えられ、この祈りを忘れないためです。教会は、あの3人の弟子たちによって示さ れているのです。あのときの主イエスの悲しみを目撃したことが教会にとって私たち にとって決定的に大切な経験なのです。
 神の御子イエス・キリストは、何を苦しまれ、何を悲しまれたのでしょうか。
「地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈 り、36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を わたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うこ とが行われますように。」

 キリストの苦しみと悲しみは、殉教者の苦しみと同じでしょうか。主イエスの死と キリスト教史上、信仰迫害の犠牲となった殉教者の死との違いはどこにあるのでしょ うか。ともすると、この苦しみの時が過ぎ去るように祈る主イエスのお姿より、殉教 者の死に立ち向かう勇敢な姿の方が立派に思えてしまうことがあるかもしれません。 しかし、殉教者の苦しみは、神のため、信仰のため、キリストのための苦しみです。 対して、主イエスの死は、良いことのための死ではなく、罪人に代わって死ぬという ことです。罪人の罪の深さを知る「苦しみの時」を主イエス・キリストが苦しんでく ださったことを示しているのです。私たちの罪を苦しんでおられるのです。ある牧師 の説教の言葉を用いるならば、「徹底的に最後の一滴までもなめ尽くすのでなければ、罪人に代わって死ぬということにならない」。人間の罪のすべてを引き受けて悲しみ、苦しんでくださったのです。苦しみや悲しみ抜きの祈りであってはならないのです。
 キリストだけが経験した苦しみと悲しみがここにあるのです。そのキリストの苦しむお姿を目撃し、証言し続けるのが教会です。「杯」は、旧約聖書では神の御手の中にあります。この杯は、裁きの比喩として用いられています。エレミヤ25:15「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。」」詩編16:5「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの 運命を支える方。」「杯」が「運命」の意味として用いられています。
 主イエスが祈った「杯」は、罪人の罪を引き受ける「死の運命」を意味し、死の運命としての杯を飲むことさえ、神の御心であれば従うという主イエスの決意が祈られています。神に命を委ねて、御心を求める祈りがゲツセマネの祈りです。
 弟子たちの弱さを知っている主イエスは、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」罪人の罪をすべて苦しまれ、悲しまれた主イエスが、私たちに「立て、行こう。わたしを裏切る者が来た」と語られました。主イエスは、眠りこけている私たちを救い主の戦いに行こうと呼びかけてくださっているのです。受難節の期間、主イエスの御苦しみ、悲しみを忘れることなく、主イエスの呼びかけに応えて、救い主の戦いに同伴することを感謝して、受難節を歩みましょう。

 祈りましょう。
 天の父なる神さま。あなたの憐れみにより、私たちの罪を苦しまれた主イエスの 御苦しみを感謝いたします。苦しまれる主イエスのお姿を胸に刻み、信仰生活をお 導きください。キリストの御名によって祈ります。アーメン