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銀座の鐘

「偉大な奥義」

説教集

更新日:2022年03月20日

2022年3月20日(日)受難節第3主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 近藤 勝彦

エフェソの信徒への手紙5章29~33節

 聖書は正しく聖書的に読まなければ、読んだことにはならないでしょう。今朝の聖書の箇所は、特に、聖書の読み方を考えさせられる箇所になっています。と言いますのは、カトリック教会は、今朝の箇所から結婚はサクラメント(聖礼典)であるという結論を引き出し、洗礼や聖餐と同列に結婚を置くことになったからです。プロテスタント教会では、聖礼典はキリストの御命令のあることに絞って、結婚はキリストから命じられているわけでなく、結婚しない人生も同じく許されているのですから、聖礼典ではなく、神の御前での人格的な約束による結び合いとして理解し、信頼し合う誠実さを求めています。カトリック教会は、結婚をサクラメントとしたために、どんな理由があっても、離婚は許されないことにされたと言われます。その違いは、今朝の箇所をどう理解するかという問題と関係しました。
 ここに創世記 2 章の言葉が引用されています。「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」。そして「この神秘は偉大です」とあります。「この神秘」はラテン語で sacramentum と訳され、「二人は一体となる」というのは結婚のことで、それがサクラメントだと読んだわけです。
 聖書はしかし明らかにそう語っていません。「この神秘は偉大です」と言ったあと、「わたしが語っているのはキリストと教会についてです」とあります。「一体と なる」というのは「一つの体」「一つの肉体」です。しかし「二人は一体となる」は、結婚のことでなく、「キリストと教会の一体性」のことで、「この神秘は大きい」と言われています。結婚でなく、キリストと教会の一体性が神秘、奥義と言われ ているのです。「キリストと教会の一体性」とは何でしょうか。聖書のこの段落は、「キリストに対 する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」という勧めで始まりました。そして妻と夫のあり方を支える根本には、「キリストと教会の関係」があり、それが模範をなすとも語られました。その関係は、頭と体の関係であり、段落の前半では、キリストが教会を愛し、清めて、栄光に輝く教会として御自分の前に立たせる、「花嫁と花婿」の関係として語られました。それが後半になって、頭と体それぞれは、関係というだけでなく、むしろ「一体」と語られます。
 関係から一体への話題の転換は、28節と29節です。教会の頭であるキリストが、その体である教会を「わが身」とし、「わが身を養い、いたわる」と言います。「養う」と「いたわる」という二つの言葉が使われ、一方は食事を食べさせ、大きくする 意味があり、他方は親鳥がひなを温めるように、母が子の世話をする、そのようにキ リストは、御自身の身を養い、いたわる、そのように教会を養い、いたわるというの です。キリストの教会愛には母の愛があって、その愛が深まるとき、両者の関係性は 一体性に深まります。その一体性の中でキリストは、私たち皆を御自身の身とし、養 い、いたわってくださるというのです。
このキリストと教会の一体性の中には、教会における妻たちと夫たちが入れられていますが、それだけでなくわたしたち皆が入れられています。「わたしちは、キリストの体の一部なのです」と記されている通りです。そして「この神秘は偉大です」「この奥義は大きい」と言われます。
 そこで、この御言葉を聞いて、重要なことは何かがはっきりしてくるのではないで しょうか。互いに仕え合う信仰生活の中で、私たちは誰もが試練や課題に直面してい ます。その中で神を礼拝し、御言葉を聞きつつ歩んでいます。今朝の御言葉は、その 私たちをキリストは、御自身の体に加え、御自分の身として教会を養い、いたわって くださると語り、キリストが私たちと一体でいてくださるという大きな奥義を告げて います。そうであれば、重大なことは、その主キリストとの一体性に打たれ、その一 体性の中に入れられている事実を実感し、それによって生かされ、それによって力を 得ることです。私たちは、キリストの教会愛によって養われ、いたわられ、力づけら れているでしょうか。
 それは一体、どこで起きるのでしょうか。キリストの愛を実感し、キリストがその 身をいたわり、やしなうのを、どこで実感することができるでしょうか。ある人は、 「養われる」ということから「聖餐」を挙げます。それは、すでに前半の26節で、 キリストが教会を「言葉を伴なう水の洗いによって」清めるとあり、「洗礼」のこと を記していると理解されるからです。それに対して、今度は主イエス・キリストによ る「いたわり」と「養い」を受け取り、キリストと教会との一体性にあずかるツール として「聖餐」が挙げられていると解釈されるわけです。聖餐にあずかるとき、キリ ストの教会愛を、そして教会を御自身の体として愛し、いたわり、養う主の恵みの行 為にあずかるのではあいでしょうか。それに違いはありません。聖餐においてキリス トの教会愛が具現化し、いたわりと養いが示され、キリストと教会の一体性を味わう ことができます。それに違いはありません。
 しかしまたキリストと教会の一体性、キリストの教会愛は、聖餐だけに限定される ことはないでしょう。キリストの教会愛を実感し、そのいたわりと養いを受ける場 は、教会生活の全体に浸透しています。礼拝に聞く聖書の御言葉、その解き明かし、 同一の信仰を信じ告白する交わり、捧げられる讃美と祈りを通して、主イエス・キリ ストの教会愛、主の養い、主のいたわりは働いています。
 そうすると、もう一つ重大なことがあります。それは、キリストと教会が一つの体、一体であるとの奥義を、実感として受け取る以前に、あるいは受け取ると同時に、この奥義は偉大だという思いです。この奥義は大きい、「メガ」だと言われます。それにアーメンと言うことです。このことを心に留めるべきではないでしょうか。パウロ、あるいはパウロに準じる使徒的な指導者である著者は、教会の一人一人 にこの奥義、つまりキリストと教会の一体性、キリストの教会愛、キリストのいたわ りと養いをもった一体性を大きな奥義として語りました。この奥義は偉大だと言いま す。それにアーメンと言うことは、大きいのは私たちの課題や悩みではないというこ とです。私たちが現実の生活に悩み、心挫けそうなとき、キリストの教会愛によって キリストと教会が一つの体とされ、そこに私たち皆があずかっている、「この奥義は 大きい」と語る使徒の言葉に、「然り」と心に思い、そう口でも言い表すことです。 この奥義の大きさは、人生や世界で起きるどんなことより大きいのではないでしょう か。大きいというのは、スケールの大きさですが、その意味も深く広く立ち優ってい
る、そしてその効力、威力が大きいと言うことです。そしてこの奥義が偉大であるゆ えに、その奥義に支えられ、生かさることによって、私たちはどんな圧迫からも自由 にされるでしょう。教会はこの奥義の偉大さによって、それ自体の弱さから自由にさ れ、いかなる破壊や圧迫からも自由にされます。
 私たちはこの2年の間、コロナ・パンデミックに悩まされました。すべての家庭 が、そして誰もが苦しまされ、教会も労苦してきました。今また、ウクライナではロ シアの侵略が起きて、多くの市民が苦しみに会い、教会は試練の中に置かれています。世界は脅威にさらされています。大きな問題が人類を悩ませ、教会を苦しめま す。しかし今朝、聖書から聞く御言葉は、キリストの愛によってキリストと教会が一 つである奥義こそが、大きな奥義なのだと言うのです。主キリストは、私たちの理解 を越えて、その体である教会と一体になって、これをいたわり、育てます。教会の苦 難は、教会を御自身の体とし、それと一体になる、頭なるキリストの苦難とされるで しょう。その上でキリストが教会の頭であるのは、「すべてのものを足もとに従わせ る方」として、神の全権をもった勝利者としてですから、教会のどんな苦難もキリス トの勝利の下にあると信じることができます。この奥義は、私たちが知るあらゆる世 の試練と苦難よりもはるかに「大きい」と言うべきでしょう。

祈りましょう。憐れみの神、全能の父である神様、聖名をほめたたえます。主イエス ・キリストが教会を御身体とする頭として、教会と一つにいてくださいます奥義を感 謝いたします。また、その奥義に私たち一人一人をあずからせ、主の養いといたわり の中に置いてくださっていますことに深く感謝いたします。どうか、主の力強い愛の 奥義にあずかり、生かされていますことを覚えて、新しい週の一日、一日を歩むこと ができますように。それぞれに課題を与えられ、その中で四苦八苦している私たちで す。しかし主の大きな奥義の中で生きる力と自由と喜びを信じ、味わわせてくださ い。とりわけ厳しい試練にさらされている兄弟姉妹たちに、主の慰めと、癒し、試練 に耐える力、課題を受けとめ、神の国のために仕える力をお与えください。ウクライ ナにいる主にある兄弟姉妹のため、またコロナ感染によって病の中にいる兄弟姉妹の ために祈ります。彼らの上にあなたの義と平和がもたらされますように。あらゆるも のをその足もとに従える復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン