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銀座の鐘

「体のともしびは目である」

説教集

更新日:2019年12月14日

2019年11月24日終末主日 第二礼拝・夕礼拝説教:藤田 由香里 伝道師

マタイによる福音書6章22〜23節

「体のともしびは目である」これは、マタイによる福音書では主イエスが弟子たちにお与えになった山上の説教の6章後半に位置しています。6章には、山上の説教のおよそ中央に位置する「主の祈り」があります。
「体(ギリシャ語:ソーマ)」は私たちの「器」「総体」です。主イエスは、私たちの「体」が光を帯びるか、あるいは闇を帯びるのか、それは目に示されると言います。

「目」は、旧約聖書の記されたヘブライ語では、「アイン」と言います。「アイン」は、目と同時に泉を意味する単語です。目は、私たちの中にある泉であるとも言えないでしょうか。私たちの源泉、目はそのような本質的な部分と関わると言えます。私たち自身の泉がどのようであるかを、主に問いかけられていると思います。

イエス様は言われました。「あなたの目が澄んでいるなら、あなたの体は光っている。しかし、あなたの目が濁っているなら、あなたの体は闇である。」目の状態により体の状態が変わります。もっと言えば、私たちの全身、総体のあり方が決まります。光の状態なのか、闇の状態なのか。それは、私たちにおいては単純ではなく複雑で、どちらでもあると言えます。神様の光によって導かれ、私たちは光である。同時に私たちは世にある限り罪人です。しかし、主がこのようにたとえを用いてお教えくださっていることには、私たちの目が澄んでゆく道があるということです。

マタイ福音書6章22節の目が「澄んでいる」という言葉は、「純粋」あるいは「一つの思い」とも訳せます。目が澄んでいるとは、ここでは私たちが、神様の御許にいるということだと思います。主イエスの御傍にいるとは、光の傍らにいることです。それは目を澄ませていくことです。この「澄んだ目」は私たちの努力で勝ち得るものではなく、神からの賜物です。

目が「濁っている」というのは、私たちのうちに岩や茨やアザミが生えているような状態ではないでしょうか。濁るとは神から離れていくこと、み言葉を忘れ、神の恵みを忘れ、思いが一つに定まらないこととも解釈できます。主は「悪いものは人の中からでる(マタイ15:18)」と言われました。私たちの目が濁るのは、私たちの内側により、あるいはこの世の力によるのです。

主イエスは、このたとえで、「濁っていれば体自体が闇」となってしまうといいます。
同じたとえが語られるルカによる福音書は、最後光にフォーカスを当てます。ルカは「あなたの内の暗いところがなければ全身は輝く(ルカ11:36)」と言っているのに対して、マタイは、闇にフォーカスを当てて「あなたの光が闇ならば、どれほど暗いだろう」と警鐘を鳴らしているような語り方です。闇の状態に向かってしまうことは、実際起こり得ます。

あるドイツの神学者が、現代のプロテスタンティズムについて指摘しました。私たちは、「罪」そのものと「神経症的な罪の意識」を混合してしまうことがある。罪、負い目、無力さが一緒になったような感情があって、悲観主義になる。罪は赦されないものかのように永遠化される。私たちにはなにもできない。そのような神経症的な罪の意識があると言いました。真面目なキリスト者ほど、深刻に罪を数えて沈み込んでしまう。ある意味でそれは現代社会におけるリアリティなのかもしれません。
しかし、同じように「私は罪人である」と言った宗教改革者たちは、生き生きした福音の力に突き動かされていました。この溢れる命をみなぎらせながら、「私は罪人である」、同時に「信仰によって義である」と言いました。
しかし、上述の立場からすると、現代のプロテスタンティズムは、時に罪人であるということに沈み込みがちで、結果「私たちには何もできない」、とか「私たちは見捨てられている」と考えてしまうというのです。
教会の歴史を辿っても様々な時代の風潮がありました。宗教改革が始まって霊に燃えた時代、教会の教えが整った時代、教理や教育の制度が整ったけれど形骸化した時代、形骸化に対して敬虔さを取り戻そうとした時代があります。信仰や教会の風潮が時代性や環境に影響されることはある程度ありえることです。しかし、神様の真実さは変わらないのです。聖書から湧き出る泉は尽きないものです。

私たちがお聞きしている聖書の言葉は、「神は私たちを見捨てない」ということです。厳しい現実がある時、現実を見据えずに楽観しすぎることはできません。神様に与えられた今を無視して私たちは生きていくことはできません。しかし、現実を見るなら、私たちが見つめることがゆるされている現実があります。
教会には恵みの現実があります。教会の現実主義は、光は闇に勝っているということです。教会には救い主イエス・キリストのリアリティがあります。キリストのリアリティとは、「十字架にかかられた主は復活された」ということです。復活のキリストは現臨されているということです。復活のキリストは生きていたもう、これが教会の現実です。罪は去った、ということです。今は、恵みを受けている時なのです。この恵みの今に立つので、私たちは、罪について語りだすことができます。恵みの今からみるとき、罪は、過去のものとなります。教会に生きる現実を見る時、神は常に勝利されているからです。そして神はお一人で勝利され、自主独立され、私たちを遠くから眺めていることもなさいません。神は、人間になられて、私たちの近くへ来てくださいました。教会に生きるとき、私たちの現実主義は、恵みが勝利しているということです。私たちは、救い主イエス・キリストを前に、「然り」ということで満たされているのです。

「暗闇に住む民は大きな光を見る」そのためにイエス・キリストは地上においでになりました。

けれども、試練の中で目が濁らざるを得ない時があります。これは、私たちが自分で取り去ることのできるものではありません。しかし、最良の助けは常に私たちの前にあります。

主イエスは、私たちに、「主の祈り」をお与えになりました。第6の祈り、「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」があります。「悪より救い出したまえ」の「悪」という言葉が、本日のテキストの目が「濁っている」という言葉と同じ言葉「ポネーロス」です。私たちの内にある悪、災いから救い出したまえ。私たちの目を濁らせるものから救い出したまえ、という祈りです。

悪にはいくつかの側面があります。私たちの内に罪があります。私たちの外に、出遭ってしまう災いや試練があります。どの悪であるにせよ、私たちが主の祈りで、「悪より救い出したまえ」と祈るとき、私たちはこれらのあらゆる悪からの助けを神に求めています。神様は、実際に救う力をお持ちであります。

この祈りは、私たちの目を澄んだものとしてくださいという願いと言い換えられるかもしれません。私の泉が、溢れるばかりにあなたの光で、あなたの言葉で満ちるようにしてください。そのためにも、私の内にあるこの濁りを、悪より救い出してください。光を生み出す方に願い求めることができるのです。

また主の祈りで私たちは、「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈りますが、元の言葉では、「我らを試みにあわせないでください、むしろわれらを悪より救い出してください。」この後半部分にも「我らを」とついています。「我らを悪より救い出したまえ」つまり、私たちの祈りです。主の民を悪より救い出したまえ、これは教会の祈りです。私たちは主の祈りを祈ることで、キリストの体なる教会を悪から救い出したまえというとりなしの祈りをしています。

キリストの御体が十字架の死に際した時、「全地は闇に包まれました」。しかし、この御体こそ、三日後に復活なされた体であります。復活の光を帯びた御体です。この復活をもたらす神の力が、私たちの祈りを聞き入れてくださいます。

この祈りは、戦いの祈りでもあります。勇猛果敢に祈りの戦いに臨んでいるところで、私たちは悪から一歩離れます。主イエスを信じて祈り始めるとき、私たちは自由です。私たちを神の愛から離そうとするものから、全く自由です。私たちが祈り求めているお方が、光の源であります。お一人の真実な神は、求めるものに御心を示してくださいます。

神様との深い繋がりのなかで、復活のキリストからあふれ出る光を私たちは受け取っています。この光は、闇に打ち勝った光です。私たちは、神の光を見つめて歩めます。

詩編119:105
「あなたの御言葉は、
わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。」

み言葉こそ光、キリストこそ消えないともしびです。