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銀座の鐘

「強いられた恩寵」

説教集

更新日:2022年05月02日

2022年4月3日(日)受難節第5主日  主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書15章21~32節

 4月を迎えました。教会の暦では、来週の日曜日、棕梠の主日から受難週を過ごします。本日の聖書箇所は、受難週の金曜日の出来事です。主イエス・キリストが十字架刑の処刑が行われるゴルゴタ「されこうべの場所」へ向かっています。十字架刑は、死刑になる囚人が自分の十字架を背負って、処刑場へ行くことになっていました。
 主イエスも他の死刑囚と同様に自分の十字架を背負って歩いていました。受難週の木曜日に最後の晩餐、そしてゲツセマネの祈りをささげた後、主イエスは逮捕され、死刑の判決を受けました。そして、翌日の金曜日、処刑されるためにゴルゴタへ向かっているのです。
 主イエスの十字架刑が行われたゴルゴタの場所は、いくつかの説があります。ゴルゴタは小高い丘で「されこうべの場所」といわれるように丘の形が骸骨の形をしていたとか、死臭漂う人が寄りつかない場所であると説明されることもあります。しかし、十字架刑は見せしめの刑です。特別な人だけが行くような場所ではみせしめになりま せん。ヨハネ福音書19章では、「都に近かった」と記されています。また、ヘブライ人への手紙13章では「門の外」と記されています。十字架刑が見せしめの刑であり、本日の聖書箇所の29節「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」と通りかかりの人が声をかけられるような場所だったのです。ゴルゴタは、町の外ではなく、町の中であったと思われます。
 主イエスが十字架の木を担いでいる道、処刑された場所は、人々の日常生活の場所であった可能性もあります。私たちが日常生活でよく歩く道を主イエスが十字架を背負って歩いているのです。その途上で起こった出来事が、4つの福音書の中で、マルコとマタイが記しています。それは、主イエスが背負っていた十字架を監視していた兵士の命令で、通りがかりの「シモンというキレネ人」が主イエスの代わりに背負わされたという出来事です。このシモンが主イエスの代わりに十字架刑になったのではありません。ただ、ゴルゴタまでの道、むち打たれ、寝る時間もなく、死刑が確定し、疲れ切った主イエスに見かねて、このシモンが突然兵士に呼び出され、「主イエスの十字架を無理に担がせた」のです。
 この出来事は、マルコによる福音書にとって大切な出来事となりました。マルコによる福音書だけが、このシモンの子どもの名前を記していることから分かります。「アレクサンドロとルフォス」です。彼らの父であるシモンが主イエスの十字架を背負ったのです。シモンにとって、この突然の交通事故のような出来事でしたが、主イエスの十字架を背負ったことが、シモンの人生を大きく変えたのではないかと思います。聖書に名前が記されることになりました。マルコ福音書の背後にある信仰共同体において、主の十字架を担いだ男として覚えられたのです。たまたま、兵士の思いつきに見える出来事ですが、この十字架を背負うことが、思いもしない大きな神さまの恵みの出来事として教会の宝として受け止められるようになったのです。
 主イエスが十字架を担いでいる道を歩いていた彼らの父シモンは、突然兵士にいわれるがままに主イエスの十字架を担ぐことになりました。当初は大変迷惑な事故としかいいようのないことだったことでしょう。一時的とはいえ強制的に死刑囚と同じ扱いを受けたのです。屈辱的なことであったと思われます。しかし、この出来事が神の救いのご計画に関わる大切な役割であり、世界中でたった一人、主イエスの十字架を背負うことが出来た恵まれた人とされたことを知るようになったのです。そのように 思えるまで、かなりの時間が必要であったと思われます。しかし、主イエスの十字架を担いた経験は、どれほど大きな恵みであるか、教会の誇りとなり、信仰が与えられた人々の中で、貴重な経験を感謝して受け止めることが出来るようになったのです。
 強制された苦痛でしかない出来事が、シモンにとって、シモンの息子たちにとって、そしてマルコの教会にとって、神の恩寵として受け止めることが出来ました。  しかし、この出来事が神の恩寵であることが分かるやいなや、このことを一人でも多くの人に伝えたい大切な物語になったのです。父の武勇伝を自慢するような事ではなく、主イエスの十字架の重さを身をもって経験し、主イエスの苦しみに連なることを赦されたことを信仰者の誇りとすることが出来たのです。主の十字架に関わった恵みは、シモンとその家族だけに留まる恩寵ではありません。この出来事を繰り返し聞く事を通して、信仰を通して、教会が受け取ることの出来る恩寵となったのです。   主イエスの十字架を担いだ後、十字架に架けられた主イエスに対して兵士たちが、主イエスの衣服をくじ引きで分けあう光景が記されています。主イエスの十字架を担いだ経験から、この光景をみると主イエスの苦しみを全く理解できない人々が見えてきます。むなしいことに時間を費やし、最も大切なことに目を向けられない出来事に気付かされるのです。29 節以下に登場する、通りがかりの者、祭司長、律法学者など 主イエスをののしる者の声が記されています。マルコによる福音書は、主イエスの十 字架を担いだ経験を通して、信仰によって主イエスをののしる声を聞き、主イエスの 苦しみを全く理解できない者を直視しているのです。かつて私たちも主イエスをのの しる者であったことを思い出すためです。しかし、今や主イエスの十字架を担ぐ経験 を通して、主イエスをののしり、侮辱することの愚かさ惨めさを教会と信仰の問題と して忘れないように記しているのではないでしょうか。
  主イエスをののしり続ける人々の中にかつての自分自身を発見し、十字架の主イエスの苦しみを自らの苦しみとして受け取ることが、どんなに大切なことであるのか証しする者に変えられるのです。それが、主イエスの苦しみが、私たちの罪を背負う苦しみであることに気付くことなのです。あのシモンが強いられて主イエスの十字架を背負わされたことによって、主イエスとともにゴルゴタへの道を歩く経験を通して、主イエスの苦しみは、誰のための苦しみであるのか深く理解し味わうことになったのです。強いられた恩寵によって、主イエスの苦しみを直接経験したシモン、その証しを聞いたマルコの教会、その御言葉を通して主イエスの十字架を担ぐことが、共通の私たちの信仰経験となっているのです。この御言葉によって、主イエスをののしる者から主イエスの苦しみが私たち人間の罪を苦しんで下さっていることを受け入れる者へ変えられるのです。
 私たちは与えられた信仰によって聖書を読み、主イエスの十字架を担がせていただきます。その時、主イエスが十字架上で兵士が差し出した「もつやくを混ぜたぶどう酒」を拒否した主イエスの心が理解できます。主イエスは私たちの罪を苦しむことから目を背けることもその苦しみを和らげることも一切しないのです。ひたすら十字架の上で私たちの罪を苦しみ続けておられるのです。
 主イエス・キリストは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ福音書8章34節)と語られました。私たちの罪という十字架を担いでくださった主イエスが、私たちに自分の十字架を背負い、主イエスに従うことが求めて下さいます。自分を捨て、自分の十字架をしっかり最後まで担ぐことによって主イエスに従うのです。自分の武勇伝を捨てて、主イエスの御跡をたどりつつ、信仰をもって自らの十字架を背負いたいと思います。
 教会総会が行われました。新しい体制が整えられます。神さまが教会に仕える使命を強いて与えられたと思われる方もあるかもしれません。しかし、神さまのご命令に従うとき、一時の苦しみは、素晴らしい恩寵であることに気付く日がくるのです。
 聖餐にあずかります。十字架の主が、私たちを愛し、罪を背負ってくださったことによって、私たちの罪は主イエスの御苦しみになり、赦されました。神の赦しの宣言に身を委ね、神の愛に応えて、聖餐に与りましょう。

  祈り 天の父なる神さま。あなたは、主イエスの十字架を思いがけない出来事によってシモンに担がせ、その経験を信仰の経験としてくださいました。十字架の御苦しみを覚える道を与えられ感謝いたします。主イエスの苦しみにあずかり、キリストによって私たちの罪が担われていることを感謝いたします。主イエスをののしる者から十字架を担ぐ者へと導いてくださり、受難週に向けて、私たちを十字架と復活の証人としてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。