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銀座の鐘

「復活者キリストの苦難」

説教集

更新日:2022年05月02日

2022年4月24日(日)復活節第2主日 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 近藤 勝彦

フィリピの信徒への手紙3章7~11節

 復活節第二主日の礼拝です。会堂に集まり、またオンラインによって、礼拝に共にあずかることができますことを感謝いたします。今朝は、使徒パウロの証言を聞きました。主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、自分の救いにとって益になると思われていたその他の一切のことは、損と思うようになったと言います。そしてその唯一、救いにとって益である、あまりの素晴らしさ、それは「キリストを知る」ことで、「キリストとその復活の力とを知る」ことだと言うのです。そう語って、さらに「その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」という希望が語られています。ここに「復活の力を知り、その苦しみにあずかる」とあるのは、どういうことでしょうか。復活の力を知りつつも、なおその苦しみにあずかるというのは、復活者キリストはなお苦しんでおられるのでしょうか。「復活者キリストの苦難」について語ることができるのでしょう か。またそのことは、私たちの救いにどういう意味を持っているでしょうか。パウロが証言する「キリストを知るあまりの素晴らしさ」はこのことと関係していると思われます。今朝は「復活者キリストの苦難」の御言葉を聞き、私たちもキリストを知る余りの素晴らしさにあずかりたいと思います。
 この個所について、新約聖書の学者たちはみな一様にパウロの文章表現の特徴が出ていると言います。それは 10 節ですが、パウロはキリストを知ることとして、まずキリストの復活の力と言い、それからキリストの苦しみにあずかると言い、そしてキリストの死と同じようになり、またその復活に達すると語ります。「苦しみ」が十字架の苦難を意味するとしますと、パウロの証言は、復活からそれ以前の受難や十字架という過去に遡っているように見えます。過去の苦しみに次いでその死を語り、それ からまた現在に戻って将来の復活に達する希望を語ります。つまり、復活から十字架へと過去に行く線が語られ、それから十字架の死の過去から将来の復活に向かう線が交叉する書き方がなされていることになります。復活から受難へ、そして逆に受難の死から復活へと言うわけで、「交叉的な構文」が見られると指摘されます。その通りだとして、どうしてこういう交叉的な構文が意味を持ってくるのでしょうか。「復活の力を知り、その苦難にあずかって」というのは、復活以前の十字架の苦難とは、別の苦難が語られていると思われるかもしれませんが、十字架の苦難と別な苦難では、人類の罪と苦難に対して救いの力を持つキリストの苦難にはならないでしょう。「その苦しみにあずかる」というのは、主の十字架の苦しみか、それと一つになっている苦難であってこそキリストの苦難と言えるのではないでしょうか。
 問題は、一体なぜ復活から苦難へ、そして十字架の死へとパウロの証言は遡るのかということです。答は一つでしょう。それはキリストの苦しみ、受難、十字架が、キリストの復活によってまったく過去のもの、もはや無関係なものになってはいない、そうでなく今現在の主の苦しみ、主の十字架としてその力が発揮されるからです。「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかり」と言われるように、主の苦しみは今あずかることのできる苦しみとして語られます。つまり、復活者キリストによって、主の苦難と十字架の死は現在のことになります。いま生きる私たちがその苦しみにあずかり、その死に倣うことができるように、復活者キリストによって主の苦しみと十字架の死は、現在化されているわけです。
「その苦しみにあずかり」と言われます。「あずかる」と言うのは、コイノニアという言葉で、キリストの苦しみに交わり、繋がり、参加することです。主の苦難と十字架の死は、過去のこととして済まされません。主イエスは十字架に架かり、十字架の死を身に受けた方として、死者の中から復活なさいました。その復活者キリストは、十字架に架かられた方として、苦難を身に受け、誰よりも深く苦しみ、苦しみを熟知した方として、今なお苦しむ能力を持って死と苦しみに勝利しておられます。主が復活されたのは、苦難に対して平安が勝利し、死に対して命が勝利し、苦難や死の不安に対して、希望と喜びが主にあって勝利したことにほかなりません。ですが、復活された主イエスは、御自分の死を身に受け、身に刻んでいます。復活者キリスト は、その十字架の苦難と死を今に運んでいると言ってもよいでしょう。ヨハによる福 音書は、復活日の夕方、弟子たちに表われた復活者キリストは、「手とわき腹とをお 見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20・20)と伝えています。復活の主は十字架の苦難と死を身に刻んで、運んでおられます。私たちが主イエスと出会い、主を知るとき、復活者キリストに刻まれた主の十字架、主の御受難を真実に理解し、主を知ることのあまりの素晴らしさに撃たれ、「主を見て喜ぶ」のです。
「主を知る」というのは、主イエス・キリストによって知られ、主イエスによって捉えられ、私たちの方からも主を信じて、主をつかむことです。復活の主イエスに捉えられるとき、主は誰かのための主だというのんびりした話ではありません。パウロは、「わたしの主キリスト・イエス」と語っています。この身の程知らずな私ですが、それでも主は私を赦し、捉えてくださっています。「わたしの主イエス」と言ってよいのです。そう言える私にされています。それが「主を知る」ということです。そのとき私は、復活の力を知ると共に、主の十字架、主の御受難にあずかる、主の受難と十字架は私のためと知り、また私たちのため、友のため、また見知らぬ人々のためでもあると知ります。主イエスの復活の力を知ることは、その復活の力のもとで、苦難をも主イエスと共にし、主の死の姿と同じようにされ、そして主の復活に結びつく命の希望に生かされます。
 復活の力の中で主イエスの苦難と死を今のこととして知るーそこに私たちの生活全体をひっくり返す内容を持った素晴らしい出来事が起きています。キリストの愛とその力を知らされるからです。
 「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が私の人生を変えた。そう語るパウロの経験は、あのダマスコへの途上で、復活のキリストとの出会いに直撃された彼の経験と結びついているでしょう。キリスト者たちを迫害していたパウロが、一転してキリスト者にされ、福音を異邦人に伝える者、そして逆に人々から迫害される者に変えられました。使徒言行録はそのときの内容を、復活の主イエスの言葉で表現しました。そのとき復活者イエス・キリストは、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と問うたと言います。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9・4-5)と語ったと言うのです。パウロは復活者キリストと出会ったとき、復活者キリストの苦難を知らされました。パウロ自身が主の弟子に加えた苦難です。その苦難をわがこととして受ける復活者キリストにパウロは撃たれました。そして主イエスの十字架こそ福音であると伝える者に変えらたのです。キリストとその力とを知り、「その苦しみにあずかって」と言うのは、復活者キリストが今担ってくださっている苦しみ、その主の十字架にあずかることです。復活者キリストは、弟子たちの苦難や主を信じる者たちの苦しみを御自分の苦難として担い、私たちの負うべき苦痛を奪取して、御自分の身に負ってくださっています。私たちの苦難を主が担い、死ぬべき死を奪取してくださったので、私たちは主のその苦しみにあずかり、苦難の交わりの中で、その死の姿と同じ様にもなります。すべては主イエス・キリストの恵みの勝利のもとにあってです。たとえどんな苦難の中、死の中にあっても、復活者キリストはすでに共にいて下さいます。苦難は主の苦しみにあずかるものに変えられ、死はキリストの死にあやかリ、キリストと同じ姿になるものに変えられています。主イエス・キリストが復活の力をもって勝利してくださっているからです。 祈りましょう。

 聖なる、天の父なる神様。復活の主イエス・キリストと日々ともなる生活を与えられておりますことを感謝します。御言葉にありますように「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」、わたしたちもまた「死人の中からの復活に達する」恵みに生きることができますように、心から願います。それぞれの試練の中で信仰生活に生かされていますが、どうか主を知る素晴らしさ、復活者キリストと共に歩む喜びを、より多くの人々に伝えていくことができますように。伝道する教会、伝道する群であることができますよう、私たちそれぞれを用いてください。罪の支配を打ち破り、私たちの罪の結果を身に負ってくださった復活者、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。