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銀座の鐘

バベルの聖霊降臨

説教集

更新日:2022年06月04日

2022年6月5日(日)聖霊降臨日(ペンテコステ) 主日礼拝 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

創世記11章1~9節

 本日の聖書箇所は、「バベルの塔」として知られている御言葉です。バベルの塔のお話しが記されている創世記11章は、「世界中は同じ言葉を使っていた」という言葉ではじまります。高い塔を作れるようになった人々はこう考えるようになりました。「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と話し合いました。「天にまで届く塔のある町を建て」るということ、「有名になること」、「全地に散らされない」力をもつことを望み見るようになりました。神に近づき、神になれるという感覚をもつようになったのです。高い塔を建てて、天におられる神と肩を並べられると思うようになったのです。人間が文明の発展によって、いつのまにか人間の力と可能性によって、神に近づいたと考えはじめたのです。人間同士の協力があれば、神の助けなしに生きていけると考えるようになったのです。人間はいつのまにか、神と対等であると思うようになり、神と対等の立場に立つことが出来たと確信するようになりました。もはや神なしでも十分生きていけるという確信をもつようになったのです。
 これまでは、石やしっくいによって造っていた建物が「れんが」と「アスファルト」を手に入れ、自由に使うことが出来るようになりました。飛躍的な技術革新を経験しました。これまで想像も出来ないような高層建築が実現し、神に近づいたと感じたのです。神に助けを求めなくても生きていけるという確信をもつようになったのです。この感覚は、おそらく昔の人々の問題というより、現代の私たちも更に強くもっている思いではないでしょうか。人類の進歩と技術革新によって、神から離れてしまっていないでしょうか。そのような人間の姿を神は見ていました。神は人間が神を神と思わないほどにおごり高ぶる姿を見ているのです。
「5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、6言われた。」
 人間は神の高さに達し、対等に立てたと考えていたところに、神は降ってきました。神が人間と同じ高さにいたら、降ってくることはありません。神が降ってきたということは、人間の進歩や高さを問題にしているのではなく、神の高さに達していないことを誰よりもよくご存じの神が動かずにはおられなくなったことを示しています。
 人間が神に並んだと思ってしまった傲慢を、人類の危機として見ていることが分かります。神は神の高みから降ってこられ、「塔のあるこの町を見」ているのです。
 神に到達できると確信している私たちは、どうすれば正気に戻れるのでしょうか。神に立ち帰るために何が必要なのでしょうか。
 神は降ってこられ、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」神は人間の言葉を混乱させました。言葉が混乱して、人が一緒に生きることができないようになってしまいました。神のご意志によって、言葉が混乱してお互いの意思の疎通がはかれなくなりました。
 この話しは、神が高い塔を作り神より有名になろうする傲慢な人間への裁きとして言葉を混乱させたという、神の審判として説明されることがあります。しかし、はたして聖書の神は、少し傲慢になった人間の鼻をへし折って満足するような単純なお方でしょうか。そうではないと思います。
 旧約聖書を読む時の大切な急所は、神の審判と救いがコインの裏表のように表裏一体となっていることです。バベルの塔の物語では、人間の危機が描かれているのです。人間が集団になって神を失って行動する時、その行動が自殺行為につながるのです。
 神は人間が神になれるはずはないことを誰よりもよくご存じなのですから、どんな塔を建てようとも人が傲慢になろうとも、放置し、静観していれば良いのです。しかし、この危機によって人間が他の人間を支配し、強制労働させたりして、人間が人間を支配するようになる危機を迎えていることを察知しているのです。
 聖書は、バベルの塔の物語を通して、そのような神懸かりな人間集団の危険を問題にしているのです。「石の代わりにれんが」が用いられることで、採石場が近くになくても大きな建築が出来るようになりました。このような技術革新が、人間が人間を支配する問題、人間と神の関係喪失という危機に突入してしました。私たちが、この世の繁栄に目も心も奪われている時、その裏側では神と隣人を失う危険が迫っているのです。この危機を見逃してはならないことを学ばなければなりません。
 神は、そのような危機の中にある人間を救い出すために動き始めました。神は降ってこられました。神は、れんがやアスファルトを人間から取り上げたのではなく、全地へ人間を散らしました。そして、人間を多くの民族に分け、多数の言語を用いるようにされたのです。言葉や民族の壁は、人間相互が相互の命を守る重要な役割を果たしました。バベルの塔の物語は、単なる神の審きではなく、神の救いの出来事という側面をもっていると思います。
 そのようにして全地に散らされた人間が、神の言葉を聞き祈る者とされた出来事が聖霊降臨(ペンテコステ)です。使徒言行録二章には、地中海世界に散らされた多民族、多言語の人々が、それぞれ生まれ故郷の言葉で「神の偉大な業」を聞く出来事が起こったことが伝えられています。この聖霊が降る出来事によって、新しいイスラエルとしての教会が誕生しました。
 この時、祈るために集まっていた主イエスを信じる群れは、不思議な経験をしました。第一に天からの激しい風のような音を聞きました。この物音で集まってきた人々は、故郷の言葉を聞きました。その言葉をよく聞くと「神の偉大な業」だったのです。
 主の弟子たちは、祈る人々の再結集を経験しました。新しいイスラエルとしての教会が、聖霊なる神の導きによって集められました。しかも、イスラエルの言葉だけでなく周辺のすべての言葉で語られた御言葉を聞いたのです。この出来事が指し示している教会は、神の救いのみ業を他民族、多言語の現実の中で聞き続ける事なのです。教会は、神のことばを聞く使命を与えられているのです。
 バベルの塔の出来事は、神喪失こそ人間の危機であることを教えているのです。神は人間が神なしに喜んだり楽しんだりすることに危機があることを教えているので す。神への祈りのない世界は、人間同士の対立と戦いに陥ることを教えているのです。
 全地に散らされた人間は、この町の建設をやめました。こういうわけで、この町の名は「バベル」と呼ばれました。主がそこで全地の言葉を混乱させたことを忘れないようにバベル(混乱)という言葉が私たちの心に刻まれました。
 ある神学者が「右手に聖書、左手に新聞」と語ったと伝えられています。現在の私たちの問題は、右手に新聞、左手にも新聞、あるいは新聞さえも読まない状態かもしれません。聖書を毎日手に取りましょう。聖書を毎日開きましょう。聖書日課を用いて御言葉に聞きましょう。人間の言葉だけで生きる時、神を畏れず、人間だけを恐れ敬い、神喪失の危機に陥ってしまうのです。
 フランスの画家にポール・ギュスターヴ・ドレ(1832年1月6日 – 1883年1月23日)が「天に届くバベルの塔」という題の版画の作品を造りました。描き出されているバベルの塔は雲の上に伸びています。そして、バベルの塔の下には、重労働に苦しむ人々、労働者とは思えない人々も頭を抱える苦悩に満ちた人々が大きく描かれています。現代世界のバベルの塔の下で苦しむ人間の姿が描かれています。神を喪失した人間の現実を見事に描いていると思います。
 聖霊なる神は、この人間の苦悩、神なき人間の危機を知っているのです。そして、この苦悩に陥ることがないように聖霊が降ったのです。神の御心によって、聖霊なる神が降ったのです。これが聖霊降臨です。私たちはもはや神なき世界ではなく聖霊が降ってこられた世界に生きているのです。共に祈る聖霊なる神がおられます。御言葉をもって導き私たちを生かしてくださる聖霊なる神がおられます。聖霊降臨をご一緒に心に刻み、祈り続けましょう。
 私たちの日常生活は、聖霊なる神が共におられます。働くときも休むときも学ぶときもどんなときにも聖霊なる神が共におられることを感謝して歩みましょう。

祈り
 天の父なる神さま。聖霊なる神の助けにより、苦悩の現実から救い出されていることを心より感謝いたします。主の憐れみによって、御言葉によって支えられ、御名を呼ぶことが出来ますことを感謝いたします。聖霊なる神と共に主の賛美し、御言葉を宣べ伝えることが出来ますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。