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銀座の鐘

きっと神が備えてくださる

説教集

更新日:2022年06月25日

2022年6月26日(日)聖霊降臨後第3主日  主日礼拝 家庭礼拝 伝道師 山森 風花

創世記22章6~14節

 本日私たちに与えられました聖書箇所、創世記22章には、驚くべき小見出しがつけられています。なぜなら、小見出しには、「アブラハム、イサクをささげる」と書かれているからです。この小見出しに書かれている通り、私たちが今目撃している 22 章 6 節〜14 節は、信仰の父と呼ばれているアブラハムが、息子イサクを焼き尽くす献げ物として屠ろうとする、旧約聖書の物語の中でも、最も手に汗を握る、そのような場面です。
 なぜ、本日の箇所において、アブラハムは息子イサクを焼き尽くす献げ物にしようとしているのでしょうか。
 アブラハムがイサクをささげようとした理由について、22章1節〜2節には「1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、 2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と書かれています。つまり、主なる神様からの試みによって、今、アブラハムはイサクを焼き尽くす献げ物としてささげようとしている、と聖書は私たちに伝えるのです。
 2節で「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」と書かれていますが、これは創世記 12 章 1 節において、「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」という箇所を私たちに思い起こさせます。
 アブラハムはかつて、12章において主なる神様からの命令によって、生まれ故郷であるハランから離れた時、父テラと別れ、神様に従いました。神様はこの命令を与えた時、アブラハムに祝福をも与えてくださいました。そのため、彼は故郷から離れ、父親との別れにも耐えることができ、また安心してこの命令に従い、具体的な行き先も分からない旅へと出発する事ができたのではないでしょうか。
 しかし、本日、アブラハムが直面している神様からの命令は、生まれ故郷や父親との距離 的な意味での別れを決意するよりも、さらに厳しいことが求められています。
 何故なら、神様は息子をささげなさいとアブラハムに命令されるからです。それも焼き尽くす献げ物としてささげなさい、とおっしゃるのです。イサクを完全に焼き尽くし、その煙を神にささげなさいという命令を、アブラハムは神様から試みとして今、与えられているのです。
 この箇所を読むとき、私たちは神様からの試みがなんと厳しいものであるのだろうか、と思うと同時に、アブラハムが神様の命令に抵抗する事なく、12 章と同様、すぐに従う姿に驚かされるのです。
 アブラハムが神様に抵抗する事なく、イサクをささげようとする姿を見るとき、アブラハムの人間性を疑う人もいるかと思います。しかし、断言することかできますが、アブラハムは息子をささげることに対して、痛みを覚えないような冷徹な人間ではないのです。
 それは直前の21章からも明らかです。21章において、アブラハムは愛すべき妻サラとの間に待望の息子、イサクが与えられました。サラがイサクを与えられたとき、どれほど大き な喜びに包まれたかについては、6 節の「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」という言葉からも明らかです。では、喜びの言葉が聖書に書かれていないアブラハムは喜んでいないのか、というとそうではありません。8 節に「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。」と書かれている通り、彼は喜びに満ち溢れ、盛大な祝宴をこの息子イサクのために開いたのです。
 彼は息子を愛し、息子のために喜び、悲しむ事ができる私たちと変わらない一人の人間であり、父親だったのです。そのような私たちと変わらない一人の信仰者が、息子を自分の手でささげるという試みの中に立たされているのです。
 アブラハムの心情について、私たちは聖書から何も知る事ができません。しかし、今まさに、この試みによって、信仰の父アブラハムの信仰は、人生において最も揺るがされているのです。何故なら、この愛すべき独り子イサクこそ、アブラハムを諸国民の父にする、という神様から与えられた約束を成就する息子だからです。イサクから生まれる子孫こそ、アブラハムの子孫だと神様は約束されたのにも関わらず、本日の箇所において、神様はこの約束の子イサクをささげよとおっしゃるのです。
 そして、今、アブラハムは、この神様によって与えられた人生最大の試みの中で、焼き尽くす献げ物に用いる薪を息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に持ち、一緒に歩いて行くのです。アブラハムはイサクに話しかけません。しかし、イサクはアブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけるのです。沈黙を貫く父親に対して、お父さんと呼びかけるのです。アブラハムはイサクに「ここにいる。わたしの子よ」と答えます。彼は、これから焼き尽くす献げ物としてささげようとしているイサクに対して、「わたしの子よ」と答えるのです。
 イサクは「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」とアブラハムに尋ねます、当然の質問です。私たちはこのイサクの質問に対して、アブラハムがどのように答えるのか固唾を呑んで、聖書を読み進めていくのです。
 すると、驚くべきアブラハムの答えが聖書には記されているのです。
8節に「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」と書かれている通りです。ここに私たちは、アブラハムの信仰を見るのです。彼は今、人生最大の試みを彼に与えた神に望みをおくのです。「きっと神が備えてくださる」と告白するのです。
 そして、アブラハムがイサクに答えた通り、アブラハムがイサクを縛って祭壇の薪の上に載せ、刃物を取ってイサクを屠ろうとした、まさにその時、神様は黙ってはおられなかったのです。天から御使いを送り、12 節「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが 神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」とアブラハムの信仰を認めてくださるのです。そして、8節のアブラハムが「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」という言葉通りに、イサクの代わりに焼き尽くす献げ物としてささげる一匹の雄羊を 与えてくださったのです。
 主なる神様は、私たちの信仰を試されます。試練を与えます。しかし、試練を与えるとき、父なる神様は私たちに逃れる道をも備えてくださる方なのです。それはコリントの信徒への手紙一 10 章 13 節において、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と書かれている通りです。
 主なる神様が私たちを試みられるのは何故なのか。私たちが苦しむ姿が見たいからなどという理由では決してありません。そうではなく、ヤコブの手紙 1 章 12 節に「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」とあるように、私たちが適格者として認められ、命の冠をいただくために、主は私たちに試みを、試練をお与えになるのです。
 私たちも信仰者として歩むとき、様々な試みに合います。それは避ける事ができません。 しかし、その時、本日の聖書箇所を思い出して欲しいのです。主は私たちのために試みを与え、また、救いの道までをも備えてくださる方なのです。だからこそ、私たちは絶望する必要はないのです。試練の中に、それも、息子を自分の手で殺さねばならないほどの絶望的な試みにあったアブラハムは「きっと神が備えてくださる」と彼が神様から与えられている信仰によって言いました。そして、その言葉通り、救いの道を備えてくださった真実な方こそが、私たちの主なる神様なのですから。

 祈り 天の父なる神さま。あなたは私たちの信仰を精錬するために試みられる方であることを、信仰の父アブラハムの最も過酷な試練の物語から、私たち、聞く事ができました。しかし、主よ。あなたは、試みられる方であると同時に、私たちに備えてくださる方であるということも、今日恵みとして聞く事ができました。私たちもアブラハムと同じように、「きっと神が備えてくださる」と告白し、この地上での歩みを歩んでいく事ができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン 。