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銀座の鐘

愛憎物語と救いの糸

説教集

更新日:2022年07月16日

2022年7月17日(日)聖霊降臨後第6主日  主日礼拝(家庭礼拝) 牧師  髙橋 潤

創世記37章23~36節

 創世記には、アブラハム、イサク、ヤコブそしてヨセフへ続く親子4代に亘る物語が記されています。父ヤコブに溺愛された弟ヨセフに対する兄たちの妬みが爆発寸前です。
 兄たちの妬みの原因は、ヨセフだけが特別に父ヤコブに溺愛されていただけではありませんでした。37章の前半には、「ヨセフは17歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。」「ヨセフは兄たちのことを告げ口した。」とあるように、ヨセフが父ヤコブの知らないことを告げ口したことが明らかになったようです。更には、父ヤコブはヨセフの告げ口を鵜呑みにして、「裾の長い晴れ着」を作って着せたのです。当時の社会において父からの息子への「裾の長い晴れ着」のプレゼントは特別の衣装であり社会的に意味を持っていました。衣服とは常に社会的階層を示す最も目立つ表徴の一つでした。この衣服のプレゼントが意味することは、ヨセフに対してあなたは兄たちと一緒に羊飼いとして働かなくても良いという許可でした。父が息子たちのなかでヨセフだけ「依怙贔屓」していることが正当化され、公に宣言されたのです。ゆえに、兄たちは「ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」のです。父のこの異常な宣言を前に、異論を挟む余地がありませんでした。「話すこともできなかった」という言葉の意味は、深刻な事態を意味します。
 さらに追い打ちをかけるようにして、妬みが兄たちの憎しみを爆発させる決定的夢解き事件が起こりました。ヨセフが見た夢をヨセフが兄たちに直接伝えます。ヨセフが見た夢とは、兄たちの束がヨセフの周りに集まって来て「わたしの束にひれ伏しました」という 夢です。さらにもう一つの夢をヨセフは披露します。それは「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏している」と説明しました。この時はさすがのヤコブでもヨセフを叱りました。「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた」と記されています。
 ヨセフ物語の鍵となる言葉は、「夢」です。ヨセフの夢をめぐって、父ヤコブは「このことを心に留めた」、しかし兄たちはヨセフを益々強く妬み続けました。父と兄たちの違いは、ヨセフに対する感情の違いだけでしょうか。それ以上の違いがあると思うのです。それは、兄たちはヨセフに対する憎悪によって、神の救いの計画が見えなくなっていることを示しているのではないでしょうか。「兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、24 彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。」 兄たちはヨセフを巡る妬みによって、ヨセフの着物をはぎ取り、穴に投げ込んだのです。父ヤコブがいないところでの出来事です。そして神が見ていることも忘れて、感情のままに衝動的にヨセフを殺そうとしたのです。
 創世記は、ヤコブの息子たちの真実の姿を描き出しています。ヤコブの息子たちとは、12部族の代表者です。12部族の代表者たちが神の御心を求めずに感情的に行動していたということではないでしょうか。人間の罪の現実がここに明らかにされています。私たちがヨセフの兄であったなら、同じようにヨセフを穴に投げ込んでいないでしょうか。裾の長い晴れ着をはぎ取っていないでしょうか。少なくとも、心中では何度もヨセフを穴に投げ込み、何度も特別な衣服を引き裂いているのではないでしょうか。

 しかし、聖書は、人の力ではどうすることもできない感情的な行動、衝動的な行動の中に、救いの先手を打っておられたのです。「その穴は空で水はなかった。」とあります。
 イスラエルの気候は日本の四季とは違い、雨季と乾季です。雨期であれば、その穴は水があり、溺れていたでしょう。しかし、穴には水がなかったという御言葉は、神の救いの先手を伝えているのではないでしょうか。この言葉は、もっと積極的に理解しなければならないかもしれません。それは、兄たちの妬みや憎しみによって、神の救いの計画は変えられないということです。兄たちはヨセフを殺そうと考えていました。しかし、ユダすなわちルベンが兄たちを説得して、ヨセフを殺害しないで売ろうと説得しました。
26ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。27それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」兄弟たちは、これを聞き入れた。
 ここにも、神の救いの先手として、ヨセフを救い出すための細い糸が与えられているのです。
29ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった。ルベンは自分の衣を引き裂き、30 兄弟たちのところへ帰り、「あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか」と言った。31 兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。
ルベンにとってもその他の兄たちにとっても、自分たちの計画通りにことは進んでいないのです。衝動的にヨセフの服をはぎ取り、穴に投げ込み、その後、商人たちに売ることもできなかったのです。兄たちの思いつきの計画は失敗におわります。
その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。
 穴の中のヨセフを発見したミディアン人が穴から引き上げ、イシュマエル人に銀20枚で売ったのです。兄たちは一銭の利益も得ることができませんでした。彼らの手元に残ったのは、ヨセフからはぎ取った着物だけでした。
 ここにも神の救いの先手がかすかな光を放っていないでしょうか。ヨセフは命を守られました。エジプトに連れられて行きました。この後、苦労しますが、それ以上に夢解きの力を発揮し、神の救いの先手として、父ヤコブも兄たちもそしてヨセフすら知らない神の救いの歴史が着実に進んでいることに気付かせられる人生を歩み出しているのです。
 ヨセフを巡る父と兄たちの愛憎物語は、現実の修羅場の背後で神さまがヨセフの命を守り、妬みと憎しみに支配された兄たちとの再会まで神のご計画のままに生かされるのです。兄たちの憎しみは、ヨセフを穴に投げ込んだだけです。ヨセフの着物を拾い上げて家畜の血に浸して、父ヤコブに手渡すだけです。ヨセフを懲らしめたり、自分たちの腹いせの的にすることもできなかったのです。そして、最も大きな誤算は、兄たちは、父ヤコブの心を自分たちに向けることができなかったのです。父ヤコブは嘆き続け、誰の慰めも拒んで生きます。ますます、兄たちではなくヨセフを思う心が募るばかりなのです。
 息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」父はこう言って、ヨセフのために泣いた。
 兄たちはヨセフを横取りされ、売り飛ばされただけでなく、父の愛を取り戻すことすら失敗しています。そして、嘆く父の前で、兄たちは再び言葉も失ってしまったのです。
 創世記は、私たちに家族の平和が簡単に壊れてしまい、取り返しのつかない悲劇の家族になることを物語ります。しかし、同時にこの悲劇の中にかすかに見える神の救いを指し示しているのです。ヨセフには夢を解く力が与えられていました。この夢を解く力が、兄たちの妬みを引き出した側面もあります。しかし、夢の意味を軽んじてしまうことによって、神の御心を求めない危険を聖書は指摘しているのではないでしょうか。
 現代の心理学では「精神分析」によって無意識の領域を解明しようとして「夢分析」が提唱されています。意識の領域にはあがってこない欲望や考えがあり、夢の中で無意識の領域に浮上してくる欲望や考えを分析することができると考えているようです。しかし、人間中心の分析に留まってしまっているのが現代の学問の限界でしょう。
 聖書には、夢を通して神の御心を明らかにする知恵があるのです。大切なことは、神が夢を通してでも、救いの道を伝えようとしていることに目を向けることです。罪の現実の中で神の先手、救いの道しるべを見失わないように、私たちの現実を直視することだと思います。私たちの修羅場は、神と無関係ではなく、愛憎物語においてこそ、神の救いの先手が与えられているのです。ヨセフの場合、夢を解くことが、悲劇の源であり同時に神の御心を知る道しるべになっているのです。
 聖書は、平和な家族が小さな妬みから崩れてしまう現実を直視させます。私たちも平和な家族の中で妬みから恨みへ、そして殺意にまでいたってしまうことを理解しなければなりません。私たちの心も、妬みや恨みに支配されてしまうのです。人間の心の深くに妬みがあるのです。人間の心の中にある妬みから悲劇が生まれます。しかし、聖書は、家庭が崩壊する悲劇の中に、神の救いの光を見逃してはならないと私たちに教えています。
 ヨセフがエジプトの宮廷の役人に仕えるように導かれたことにも、救いの糸が見えます。 闇の中に光があります。神の救いのご計画に目を注がせてくださいと祈りましょう。

祈り 天の父なる神さま。ヨセフ物語を通して、人生の修羅場にあなたが御手をもっ て関わってくださることを知り、畏れをもって感謝いたします。私たちが修羅場でこ そ神に信頼し神の御心を求める者となることが出来ますようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン