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銀座の鐘

主にあって強くされなさい

説教集

更新日:2022年07月31日

2022年7月31日(日)聖霊降臨後第8主日 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 近藤 勝彦

エフェソの信徒への手紙6章10~13節

 エフェソの信徒への手紙によって説教してきましたが、いよいよこの手紙の最 終部分になりました。大きく分けるとこの手紙の前半は福音を語り、後半は福音による生活や倫理を語ってきました。そしていよいよ最終段階に入ります。そして「最後に言う」(10節)とあります。この手紙を受け取った教会の人々は皆、「最後に言う」という言葉を聞いて改めて襟を正して聞き入ったのではないでしょうか。私たちもそうしたいと思います。
 最後の言葉は「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」です。「強くなりなさい」は、文字通りには「強くされる」という受動形の言葉で、それが命令法で書かれています。「強くされなさい」と訳すべきところでしょう。 あなたは、あなた自身として強く、強力なものとなりなさいというのではありません。そうでなく「主に依り頼んで」ですが、これは単純に「主にあって」という言葉です。主にある者、主イエス・キリストに捉えられた者として、強くされなさいと言うのです。キリスト信仰者の強さは、自分自身の強さでなく、主イエスにあることによって強くされる強さです。ですから「主イエ スにあって」、「主の偉大な力にあって強くされなさい」と言うのです。
 「主の偉大な力によって強くされる」とはどういうことでしょうか。しかしその前に、なぜこの手紙は最後に当たって「強くされなさい」と言うのでしょうか。最後にこれを言うということは、この手紙全体が結局のところこのことを言うために書かれてきたとも言えるのではないでしょうか。それほど「強くされること」が重大だったのです。なぜでしょうか。それは信仰生活、教会生活が試練の中にあったからです。「邪悪な日」という言葉が言われ、「戦い」と言われます。教会とキリスト者はいまや「邪悪な日」の中の「戦い」にいます。それが手紙の受取手、エフェソの諸教会とその信徒たち、そして著者自身に共通していました。そのことは12節に「わたしたちの戦いは」とあることによって分かります。皆ともに邪悪な日の戦いの中にあったのです。
 その「戦い」は「血肉を相手にするものではない」と言われます。「血肉」とは一人一人の具体的な個人です。しかし教会とキリスト者の戦いは、個々の人たちを相手にする戦いではないと言うのです。ここに使われている「戦い」という言葉は、遠くの敵と距離を隔てて争う戦いではなく、取っ組み合いの肉弾戦です。、つまり戦いの相手と接近し、剣をもって戦う白兵戦を意味する言葉です。しかし戦いの相手は個々人でなく、その人たちを操る背後の支配者、「闇の世界の支配者」と言われます。人間だけが相手であれば、戦いはどんなに深刻であってもたかが知れていると言い得るでしょう。大袈裟に見えても大したことではありません。
 しかしキリスト者の「白兵戦」の相手、本当の意味で敵対しているのは、人間を超えた力であって、パウロは「悪魔」という表現を用いました。悪魔は正体を隠した邪悪な力であり、しかも人間以上の誘惑や策略の力、そして破壊的な力をもってあらゆるものを壊滅に引きずり込みます。ですから教会とキリスト者の戦いは「悪魔の策略に対抗し、「天にいる悪の諸霊を相手にする」と言われています。
「悪魔」についてもう少しお話しますと、キリスト教信仰は悪魔が人格的な存 在としてあると、かならずしも信じるわけではありません。信じる人もいるかも知れませんが、信じない人も多いでしょう。聖書には悪魔の記述が出てきます。しかし重大なのは、悪魔の力は到底神の力に匹敵するようなものではないということです。そこで教会の伝統的な悪魔論は、悪魔は神の被造物である天使が堕落したもの、堕落天使のことだと考えました。天使は人間以上の力を持ちます。 しかし神の被造物であって、神と競って争うようなものではありません。私たちは悪魔という人格的で邪悪な支配者や誘惑者を信じるのでなくとも、神の国のまったき到来になる以前にあっては、人間を脅かす悪魔的な力が世にあることは弁えるべきでしょう。何もかも人間の力で解決できるかのような楽観主義はかえって現実を見誤ります。そして人間を傲慢にしたり、怠惰にしたりするでしょう。
人間の理性を磨くとか、教育を受けることで、文化や文明が発達するとして、それで人生や世界の問題に解決がつくわけではありません。人間の科学や文化・文明の粋が、悪や破壊や非合理な戦争に悪用されるのを見れば、誰も文化・文明や科学が進めば事態は解決するとは考えないでしょう。どんな科学も技術も、どんなにすぐれた学識や知能も、悪魔的な力に利用されるばかりです。現代人はこの文化や文明、人間の知能や技能の弱点、悪魔的な力に利用されるのをよく知っているのではないでしょうか。エフェソの信徒への手紙が記された時代も、人間の文化・文明では越えられない悪や破壊の力によって、人々は脅かされ、世界不安の中におりました。今日も同様でしょう。
 最近、ある教会の牧師からメールをいただきました。秋には修養会を持ちたいということで、どういう題で修養会を持つか相談したそうです。「信仰の継承」や「老いと信仰」といった題も挙げられたそうですが、一番揚げられたのは「危機の中の信仰―戦争や疫病をふまえて」という題であったと言います。エフェソの教会が直面していたその時代の危機、世界不安の問題を私たちの時代も感じています。
 人間を越えた悪魔的な力が人々を脅かすとき、これに対抗して立ち、これに打ち勝つことができるのは、「主にある」ことによってです。エフェソの信徒への 手紙が言うように「主の偉大な力によって」「強くされる」ことによります。 世界不安の時代のなかで、教会だけは不安や無力感に打ちのめされていてはならないでしょう。そうでなく「主にあって強くされなさい」。この御言葉は現代の私たちにもはっきりと向けられています。
 強くされるのは「主にあることによって」ですが、「その偉大な力によって」です。「偉大な力」という言葉は、「強さ」や「力」を意味する言葉が二つ重ねられている言葉です。「主の力ある力」「主の強さの強さ」と訳してよい言葉です。それで「偉大な力」と訳されました。同じ言葉が、すでに 1 章 19 節に出ています。そこでは「絶大な働きをなさる神の力」と訳されています。その力は神の力であって、それがキリストに働き、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に就かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれたと言われているところです。その偉大な力によって神は「すべてのものをキリストの足もとに従わせた」と言われます。ですからキリストの偉大な力、その強さある強さは、キリストが悪魔的な勢力をも従属させて、万物の頭であることを現わしている力です。キリストは万物の頭です。神の偉大な力を帯びた復活者キリスト、そのキリストが教会の頭です。ここにエフェソの信徒への手紙全体の主題があると言ってよいでしょう。主題が万物を従わせるキリストであれば、当然、教会と私たちキリスト者は「その偉大な力によって強くされなさい」と勧められるわけです。
 エフェソの信徒への手紙は、このように最後の勧めを語ります。教会は今、邪 悪な日、戦いの日におかれているからです。それならばこそ、主にあることで強くされるように、不安や無力感から解き放たれ、悪魔的な戦いの相手との肉弾戦においても、主の偉大な力にあってしっかりと立つようにと言われるのです。決して困難な戦いがあるのではありません。キリストにあり続けること、どんな時にもキリストにあり、その偉大な力の中にあることです。それによってしっかりと立つことができます。万物の頭である主にあることがあなたがたを強くします。

 天の父なる神様、主にあって、その偉大な力によって強くされなさいとの御言葉を感謝します。どのような時にも主にある者として、主の偉大な力によって立つことができますように、一筋に主にある信仰に生き抜くことができますように導いてください。今、試練を受けている人、戦いの中にある人、病んでいる人が、「主にあることによって強くされますように」、あなたの憐みの導きを願います。死人の中から復活し、あなたの右に座し、万物を支配しておられる主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。