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銀座の鐘

神の裁きと救いの御業

説教集

更新日:2022年08月06日

2022年8月7日(日)聖霊降臨後第9主日 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 髙橋 潤

出エジプト記12章21~28節

 今年も8月を迎えました。本日与えられた聖書の御言葉は、エジプトの奴隷であった神の民が経験した主の過越の出来事です。この出来事は、その後、ユダヤ教の三大祭りの一つとして「過越の祭」の起源として覚えられることになりました。
 現代の私たちが、聖書の神の民が旧約聖書の時代に1回だけ起こった事件、主の過越しを聖書を通して読むことにはどのような意味があるのでしょうか。過越祭を心に止めることの大切さは、神の裁きと救いが一つになっていることにあります。
 過越の祭の背景には、イスラエルの人々が祝った牧畜や農耕の生活の中で祝われた、家畜の出産や麦やブドウなどの収穫の別々の祭りが背景にあるのです。牧畜と農耕の別々な祭りの参加者がイスラエルの歴史的事件を共通の経験として、覚え続けるようになったのです。過越の祭の中には、大きく分けて三つの要素があります。第一は小羊をほふって、その血を家の入り口の鴨居と柱に塗り、肉は焼いて食べます。第二は種入れぬパンの祭りと呼ばれる、七日間家にパン種をおかないでパン種を入れない膨らまないパンを食べる祭りを行います。第三は初子の奉献です。第一の小羊と第三の初子の祭りは元来遊牧民の祭りです。第二の種入れぬパンの祭りは農耕民族の祭りでした。これら三つの要素が神の裁きと救いの御業によって一つになっているのです。
 過越において重要なことは、これらの三つの要素が出エジプトの事件に結びつけられていることです。本来別々だったと思われる三つの祭りがこの出来事で一つになっていることです。過越の小羊の血と初子の奉献は、イスラエルの初子が死を免れた記念であり、種入れぬパンは取るものも取りあえずエジプトを脱出した記念です。過越の祭によって、遊牧民と農耕民の違いが一つに結び合わされているのです。その上で両方の人々が神の裁きと救いの御業を追体験することになったのが主の過越です。
 出エジプト記12章2節では、主の過越は正月の祭りとされています。今日の暦では、3月から4月頃に当たります。主イエス・キリストが十字架にかかり復活なさった時期の出来事です。過越の祭は、一家族一頭の小羊とされていることから分かるように家の祭りです。小羊が夕暮れにほふられ、家族が集まって過越の食事をします。主イエスが弟子たちを集めた最後の晩餐も過越の食事でした。ヨハネによる福音書では、主イエスが十字架上で息を引き取られたのは、過越の小羊をほふる日の夕暮れであったと記しています。主イエスの十字架は出エジプトのための犠牲として過越の小羊と重ね合わせられているのです。主イエスの十字架において、神の裁きと救いが一つになっているのです。神による救いは、神が御子イエス・キリストの血を流す裁きによって与えられるのです。神の裁きのない救いはありません。キリスト教が救いの宗教であるという場合、神の裁きを隠したり、忘れてはなりません。神の裁きなしの救いを強調してはならないのです。
 「過越」の意味は、家の入り口の鴨居と柱に塗ってある小羊の血を目印に、神の裁きが過ぎ越したという出来事です。神はエジプトの神々をさばき、人から獣に至るまでエジプトのすべての初子を撃たれました。これは、神の裁きです。そして同時に、犠牲の小羊の血を塗った家は、神の裁きから救われました。過越は神の裁きと共に、救いの出来事として覚えなければなりません。
 過越の犠牲の小羊は、焼いて食べます。生で食べないのは、律法の定めによって血を食べないためです。水で煮て食べないのは神にささげる脂肪を食べないためです。朝まで残さないのは、他の神々に食べられないためと考えられています。旅支度をして食べなさいということは、急いでエジプトを出発したことを思い起こすためです。
 今日、過越の祭を礼拝において思い起こし、追体験するのは、過越の小羊と主イエスの犠牲を重ね合わせて、私たちに向けられた神のさばきの矛先が主イエスの血によって、主イエスの流された血潮によって、私たちが死を免れたことを覚える為です。主イエスが十字架上で血を流されたことによって、主イエスが私たちの身代わりとなって神の裁きを受け、私たちは神の裁きのただ中から救われたのです。
 神の裁きがあるからこそ、私たちの救いが実現するのです。この神の裁きによる救いは、誰に与えられているのでしょうか。過越の食事によって食卓を囲んだのは、神の家族です。過越の裁きによって与えられた救いは、神の民イスラエルに与えられ、主イエスを信じる教会に与えられているのです。
 神の救いは、洗礼を通して信仰者一人一人の信仰告白によって与えられます。その意味では救いの単位は個人です。しかし、過越の祭がそうであるように家族が救われ ます。個人の救いと同時に家族の救い、教会の救いが覚えられなければなりません。
 本日の聖書箇所に、親子の信仰の対話が記されています。
「26 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋 ねるときは、27 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を 撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われ たのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。」
 子どもから尋ねられた時、「これが主の過越の犠牲である」「我々の家を救われたのである」と私たちの家を過越し、私たちの家を救われたと答えなさいと教えられて いるのです。神のさばきが過ぎ越すために、過越の犠牲があったことを覚えるのが過 越の食事です。神の裁きは、主イエスの犠牲によって、すなわち主イエス・キリスト の命が犠牲となって、神のさばきが過越、私たちは救われ生かされているのです。こ のことを家族の食事によって記念して、過越の祭によって神の救いを追体験して覚え るのです。それが神の過越しであり、家族の救いの記念とされているのです。
 日本の宗教では、神道であれば鎮守の森というのがあって、そこが聖なる土地でその周りに村が地縁共同体となっています。仏教では、本来、個人一人一人が出家して悟りへ向かう個の宗教と理解されています。しかし、日本では徳川時代に檀家仏教という一つの制度を作り、必ずお寺に名前を登録するという形ができました。檀家制度によってキリシタンがあぶり出され迫害が進んだといわれます。本来、仏教は聖なる人、つまり悟った人ですから個人が悟りの単位になる宗教といえるでしょう。ではキリスト教はどのように理解したら良いでしょうか。出エジプトの出来事では、モーセが神の民を引き連れています。モーセと神の民がいます。そして家族ごとに食事をします。この神の民の姿が現在の教会の原型です。必ずしも血縁による家族に限定するわけではありません。神の民は血のつながった民というより、神の家族に加えられた一人一人です。神を信じる信仰者の集まりとそこに加えられた神の民という、広い意味での家族です。この神の家族には、熱心な信仰者とそれほど熱心ではない信仰者が共存しています。モーセのように柱になる人がいて、その人にかろうじてぶら下がっている様に見える人もいます。私の尊敬する伝道者で北陸で長く伝道していた方の言葉ですが、教会というのは御神輿を担ぐ人々のようなものだと説明しました。御神輿を担ぐ場合、縦横の神輿棒を先頭としんがりで担ぐ人々がいますが、中には担がないでぶら下がったり、神輿の周りで遊んでいる人がいたり、神輿の上に乗っている人までいろいろな人がいて、神輿が進んでいきます。
 モーセが率いた神の民も「種々雑多な人々」と記されています。世界の教会の姿を現していると思います。教会には、様々な人がいます。教会の中心にいる人周辺にいる人がいます。足並みはそろわないのが神の家族、教会です。
 キリスト教学校の生徒たちは、そのほとんどが教会員ではありません。しかし、一人一人の生徒は、私は○○教会と、それぞれの出席教会への帰属意識をもっています。これは、教会員のご家族も同じような帰属意識を感じることがあります。私は洗礼を受けた教会員ではないけれども、教会に繋がっているという気持ちをもっているのです。こうした人々も神の民の一人ではないかと思います。
長い求道生活をしている方々やキリスト教学校、幼稚園、保育園、病院等で働いて いる人々にも、神の民の一人として覚えていきたい方々が少なくないのです。「民は ひれ伏して礼拝した。」
 モーセが率いていた神の民は「ひれ伏して礼拝した。」とあります。神の家族は礼拝共同体です。共に礼拝をする一人一人です。銀座教会でも、人生の一時期どうしても主日礼拝に出席出来ない人があります。正午礼拝に参加されているかたもあります。現在ではオンラインの礼拝を守る方々もあります。ここにも神の家族がいることを覚えたいと思います。この神の家族中から洗礼へと導かれる者が与えられますように心から願い、神さまの導きを祈ります。