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乾いた地を歩む民

説教集

更新日:2022年08月13日

2022年8月14日(日)聖霊降臨後第10主日  銀座教会 主日礼拝 (家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

出エジプト記14章19~25節

 本日与えられました聖書箇所、出エジプト記 14 章 19 節〜25 節は、小見出しに「葦の海の奇跡」と記されているように、神様による驚くべき数々の出来事が記されています。
 この出エジプト記14章は、出エジプト記3章において、モーセが神の山ホレブで主なる神様と出会い、神様から直々に与えられた使命を今まさに果たそうとしている、そのような箇所です。
 モーセが神様から与えられた使命、それは3章10節に記されている「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」という使命です。神様がモーセにこのような使命を与えられたのは、神様ご自身が、エジプトにいる民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知ったゆえ(3章7節)でした。
 しかし、モーセはこの使命を神様から与えられた時、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」(3 11節)と反抗的に答えました。このモーセの反抗的な答えにも関わらず、神様は「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」とお答えになられたのでした。
 「わたしは必ずあなたと共にいる」とモーセにお答えになられた通り、神様はモーセと共にエジプトからイスラエルの民を連れ出されました。そして、神様ご自身が民を苦しめ続けていたエジプトと戦われているのが、この出エジプト記14章「葦の海の奇跡」なのです。
 さて、ここで葦の海が登場しますが、この葦の海は荒れ野の道にありました。この道は、 本来であれば遠回りな道ですが、近道にはペリシテ人が住んでおり、イスラエルの民がペリ シテ人との戦いを目然にしたら、心が折れてエジプトへ戻ってしまうかもしれない、とお考 えになった神様が、この葦の海への道を選び、民を率いたのでした。どのように率いられたのかというと、それは13章21〜22節に「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。 昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」と書かれている通りです。
 このようにして、イスラエルの民は、神様によって導かれて、ペリシテ人などの敵と出会うことなく、意気揚々と進んでいました。しかし、イスラエルの民を去らせることを一度は認めたファラオと家臣たちが「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」(14 章 5 節)と言って、イスラエルの民を追いかけてきたのです。イスラエルの人々は自分たちの最大の敵、エジプト人たちが背後に迫ってくるのを見て、平静を保つことはできずに、非常に恐れて神様に向かって叫びを上げました。
 また、自分たちをエジプトから導き出した指導者であるモーセに対して、「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」(14 章 11 節〜12 節)と非難の言葉を浴びせたのでした。
 民の「エジプト人に仕える方がましです」という非難の声は、追いかけてくるファラオと家臣たちの「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」(14章5節)という言葉を私たちに思い起こさせます。なぜなら、「労役」という言葉は「仕える」と同じ意味を持っている言葉だからです。
 ここで私たちは、イスラエルの民が一体誰に仕えるのか、という出エジプト記のテーマが示されていることに気付くのです。今まさに、イスラエルの民のために働かれる主なる神様に仕えるのか、それともひどい抑圧を彼らに与えて続けてきたエジプトに再び仕えるのか、ということがイスラエルの民に迫られているのです。
 迫り来るエジプト人を見て、恐れたイスラエルの民はエジプトの奴隷に戻ることを求めます。しかし、モーセはこの民たちに対して、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14 章 13~14 節)と答えたのでした。
そして、このモーセの言葉通り、イスラエルの民のために行われた主の救い、また、主ご自身がイスラエルの民のために戦われた出来事こそが、本日の聖書箇所19 節〜25 節に記されているのです。
 この海での奇跡は19節〜20節に「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、20エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。」と書かれている通り、神様の先導によって行われました。そして、このイスラエルの民を先導していた神の御使い、そして、雲の柱がイスラエルとエジプトの間に立つのです。真っ黒な雲が立ち込んだ、とありますから、自然的なものを用いて神様が御業を行った事がわかります。つまり、このことはイスラエルの民の目からだけではなく、エジプト人の目にも見える形で、この御業が行われたということを示しています。
 神様による驚くべき奇跡の出来事は続いていきます。それは 14 章 16 節以下で神様がモー セに、「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。18 わたしがファラオとその戦車 騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」とおっしゃった御言葉が、今まさに成就しようとしているのです。
 14章21節〜22節には、どのようにして神様が海を二つにされたのかについて書かれています。「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」と書かれている通りです。
 主なる神様は、ここでご自身だけで奇跡を行うのではなく、モーセという人間を通して、この海を二つに分けるという奇跡を行われます。また、20 節で雲という自然的なものによって御業を行われたように、ここでも激しい東風という自然的なものを用いて、海の中に乾いた地を造られたのでした。このようにして神様はご自身の力だけではなく、人間の力と自然的な力を用いて、御業を行われるのです。
 ここで、私たちが注目しなければならないのは、海が乾いた地になったということです。乾いた地という言葉は、創世記においてすでに登場しています。それは、主なる神様が天地創造の時に「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」という創世記 1 章 9 節においてと、また、ノアの箱舟の大洪水の後、「ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。」という創世記 8章13 節に書かれている通りです。つまり、水から乾いた地を造られるというのは、神様による創造の行為が行われたことを示しているのです。
 神様によって創造されるもの、それは乾いた地だけではありません。なぜなら、この乾いた地を通って解放される人間をも、神様はここで創造されるからです。神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放するというのは、イスラエルの民を贖うということです。つまり、創造主なる神様こそ、贖い主、救い主でもあられるということが示されているのです。
 闇夜の中で、イスラエルの民たちはこの乾いた地を歩んでいきます。主なる神様が開いてくださった道を従い歩んで行くことで、彼らはエジプトから逃れ、そして、解放されていくのです。そして、この乾いた地という道は、ただエジプトから逃れるための道というわけではなく、イスラエルの民のために戦われた主なる神様に従ってこれから生きていく道でもあります。この乾いた地を進むイスラエルの民を、エジプト軍たちも追いかけてきます。しかし、彼らは、主なる神様によって、かき乱され、戦車の車輪も外され、進みにくくされたのです。おそらく、イスラエルにとっては乾いた地であったものが、ぬかるんだ地へと変えられたのでしょう。
 このように驚くべき数々の出来事を前にして、25 節でエジプト人たちはついに「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」と言いました。14章18 節で、神様が「わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」と言われていた通りになったので す。この後、エジプト人たちは海に飲み込まれ、一人も残ることはありませんでした。こうして主なる神様はまことに勝利者となられ、そして、イスラエルの民は解放され、自由とな り、主なる神様をあがめ、ほめたたえる神の民へと歩み始めることがゆるされたのでした。