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銀座の鐘

信仰の盾を取りなさい

説教集

更新日:2022年09月17日

2022年9月18日(日)聖霊降臨後第15主日 銀座教会 主日(家庭礼拝)

エフェソの信徒への手紙6章16節

 信仰者が身にまとうべき神の武具はすでに三つ挙げられました。「真理の帯」、「正義の胸当て」、そして「平和の福音を告げる準備の履物」でした。本日の箇所は、「なおその上に」と言って、手に取る武器として「信仰」を挙げています。これにさらに 17節で「救いの兜」と「霊の剣」が加えられ、キリスト者の手に取る三つの武器が語られることになります。今朝は三つのうちの最初の武器である「信仰の盾」を取りなさいと言われているところを学びたいと思います。
 キリスト者の生活を思い返し、それが色々な試練や困難の中を歩んでいることを思いますと、「キリストの兵士」という呼び方や「戦闘の教会」という言い方も、大袈裟ではなく、理由があることが明らかです。その中で神の真実が私たちの帯であり、神の義が私たちの中心をまもる胸当てであることは慰められることです。履物として神の平和の福音を告げる伝令のように、その足がしっかりと支えられていることも慰めです。御言葉はなおその上に、信仰を手に取りなさいと続きます。「なおその上に」という言葉は、「すべてにおいて」と訳すこともできる表現です。神の真実の帯も義の胸当ても、福音を告げる準備の履物も、そのすべてにおいてすでに信仰にあって身に着けているものです。真理の帯で身を引き締めるのは、神の真理を信じて、神が真実な方であることに信頼を置くことによってです。義の胸当てをつけるのも神が赦し、義としてくださるのは本当のことと信じることによってでしょう。三つの武具はもうすでに信仰にあってのもので、キリスト者の生活の備え、戦いの武器はすべてにわたって神を信じることによっていると言うべきでしょう。
 しかしそれにもかかわらず、「なおその上に」と訳されていることの意味はあります。信仰によって身に帯びた三つの神の武具の上で、なおもう一つ「信仰の盾」を手に取りなさいと言うのです。キリスト者は主イエス・キリストにあって神を信じています。あなたは信じますか、信じていますかと問われれば、キリスト者は自分の不信仰や信仰の弱さを知りながら、それでも神の赦しを信じ、キリストと御霊の執り成しを信じて、「わたしは信じます」「信じています」と応えるでしょう。しかしその上で「信仰を盾として取りなさい」「信仰の盾を取りなさい」と言われます。あなたは神を信じ、主イエスを信じ、御霊の執り成しを信じている。しかし信じているだけでなく、その信仰があなたの「盾」になっているか、信仰を「盾」として取っているか、「盾」として取りなさいと言うのです。
 盾とあるのは、ここでは丸い小さな小盾ではありません。体全身がその盾の陰に隠される長い盾、大盾です。当時のローマの兵士が用いた大盾からの連想が働いているとも言われます。しかし旧訳聖書もまた大きな盾を知っていました。詩編 91 編 4 節にそれが出てきます。「神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢も恐れることはない」。詩編 35 編にも言われます。「主よ、わたしと争う者と争い、わたしと戦う者と戦ってください。大盾と盾を取り、立ち上がってわたしを助けてください」。
 私たちは主イエスを信じて、信仰生活を生きます。ですから信仰をもっています。 しかし今朝とりわけ聞くべきは、あなたのその信仰が盾になっているか、あなたの全身を信仰の大盾によって守っているかということです。「宝のもち腐れ」という表現が日本語にありますが、私たちがもし漫然と、また漠然と信じているなら、私たちの信仰は「宝のもち腐れ」になってしまうのではないでしょうか。敢えて言いますと、あなたの信仰は役に立っていますか、もっと正確に言うと信仰として本来の力を発揮していますかということです。それには「信仰の盾」を手に取る、信仰を「盾」として持つのでなければなりません。一体どういうことでしょうか。なぜそうしなけばならないのでしょうか。
 それは「火の矢」が飛んでくるからです。「火の矢」が飛んでくるとき信仰本来の力が発揮されなければなりません。古代の戦争では、押し寄せる大群と戦うとき「火の矢」が飛んでくるのは、包囲戦の最後的な決戦の時でした。ペルシャ戦争でアテナイがペルシャに降伏したのも包囲戦によって「火の矢」の攻撃を受けたためと言われます。
 信仰生活でこの火の矢は「悪いもの」によって放たれます。「悪いもの」とは、主 の祈りの中で「われらを試みに合わせず、悪より救いだしたまえ」と祈られる、その 「悪」は同じ言葉で、「悪いもの」「悪魔的な者」です。主の祈りを祈る度に「悪いものの放つ火の矢」を覚え、信仰の盾を取るのです。
 しかし「信仰の盾」とは何でしょうか。私たち自身が信じる、その信仰の行為が盾になるわけではありません。あるいは私たちの信仰の理解、人によって深かったり浅かったりする信仰の理解が盾というのでもないでしょう。信じる人によって強さや大きさが異なる仕方で、信仰の盾があるのでも、ある人の信仰ではうまくいき、他の人の信仰ではうまくいかない、立派な信仰は盾になるが、弱い信仰は盾にならないという話ではないのです。信仰の盾は、たとえどんなに小さな信仰であれ、神に捉えられた信仰です。信仰は私たちが何かを掴むことではありません。そうでなく、神に捕まえられることです。信じるのは、神なしには生きられないはずの私たちが、それにも拘わらず神をないがしろにし、繰り返し神に背きます。しかしそれでも神から赦され、神が捜し出し、見出し、捉えて下さいます。神に知られ、捉えられた、そのことを信じるのが信仰です。信仰の中で働いているのは私ではなく、神です。信仰を盾にするとき、私自身ではなく神が盾になってくださいます。「信仰の盾」とは、神御自身が私たちの盾になってくださる、その神を信じることです。
 創世記 15章にはアブラハムに対する契約の主である神の言葉が記されています。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である』」。信仰の盾を取りなさいという御言葉は、繰り返し新たに神がわたしたちの盾になり、身を守ってくださる、その神を信じよと言うのです。神御自身が盾でいてくださる、その神を信じることが、信仰の盾を取ることです。
 このことから、「それによって悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる」と記されえいる意味も分かります。「悪い者」とは悪魔的なもので、それが包囲戦の攻撃のごとく火の矢を放ってきます。「ことごとく」とあるのは「あらゆる火の矢」「すべての火の矢」と本文にあるからです。火の矢は一本や二本ではありません。さまざまな火の矢、あらゆる火の矢が悪しき者から放たれます。内的な罪の誘惑もあるでしょう。内心に突き刺さる火の矢もあります。外から無理やりに悪に引き込む場合もあるでしょう。怠惰に誘う火の矢もあります。嘘をついて言い抜けようとさせる虚偽の火の矢も、人を高慢にさせる火の矢もあります。オリンピック委員会の理事であれ、内閣総理大臣であれ、悪い者の放つ火の矢を免れることのできる人間はいません。しかしそれだけではないでしょう。信仰を揺るがすあらゆる試みがあり、信仰生活を妨げる世界の出来事もあれば、信仰や教会に対する公然たる妨害が社会的に起きることだってあるでしょう。さまざまな方向から火の矢が飛んでくると言わなければなりません。そのとき信仰者は信仰の盾を取る。
 そして信仰の盾は「火の矢をことごとく消す」と言われます。盾の背後にうずくまってただ矢を防ぐだけではないというのです。しかし通常は、大盾を振り回して、四方八方から放たれる包囲戦の火の矢を消すことができるはずはありません。そんなことはあり得ないことです。しかし信仰の盾を取るとき、神御自身が私たちの盾でいてくださるとき、話は別です。神が盾でいてくださるので、通常の盾がなし得ることを遥かに超えて、神御自身が御力を発揮し、火を消し、戦いに勝利してくださいます。神が御力を発揮してくださる。それがわが身に起きることが信仰の盾なのです。信仰の盾を取って、信仰生活を歩むことができます。それは火の矢を消してくださる神、その憐みの力を信じて歩むことができるということです。

 祈りましょう。憐れみに満ち、全能にいましたもう天の父なる神様、信仰の盾を取りなさいとの御言葉を感謝いたします。悪しき者との戦いの中で、あなた御自身が常にわたしどもの大盾でいて下さり、飛び交う火の矢をことごとく防ぎ、その火を消し去ってくださることを感謝いたします。御言葉に従って、信仰を盾として取り、あなたの恵みの勝利の力を身に覚えることができますように。私たちの群の中で特に厳しい戦に身を置いている兄弟姉妹がおりますなら、あなたの盾の守りの中で揺るぎのない平安を経験し、あなたの勝利にあずかる恵みを確信させてください。私たちのために十字架を負い、死に打ち勝たれた主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。