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銀座の鐘

人生の空しさと神の御手

説教集

更新日:2022年09月24日

2022年9月25日(日) 聖霊降臨後第16主日 銀座教会 主日(家庭礼拝) 牧師 髙橋 潤

ルツ記1章11~19a 節

 ルツの義理の母ナオミは、「わたしの娘たちよ、帰りなさい。」と不幸のどん底から精一杯の声を振り絞り、娘たちが自分の家に帰るように命じて叫んでいます。  
 ナオミは幸せな4人家族でした。夫エリメレクと共に二人の息子マロンとキリオンを連れて、飢饉と不安定な故郷を後にして隣国モアブの地へ移住しました。夫エリメレクは異国のモアブに到着して、4人家族の柱として家族を養うために働きすぎたのでしょうか。原因は記されていませんが、ナオミと二人の息子を残して死んでしまいました。夫亡き後、ナオミは移住地において息子たちを育て上げました。二人の息子は成人し、移住地のモアブの女性と出会い、結婚し家を持ちました。そして約10年の年月を経た頃、二人の息子マロンとキリオンが死んでしまいました。夫を失い、頼りにしていた二人の息子に先立たれたナオミは、息子の妻たちオルパとルツに「わたしの娘たちよ、帰りなさい」とモアブの自分たちの家にそれぞれ帰るように説き伏せているのです。夫に先立たれたあげく二人の息子を失い、天涯孤独の身となったナオミは、自分の不幸を見つめるしかありません。ナオミは、生きる希望を失った自分についてきてはならないと考えました。オルパとルツだけでも幸せになってもらいたいと思いました。ナオミは自分の事よりオルパとルツだけは、不幸をなめ続ける人生に付き合ってもらいたくないと考えたのです。ナオミは自分自身の身の振り方よりも、まずは不幸という火の粉を払うようにして、「わたしの娘」オルパとルツを心配しているのです。ナオミは残された息子の妻たちに対して、自分は何もしてあげられないと自分の 無力を叫びます。こんな私にすがりつくのはやめなさいと命じました。
 やがて、オルパはナオミに「別れの口づけ」して離れていきました。しかし、ルツは「すがりついて離れな」ません。すがりつくルツに対して、ナオミはオルパのように自分の神に帰りなさいと命じます。しかし、ルツは義理の母ナオミに対して、ナオミの声に勝る声で自分の決意を告げました。
 16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行きお泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民あなたの神はわたしの神。17 あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」18 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。
 モアブの女ルツが生きた歴史的背景について、理解したいと思います。ルツ記の時代は、第1章1節に記されているとおり、「士師が世を治めていたころ」です。研究者は、ルツ記の時代は、士師時代末期、ペリシテ人の侵略が始まった前後と説明します。具体的には士師記19章から21章に記されている頃であると考えています。士師記によれば無頼漢による暴力と制裁の物語に示される、時代の不安定さと転換期でありました。しかも追い打ちをかけるように自然災害が襲いかかり、飢饉をのがれるためにも、乳飲み子と妻を思って、意を決して隣国モアブへの移住を決意したのがナオミの夫エリメレクです。移住後まもなく、異郷の地で夫を失い、細腕でナオミが2人の男子を育て上げる苦労は並大抵ではなかったことでしょう。ルツ記はナオミの生活苦は記していません。ナオミの年齢を推測するならば、結婚と子どもの成人までで40歳、息子の死まで10年、50歳は過ぎていたと思われます。12節に記されているようにもう若いといえない歳を迎えていました。2人の息子を与えられたときには、家名を継ぐことを喜んだことでしょう。モアブでは孫を待つ10年を過ごしました。しかし、2人の息子の死は、ナオミの人生が結局徒労に終わってしまったことを 決定づけることになりました。
 ルツ記はナオミを通して人生の虚しさだけを語っているのではありません。そうではなく、人生の虚しさの中で、気付かない大切なことがあることを暗示しています。二人の嫁に帰りなさいと叫んだとき、それしかないと決断したとき、見えていない大切な人がいることを教えていたのではないでしょうか。
 あの日のナオミは、ベツレヘムに帰国する自分がモアブの女ルツを連れて帰ることは、二人にとって大きな負担になると考えたのでしょう。ルツを帰らせて、自分一人で帰国する方が、ルツのためにもナオミのためにも最善の道であると考えたのです。あの日のナオミは、帰国後、ナオミとルツに新しい人生が待っていることは考えもつきませんでした。ナオミが毎日、一日中働いて食べ物をもって帰るルツを待つ生活を送ることなど予想もつきませんでした。ルツがボアズと出会い結婚することなど、ナオミには到底想像出来なかったのです。ルツ記三章のナオミは、円熟した知恵ある女性として描かれています。あの日のナオミには、三章に描かれている勇気と冷静さをもって積極的に行動する美しく老いたナオミ自身の自画像は描けなかったのです。神はナオミの虚しさ、激しい敵意、生きがいの喪失の中で希望を語ります。ルツ記第1章6節と22節の言葉が神の救いのご計画を指し示しています。
 6「主がその民を顧み」22「二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。」ナオミの虚しさの中、隠れた神の眼差しが暗示されています。神のご計画が用意されているのです。飢饉が終わり、大麦の刈り入れがはじまることを伝える言葉でトンネルの出口を示す言葉でルツ記第 1 章が閉じられています。
 虚しさの中に留まり続けるナオミの懐にルツは飛び込んでいきました。ベツレヘムに到着したナオミは、ナオミの帰国にどよめく女たちに「どうかナオミ(快い)など と呼ばないでマラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」と語りました。そのようなナオミのそばに離れずルツが同伴しています。ルツに頼り切ってしまう生活をおくるようになることなど全く予測できないナオミのことばです。夫と二人の息子を失った悲劇のナオミが、心閉ざして見えなくなったのは何でしょうか。それは、神です。神を見失っていることを気付かせたのはモアブの女であったと記されているのです。虚しさに浸り続けるナオミに対して、ルツが語りはじめました。強い意志を持って語ります。ナオミの神とは違う別の神を礼拝していたルツが「あなたの神は私の神」と語りました。虚しさに浸るナオミに対して、あなたの神はわたしの神と語ったのです。
 私たちは、一人一人、人生の虚しさを経験します。人生の虚しさによって神の先手が見えなくなってしまいます。自分の人生は、結局徒労に終わると決めつけてしまうのです。ナオミは、自分の気持ちはルツには理解できないと考えていたと思われま す。人生の虚しさを思うとき、同伴者ルツと神がいることを忘れていたのです。
 私たちは人生の虚しさの中でどうしたらよいのでしょうか。希望を失ったとき、嘆くとき、どうしたらよいのでしょうか。いずれ神を見失ってしまう時が来るかもしれません。その時のためしっかり備えておきたいと思います。その備えが信仰生活で す。
 主イエス・キリストが十字架にお架かりになったとき、弟子たちは十字架から離れ 逃げていました。途方に暮れていました。虚しさの中のナオミの姿と重なります。虚しさに支配されてしまうとき、ナオミも主の弟子たちも、十字架を仰ぐことが必要なのです。人生の虚しさを打ち破るために、人生の虚しさのどん底にいるナオミのために、ルツを同伴させ収穫を用意しているお方がいるのです。生きる意味を喪失しかけた弟子たちのために十字架上で苦しむ主イエスが祈っておられるのです。
 ルツ記を通して、苦難の中で神と隣人を見失うことの問題を知らされています。私たちは苦難に勝利したキリストを仰いでいるのです。どんな苦難を前にしても、どんな虚しさに支配されそうになっても、キリストを仰ぎ十字架の主イエスが私たちの人生の同伴者であることを思い起こせるように、キリストが同伴してくださることを心に刻みたいと思います。日々の祈り、御言葉から恵みを発見する鍛錬を続けたいと思います。

 祈りましょう。天の父なる神さま。ナオミの人生は人ごとではありません。私たちの人生そのものです。生きる意味が見いだせないとき、徒労の人生と決めつけてしまう時、あなたを呼ぶことが出来ますように御言葉を心に刻んでください。主の十字架を思い起こし、御名を呼ぶことが出来ますように、礼拝から礼拝へお導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン